第一章 第四話 ―――行きなさい、もっと遠くへ―――
テオは、それから半月ほど村に滞在した。
昼間、マリーはテオを連れて村の周辺を歩いた。森の奥、川沿い、岩場の陰。どこにどんな植物が生え、どの季節にどう変化するか。マリーが説明するたびに、テオは目を輝かせ、夢中で書物に書きつけた。
「君は本当に面白い。この地域固有の植生をここまで把握している人間が、まさか王都の外にいるとはな」
テオは率直だった。お世辞ではなく、ただ感心したことをそのまま口にする。世間知らずゆえの裏のなさが、かえって心地よかった。
マリーもまた、テオとの会話を楽しんでいた。
長い間、薬草の話を対等にできる相手などいなかった。ゴットフリートは師匠であって、議論する相手ではない。村人は患者であって、知識を分かち合う仲間ではない。
テオは違った。マリーが投げた問いに、テオはより深い知見で返してくる。そのたびにマリーの中の、ずっと眠っていた知的な部分が、生き返っていくようだった。
前世で医学を志した、あの頃の感覚に、少しだけ似ていた。
「マリー」
ある日の夕暮れ、薬草を干しながら、テオがふと言った。
「王立魔法院に来ないか」
マリーは手を止めた。
「魔法院には、世界中の知識が集まっている。薬草学も、医術も、君がここで独学してきたものとは比べ物にならないくらい、体系化された学問がある。君ならきっと――いや、君だからこそ、そこで学ぶべきだ!」
テオの若草色の瞳が、まっすぐにマリーを見ていた。そこには知的な興奮だけではない、何か別の、本人も気づいていなさそうな熱が、かすかに混じっていた。
マリーの胸が、小さく跳ねた。
体系化された医術。世界中の知識。
それは確かに、魅力的な響きだった。前世で叶えられなかった「もっと深く学びたい」という渇望が、胸の奥でうずいた。
でも。
「……テオ。ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「魔法院って、魔力を持つ人のための場所ですよね…」
テオが、虚を突かれたように口をつぐんだ。
「私には、魔力がありません。一切。生まれつき、まるでない平民です。そんな人間が、魔法院に入れるんですか」
テオは言葉に詰まった。彼は今の今まで、そんな当たり前のことに、まるで思い至っていなかったのだ。マリーの知識に夢中になるあまり、彼女が魔力を持たない平民であるという事実が、すっぽりと頭から抜け落ちていた。
「……それは」
テオは珍しく口ごもり、それからばつが悪そうに視線を泳がせた。
「すまない。私としたことが、考えが及んでいなかった。確かに、魔法院は魔力を持つ者のための機関だ。魔力のない者は……入れない」
マリーは、小さく笑った。落胆はなかった。最初から、わかっていたことだ。
でも、テオは諦めなかった。しばらく難しい顔で考え込んでいたが、やがて、はっと顔を上げた。
「それなら――ラーテンはどうだ」
「ラーテン?」
「ラーテン医療研究院。魔法院の系列だが、あそこは魔法を扱わない。純粋に、薬草学と医術だけを研究する施設だ。なにしろ魔法は、人を癒すことができないからな。だからこそ、医術を究めるための場所が、別に要る」
マリーは、瞬きをした。
「魔法は、人を癒せない……?」
「ああ。知らなかったか」テオは当然のことのように言った。「魔法というのは、火を熾し、風を起こし、物質の形を変える――つまり、外側の世界に干渉する力だ。だが、生身の人体の内側には、どうやっても届かない。傷を塞ぐことも、病を治すことも、魔法には決してできない」
テオの声が、ふと、静かになった。
「私たちは、魔法で人を焼くことも、凍らせることも、吹き飛ばすこともできる。だが、たった一つの風邪すら、治してやることはできないんだ。――魔法で殺すことはできても、生かすことはできない。昔から、そう言われている」
マリーは、しばらく言葉を失っていた。
そうか、とマリーは思った。だからこの世界には、医術が要るのだ。だから前世の知識が、ここまで価値を持つのだ。魔法という超常の力をもってしても届かない領域を、薬草と技術が、ただ地道に埋めていく。
