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平民なので王都には行けませんが、なぜか推しキャラが私を追いかけてきます  作者: 獅子の舞子


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第二章 第一話 ―――その瞳は、身分を映さない―――

 ラーテンの町は、エルダ村とはまるで違う世界だった。


 石畳の通りに、二階建て、三階建ての建物が立ち並ぶ。市場には見たこともない品々が溢れ、人々が行き交い、馬車が石畳を鳴らして走る。村しか知らなかったマリーにとって、その喧騒は圧倒的だった。


 半月の旅を経て、マリーは一人、この町にたどり着いた。テオは一足先に発っていたが、ラーテン医療研究院への推薦状は確かに託されていた。


 町の中心にそびえる、灰色の石造りの建物。あれが研究院だ。


 マリーは荷を背負い直し、そちらへ歩き出した。


 そのときだった。


「だ、誰か! 誰か助けて!」


 悲鳴が、通りの向こうから上がった。


 マリーの足は、考えるより先に動いていた。


 人だかりの中心で、若い母親がぐったりした幼い子どもを抱きかかえていた。三歳ほどの男の子だ。顔は青ざめ、口の端から泡のような唾液が垂れ、小さな身体が小刻みに痙攣している。


「この子、急に……っ。さっきまで元気だったのに、草むらで何か口に入れて……!」


 母親は半狂乱だった。周りの大人たちは、ただおろおろと見ているだけだ。


 マリーは膝をついて、子どもの傍に屈み込んだ。


「お子さんが口に入れたもの、これですか」


 マリーは、子どもの手に握られたままの、潰れた赤い実を見た。艶のある、小さな実。葉の形、実の付き方——記憶の中の知識が、瞬時に答えを出した。


 ――ベラドンナに似た毒の実。アルカロイド系の毒。瞳孔が開き、心拍が乱れ、痙攣を起こす。放っておけば、呼吸が止まる。


 マリーは冷静だった。前世で何度も見た、急性中毒の症状。


「桶と水を! それと、塩をできるだけ多く! 走って!」


 その声に、気圧されたように一人の男が駆け出した。


 マリーは子どもを横向きに寝かせ、気道を確保した。痙攣で舌を噛まないよう、指で口の中を確かめる。脈を取る。速く、乱れている。一刻を争う。


 運ばれてきた塩水を、マリーは手早く飲ませた。胃の中の毒を、少しでも早く吐き出させなければならない。背中をさすり、適切な角度で身体を支える。やがて子どもは、口にした実を吐き戻した。


 マリーはなおも処置を続けた。残った毒の吸収を抑えるため、持っていた炭の粉を水に溶かして含ませる。痙攣が治まるまで、子どもの呼吸を一度も見逃さなかった。


 どれほどの時間が経っただろう。


 やがて、子どもの顔に、少しずつ赤みが戻ってきた。痙攣が止まり、呼吸が落ち着いていく。


「……ぅ、……かあ、さ……」


 子どもが、か細い声を漏らした。


 母親が、わっと泣き崩れた。


「ああ、ああ……っ、ありがとう、ありがとうございます……!」


 マリーは、ふっと息をついた。額に、汗がにじんでいた。


「もう大丈夫。でも、念のため今日一日は様子を見てあげてください。水をたくさん飲ませて、また具合が悪くなったらすぐに医者へ」


 そう言って、マリーは立ち上がった。


 そのとき、初めて気づいた。


 少し離れた場所に、一人の青年が立って、こちらをじっと見ていることに。






 黒髪の青年だった。


 無造作に伸びた黒髪の下に、暗い赤色の瞳がのぞいている。ガーネットのような、翳りのある赤。年の頃は二十歳前後か。仕立ては悪くないが着崩した上着に、気だるげな立ち姿。皮肉っぽい笑みを口の端に浮かべて、青年はゆっくりと近づいてきた。


「見事なお手前だ」


 青年は、地面に落ちた赤い実を拾い上げ、指先でつまんで眺めた。


「ヴェルナの実。子どもがよく間違える。甘そうな見た目をしているくせに、中身は立派な神経毒だ。——塩水で吐かせて、炭で吸着。教科書通り、いや、教科書よりも速い判断だった。あんた、医者か?」


