第二章 第二話 ―――命に、貴賤はない―――
ラーテンでの日々はめまぐるしく過ぎていった。
あの一件以来、マリーへの風当たりは少しだけ和らいでいた。リオネルが公然と味方についたこと、そして何よりマリーが日々の講義や実技で着実に結果を出していったことが大きかった。陰口は完全には消えなかったが、面と向かって侮る者は減っていた。
そしてマリーの隣にはいつもリオがいた。
「マリー、これ見てくれ。例の沼地で採れた菌類だ。微量だが神経に作用する毒性がある。だが面白いことに、ごく薄めると逆に痛みを和らげる効果が出る」
リオは暇さえあればマリーのところに来た。毒の標本を持ち込んでは嬉々として語る。マリーもまた、その話に夢中になった。
「毒と薬は紙一重なんですね」
「そうだ。量が全てを決める。同じ物質でも、ひとさじで人を殺し、ひとつまみで人を救う。——お前ならこの感覚が分かるだろう?」
「分かります。すごく」
マリーは心からそう言った。
リオの毒の知識は深く、そして独創的だった。前世の薬理学に通じるものがありながら、この世界ならではの植物や鉱物の知見が加わって、マリーの知らない世界を見せてくれた。
知りたい、とマリーは思った。もっとこの人の知っていることを。
「リオ、その菌類の解毒法、もっと詳しく教えてください」
「いいぞ。その代わり、お前の知ってる催吐処置のコツも教えろ。以前の子どもの件、見事だった。ああいう現場の判断は俺には足りないものでね」
二人はよく似ていた。
身分の枠の外で生きてきたこと。知識を誰かに認められるためではなく、ただ人を救うために積み上げてきたこと。そして目の前の命に、貴賤の区別をつけないこと。
事件が起きたのはそんなある日のことだった。
「大変だ! ヴァロー上級研究員が倒れた!」
研究院に悲鳴のような声が響いた。
ヴァロー上級研究員——研究院の運営を取り仕切る最有力者の一人だ。マリーとリオが駆けつけたとき、彼は自室の床に倒れ、激しく嘔吐し、全身を痙攣させていた。傍らには飲みかけの茶のカップが転がっていた。
リオの表情が一瞬で変わった。
彼はカップに残った液体に携帯していた小瓶の試薬をわずかに垂らした。液はすっと暗い紫色に変わった。
「……毒だ。それも自然の毒物じゃない。精製された人為的なものだ」
リオの声は低かった。
「マリー、これは事故じゃない。誰かが盛った」
周囲がざわめいた。
でもマリーはもうそんなことは聞いていなかった。
彼女の意識はただ一点——倒れている患者の命だけに向いていた。
「リオ、毒の種類は!?」
「おそらくトリカブト系のアルカロイドだ。だが何かが混ざってる。複合毒かもしれない」
「症状の進行が速い。胃洗浄は——いえ、もう吸収が始まってる。リオ、この毒に拮抗する解毒剤、作れますか?」
「やってみる。だが時間が要る」
「時間を稼ぎます。私が」
マリーは即座に動いた。
痙攣する患者の気道を確保し、体位を整え、心拍を確かめる。毒の作用で乱れていく呼吸と心臓を持てる限りの知識で支えた。前世の救急の現場で何度も繰り返してきた処置。検査機器も点滴もない。でも、自分の手と目と頭がある。
リオは調合台に張りついていた。複数の薬草と鉱物を恐ろしい速さで配合していく。彼の指先に迷いはなかった。毒を知り尽くした者だけが持つ確信に満ちた手つきだった。
二人はほとんど言葉を交わさなかった。
それでも完璧に連携していた。マリーが患者の状態を保ち、リオが解毒剤を仕上げる。互いの領分を互いが完全に信頼していた。
どれほどの時間が経っただろう。
「できた! マリー!」
「飲ませます!」
リオが差し出した解毒剤をマリーは慎重に患者の口に含ませた。
そして——待った。
長い、長い時間が過ぎた。
やがて痙攣が和らいでいった。乱れていた呼吸が少しずつ規則を取り戻していく。青ざめていた顔にかすかに血の色が戻った。
「……脈、安定してきた」
マリーがぽつりと言った。
助かった。
リオがふっと肩の力を抜いた。
ヴァロー研究員が落ち着き、ほかの研究員たちに引き継いだあと。
マリーとリオは廊下の隅で二人きりで座り込んでいた。さすがにどっと疲れが出ていた。
「……お前、すごいな」