「……いえ。まだ、です」


「まだ?」


 青年は片眉を上げた。


「これからラーテンの研究院に入るんです。推薦をいただいて」


「へえ」


 青年は、もう一度マリーを眺めた。値踏みするような、けれどどこか面白がるような目だった。


「珍しいな。あんたみたいなのが推薦されるとは」


「……平民だから、ですか」


 マリーが少し身構えると、青年は意外そうに、それから愉快そうに笑った。


「いや。腕がいいのに、それを鼻にかけない人間は珍しい、という意味だ。さっきのあんた、礼を言われても顔色ひとつ変えず、淡々と注意事項だけ告げて去ろうとしただろう。あれは、何度も人を救ってきた人間の振る舞いだ」


 マリーは、返す言葉に詰まった。


 青年は、拾った実をぽいと投げ捨て、踵を返した。


「ま、研究院でまた会うだろうさ。せいぜい潰されないようにな。——あそこは、あんたみたいなのが一番嫌われる場所だ」


 その言葉の意味を、マリーはすぐに知ることになる。







 ラーテン医療研究院は、想像していたよりもずっと、冷たい場所だった。


 マリーが平民であること、魔力を持たないこと、そして辺境の村から来たことは、入った初日のうちに知れ渡った。


「平民ですって? まあ、読み書きはできるのかしら」


「村で擦り傷を治した程度で、推薦をもらえるなんてねえ」


「どうせ、誰かに取り入ったんでしょう。あんな顔をしていれば、男の一人や二人」


 研究院に集う者の多くは、貴族の子弟か、裕福な商家の出だった。彼らにとって、後ろ盾もなく、魔力もない平民の娘が——しかも人目を引く美しさを持った娘が——同じ場所にいることが、我慢ならないようだった。


 マリーは、何も言い返さなかった。


 前世で、もっと理不尽な目には遭ってきた。陰口くらいで動じるほど、柔ではない。ただ黙って、自分のすべきことをした。講義を聴き、書物を読み、標本を観察し、ひたすら学んだ。


 でも、それがまた、気に入らない者たちの神経を逆撫でした。






 ある日のことだった。


 マリーが調合室で薬草の分類をしていると、数人の学生が入ってきた。先頭に立つのは、侯爵家の令嬢だという、ひときわ気位の高い娘だった。


「ねえ、あなた」


 令嬢は、マリーの手元の作業を、つかつかと歩いてきて——わざと、薙ぎ払った。


 乾燥させた薬草が、床に散らばった。半日かけて分類したものだった。


「あら、ごめんなさい。平民の手仕事なんて、どうせ大したものじゃないでしょう?」


 くすくすと、取り巻きが笑った。


 マリーは、静かに膝をつき、散らばった薬草を拾い始めた。


 言い返しても、無駄だ。この手の相手は、反応すればするほど面白がる。マリーは黙って、ただ薬草を拾った。


 その、屈服したような姿が、令嬢をさらに調子づかせた。


「ほんと、惨めね。そうやって一生、人の足元で——」


「——おい」


 低い声が、割って入った。




 戸口にあの黒髪の青年が、気だるげに寄りかかって立っていた。


 リオネル。後にマリーは、彼の名をそう知る。


「リ、リオネル様……」


 令嬢の顔が、わずかにこわばった。没落しかけたとはいえ、相手は元伯爵家。侯爵家の令嬢にとっても、無下にはできない相手のようだった。


 リオネルは、ゆっくりと部屋に入ってきた。床に散らばった薬草を一瞥し、それからマリーを見て、最後に令嬢に視線を移した。


「侯爵令嬢ともあろう人が、ずいぶんと暇なことをしているな。人の作業を台無しにして、笑い者にして。それがあんたの『高貴な血』のすることか?」


「な……っ、これはただ、平民の分際で生意気だから」


「分際、ね」


 リオネルは、薄く笑った。けれどその赤い瞳は、まるで笑っていなかった。


「俺は、身分で人を測る奴が、心底嫌いでね」


 部屋の空気が、ぴりっと張り詰めた。


「いいか。位や家柄なんてものはな、本人が一秒たりとも努力して手に入れたものじゃない。たまたまそういう家に生まれた、それだけのことだ。そんなもので胸を張る奴ほど、中身が空っぽと相場が決まっている」


 令嬢が、屈辱に顔を赤らめた。


 リオネルは、構わず続けた。


「それと。——この娘の腕を、俺は見た」


 マリーは、はっと顔を上げた。


「毒の実を口にして死にかけた子どもを、こいつが一人で救った。ヴェルナの神経毒だ。あんた、ヴェルナと聞いて何の毒か即座に分かるか? 吐かせるべきか、吐かせちゃいけないか、判断できるか? できないだろう。だが、こいつはやった。一人で、迷いなく、子どもの命を拾い上げた」


 部屋が、しんと静まり返った。


「『擦り傷を治した程度』だと?」


 リオネルの声が、低く響いた。


「俺はな、こいつが人を救うところをこの目で見たんだ。あんたたちが陰で笑っている間に、こいつは一つ命を救っていた。——どっちが医療を学ぶに値する人間か、言わなくても分かるよな?」


 令嬢は、もう何も言い返せなかった。屈辱に唇を噛み、取り巻きを連れて逃げるように部屋を出ていった。


 静寂が残った。


 マリーは、床に膝をついたままリオネルを見上げていた。


「……ありがとう、ございます」


「礼はいらない」


 リオネルは、しゃがみ込んで散らばった薬草を拾い始めた。当然のように、マリーの作業を手伝いながら。


「俺はただ、ああいう手合いが我慢ならないだけだ。身分や肩書きで人を見て中身を見ない。そういう奴らが、どれだけのものを踏みにじってきたか——俺は、よく知っている」


 その横顔に、一瞬、深い翳りがよぎった。


 でもそれは本当に一瞬で、すぐにいつもの飄々とした表情に戻った。


「リオネルだ。リオでいい。毒を研究している」


「マリーです」


「知ってる。さっき子どもの母親が、何度もあんたの名を呼んで拝んでいたからな」


 リオは口の端で笑った。皮肉っぽい、けれどどこか温かい笑みだった。


「あんた、面白いな。平民で、魔力もなくて、それでこの研究院で誰よりも腕がいい。——気に入った。仲良くしようぜ、マリー」


 差し出された手を、マリーは少し戸惑いながら握り返した。


 身分も、立場も、何も関係ないというように、リオの手はあっさりとマリーの手を握った。






 その夜、宛がわれた狭い寄宿の部屋でマリーは一人天井を見上げていた。


 リオネル。


 ……リオネル。


 また、だ。


 マリーの胸に冷たい予感がゆっくりと広がっていく。


 毒を研究する、没落した元伯爵家の次男。黒髪に、赤い瞳。皮肉屋で、けれど身分を嫌い、人柄で人を見る——。


 知っている。この設定を、私は知っている。


 RCFの攻略対象。没落貴族の毒の研究者、リオネル。


 テオに続いて、二人目だった。


 偶然、では片付けられなかった。攻略対象が一人なら、同じ名前の他人かもしれない。でも、二人。二人とも、名前も、容姿も、背負った設定も、ゲームのキャラクターと寸分違わず一致している。


 マリーは、ぞくりとした。


 ここは、RCFの世界だ。


 もう、認めるしかなかった。前世で死んで、生まれ変わった先が、よりにもよって、あの大好きだったゲームの世界だった。そんな、信じがたい話が、本当に起きていた。


 でも、それは——歓喜ではなかった。


 マリーが感じたのは、もっと冷たい、得体の知れない恐怖だった。


 なぜなら。


 ヒロインでもない、ただの平民の自分がこうして次々と攻略対象たちに出会っている。本来なら、接点などあるはずのない人々と。まるで、見えない何かに糸を手繰り寄せられているかのように。


 この先も、出会ってしまうのだろうか。残りの攻略対象たちと。


 そして——あの人にも。


 冷えた銀の瞳を持つ、あの第一王子にも。


 マリーは、毛布を握りしめた。


 会いたい、という思いと、会うのが怖い、という思いが胸の中でせめぎ合っていた。


 窓の外で見知らぬ町の夜が静かに更けていった。

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