リオがぽつりと言った。いつもの皮肉っぽさが消えていた。
「俺は毒のことなら誰にも負けない自信がある。だが、あの場で人の命を繋ぎ止める——あれは俺にはできない。お前がいなけりゃ、解毒剤が間に合ってもその前に心臓が止まっていた」
「リオの解毒剤がなければ、私が命を繋いでも結局は助からなかった」
マリーは静かに言った。
「二人だから助けられたんです」
リオはしばらく黙っていた。
それから彼にしては珍しく、まっすぐにマリーを見て言った。
「なあ、マリー。これからも俺と組まないか」
「え?」
「いや、組むとかそういう堅い話じゃない。……なんていうか」
リオは自分でも言葉を探しあぐねているようだった。いつも飄々として何事にも動じない彼が、珍しく不器用に言い淀んでいた。
「お前といると面白い。お前の見ているものを俺ももっと見たい。お前の知っていることをもっと知りたい。……一緒に研究すれば、俺たちはきっと誰も到達したことのない場所まで行ける。そんな気がするんだ」
その赤い瞳にはいつもの翳りはなかった。
知的好奇心なのか。技術への憧れなのか。それとも——もっと別の、本人にもまだ名前のつけられない何かなのか。
リオ自身、それが何なのか分かっていないようだった。
ただ確かなのは。
この少女と、ずっと一緒にいたい。
その思いだけが胸の奥で、静かに、しかし確かに灯っていた。
マリーはその言葉をまっすぐに受け取った。
嬉しかった。心から。
恋愛の意味ではない。マリーにとってリオは、この世界で初めてできた対等な「仲間」だった。知識を分かち合い、同じ志を持ち、身分の壁なんて歯牙にもかけない、かけがえのない相棒。
「はい」
マリーは笑顔で頷いた。
「私もリオともっと一緒に研究したいです。リオの毒の知識、もっと教えてください。私、リオから学びたいことが山ほどあります」
リオは一瞬、虚を突かれたような顔をした。
それからふっと、いつもの皮肉っぽい——けれどどこか照れたような笑みを浮かべた。
「……ったく。調子が狂うな、お前は」
ヴァロー研究員の毒殺未遂、そしてそれを救った平民の娘の話は瞬く間に研究院中に広まった。
あの令嬢たちでさえ、もう何も言えなかった。誰の目にも明らかだったからだ。マリーが研究院の最有力者の命を文字通り救ったことは。
噂は研究院の壁を越えた。
ヴァロー研究員が世話になった町の有力者たちが口々にマリーの名を語った。「ラーテンに、ただ者ではない娘がいる」と。命を救われた子どもの母親も町中でマリーへの感謝を語り続けていた。
いつしかマリーにはひとつの呼び名がついていた。
――『水色の瞳の癒し手』。
澄んだ水色の瞳と、魔法も使わずに次々と命を救うその手腕から、誰が言い始めたのかそう呼ばれるようになっていた。
マリーはその呼び名をこそばゆく思った。
自分はただ、できることをしているだけだ。前世で果たせなかった「もっと多くの人を救いたい」という願いを、この世界で少しずつ叶えているだけ。
でも噂というものは、本人の思いとは関係なく独り歩きする。
そしてその噂は——やがて王都にまで届くことになる。
その男がラーテンを訪れたのは、事件から半月ほど経ったよく晴れた昼下がりのことだった。
マリーが調合室で作業をしていると、ノックの音がした。
「失礼。『水色の瞳の癒し手』というのは君のことかな」
顔を上げたマリーは息を呑んだ。
戸口に立っていたのは、絹のように淡い金髪の青年だった。プラチナブロンドの髪が窓からの光を受けて柔らかく輝いている。切れ長の青灰色の瞳。理知的で隙のない、彫像のような美貌。仕立ての良い、けれど華美すぎない上質な装い。
その立ち姿だけで、ただ者でないことが知れた。
そして青年の口元には、薄い——どこかこちらを値踏みするような皮肉な微笑が浮かんでいた。
「私はシリル」
青年は優雅に名乗った。
「宰相の子息と言えば分かるかな。——もっとも、辺境の村育ちの君に宰相が何たるかが分かればの話だが」
その言葉には明らかな棘があった。
マリーは内心で身構えた。宰相という言葉が記憶の奥を刺激した。けれど今は、それより目の前の人物に集中した。
「……宰相が国の政治の実務を取り仕切る、王様の次に偉い方だということは存じております」
シリルの片眉がわずかに上がった。
「ほう。平民にしては物を知っているな」
「父は宰相として国政を統括し、私はその下で王太子殿下の補佐をしております。——参謀と言った方が分かりやすいか。王太子殿下が思う存分その手腕を振るえるよう、足元の障害を取り除き、必要な駒を見極めるのが私の役目でね」
王太子殿下。
その言葉にマリーの心臓がとくんと跳ねた。
王太子。第一王子。……アルフレード。
この目の前の青年は——あの人の側近。
マリーの動揺をよそに、シリルはゆっくりと調合室に足を踏み入れた。優雅な、けれど油断のない足取りで、彼はマリーの周囲を一周し、作業台の薬草や器具を無遠慮に眺めた。
「ヴァロー研究員の毒殺未遂を平民の小娘が救った。しかも魔力ひとつ使わずに。——その話がわざわざ王都の私の耳にまで届いた。面白い話だと思ってね。真偽を確かめに来た」
シリルはひとつの薬草をつまみ上げ、光にかざした。
「だが来てみれば、ずいぶんと大層な呼ばれ方をしているじゃないか。『水色の瞳の癒し手』、ねえ。——平民の小娘がひとつ命を救った程度で、ここまで持ち上げられる。少々、気味が悪いとは思わないか?」
その青灰色の瞳がすっとマリーに据えられた。冷たく、底の見えない目だった。
「私はね、こういう『急に現れて、急に持ち上げられる人間』というのがどうにも信用できないんだ。たいていの場合、その裏には何かがある。野心か、後ろ盾か、あるいは——もっと厄介な何かが」
マリーはまっすぐにその視線を受け止めた。
恐れはなかった。やましいことなど何もない。
「何もありません」
マリーは静かに言った。
「私はただ、目の前の人を助けたいだけです。それ以上のことは何も」
「ふん。誰もがそう言う」
「では、お聞きします」
マリーは一歩も引かなかった。
「あなたはヴァロー研究員に毒を盛ったのが誰なのか、それを調べに来たのでしょう。事件には政治の匂いがする。だから、わざわざ宰相の子息であるあなたが直々に。違いますか」
シリルの微笑がわずかに止まった。
「……ほう」
「犯人が誰なのか、私には分かりません。そして正直に言えば——興味もありません」
マリーの言葉にシリルの目がすっと細められた。
「興味がないだと?」
「私の仕事は命を救うことです。誰がなぜ毒を盛ったのか、それを暴くのはあなた方の仕事でしょう。私は運ばれてきた命が、貴族だろうと平民だろうと、善人だろうと悪人だろうと、ただ救う。それだけです」
部屋に沈黙が落ちた。
シリルはしばらくの間、値踏みするようにマリーを見つめていた。その理知的な瞳の奥で、何かを素早く計算しているようだった。
この娘は使えるのか。それとも危険なのか。野心はあるのか。王子に近づく気は。腕は本物か——。
やがてシリルはつまみ上げていた薬草をそっと作業台に戻した。
「……面白い」
その微笑がほんの少しだけ質を変えた。さっきまでの人を試すような冷たさとは違う、何かを見定めようとするような色が混じっていた。
「命に貴賤をつけない、か。きれいごとだ。だが——そのきれいごとを本気で言っている人間を、私は久しぶりに見た」
シリルは踵を返した。
「覚えておくといい、癒し手殿。私はまだ君を信用したわけじゃない。君が本物か、それともただの危険な野心家か——これからじっくり見定めさせてもらう」
そして去り際に、彼は振り返らずにこう付け加えた。
「だが、もし君の腕が本物なら。——いずれ王都が君を必要とする日が来るかもしれないな」
扉が静かに閉まった。
マリーはしばらくその場に立ち尽くしていた。
三人目だ。
シリル。宰相の息子。王太子の参謀。皮肉屋で切れ者の——RCFの攻略対象。
また出会ってしまった。
そして今度の相手はこれまでの二人とは違った。テオやリオのようにマリーの隣に並ぶ者ではない。彼はあの人の——アルフレードのすぐ傍にいる人間だった。
王都が近づいている。
マリーは自分の手のひらをそっと握りしめた。
あの人に繋がる糸が、また一本、手元にたぐり寄せられた気がした。
会いたい。
会いたくない。
相反する思いを抱えたまま、マリーは閉じた扉を長いこと見つめていた。