胸の奥が、不思議と熱くなった。
「ラーテンなら、魔力は要らない。必要なのは、知識と、腕と、人を救いたいという意志だけだ。平民でも、才能を認められれば入れる。私が推薦状を書こう。君の腕は、私が保証する」
テオの言葉には、揺るぎない確信があった。
マリーの胸が、強く脈打った。
行きたい、と思った。前世で果たせなかった夢の続きが、すぐそこにある気がした。
でも。
「……ありがとう。でも、私は」
マリーは、干した薬草に視線を落とした。
「祖母がいるんです。あの人を置いては、行けない…」
テオは少し黙ってから、「そうか」と言った。残念そうだったが、無理強いはしなかった。
「気が変わったら、いつでも言ってくれ。私はしばらく、この近隣の植生を調べているから」
マリーは頷いた。
心は揺れていた。でも、答えは決まっていた。
祖母の傍を離れるなんて、考えられなかった。
異変は、その数日後に訪れた。
朝、祖母が目を覚まさなかった。
いや、正確には、目は覚ましていた。でも、ぼんやりとして、マリーの呼びかけへの反応が鈍かった。額に手を当てると、燃えるように熱かった。
マリーの全身が、ぞっと冷えた。
すぐに診た。脈、呼吸、顔色、腹部。前世の知識が、冷徹に状態を読み取っていく。
――まずい。
高熱、激しい腹痛、そして触診でわかる、腹部の異常な硬さ。
マリーの脳裏に、いくつもの病名が浮かんだ。前世であれば、検査をして、点滴をして、場合によっては手術をして。救える可能性のある状態だった。
でも、ここには何もない。
メスはあっても、麻酔も、輸血も、抗生物質もない。腹を開いたところで、この衛生状態では感染で命を落とす。
マリーは手持ちの薬草を、すべて引っ張り出した。
解熱の薬を煎じた。痛みを和らげる薬を作った。炎症を抑えるために、考えうる限りの調合を試した。テオも手伝った。彼の植物学の知識を総動員し、二人で夜通し看病した。
テオは一度だけ、苦しげに呟いた。
「私の魔法が、人を癒せるものだったなら」
でも、それは叶わぬ願いだった。彼の魔法は、火を熾し、風を呼び、物質を変じることはできても、弱っていく一人の老婆の命には、指一本触れることができなかった。魔法とは、そういう力だった。
マリーは、何も言えなかった。
でも。
祖母の容体は、ゆっくりと、確実に、悪くなっていった。
三日目の夜。
マリーは悟っていた。医師として。
もう、長くない。
どんな薬も、もう祖母の身体には届かない。できることは、ただ、苦しみを和らげることだけ。
それを認めるのは、医師としての判断のはずだった。前世で何度も下してきた、冷静な見極めのはずだった。
なのに、涙が止まらなかった。
患者ではなかった。この人は、患者ではなかった。
目を覚ましたあの朝、最初に微笑みかけてくれた人。粥を作ってくれた人。どこで知識を得たのか問い詰めず、ただ手を握ってくれた人。
マリーの、この世界でたった一人の、家族だった。
その夜更け、祖母が、ふっと目を開けた。
熱に潤んだ瞳が、マリーを捉えた。意識が、わずかに戻っていた。
「マリー…」
「おばあちゃん!!!」
マリーは祖母の手を握った。骨ばって、軽くなってしまった手だった。
「泣いてるのかい」
「……泣いてない」
「嘘が下手だねえ」
祖母は、かすかに笑った。
マリーは唇を噛んだ。泣くまいとしても、涙が頬を伝った。
「おばあちゃん、私……わたしっ…。あんなに勉強したのに。あんなに……たくさんの人を治してきたのに。一番、助けたい人を……っ…」
声が震えた。前世も含めて、何百人と患者を診てきた。でもこの瞬間ほど、自分の無力さを呪ったことはなかった。
祖母は、ゆっくりとマリーの手を握り返した。弱々しく、けれど確かに。
「いいかい、マリー。よくお聞き」
穏やかな声だった。
「あんたはね、あたしの孫とは思えないくらい、聡明な子だよ。賢くて、優しくて、人を助けることに、迷いがない。あたしはずっと、不思議に思ってた。なんでこんなにできた子が、あたしなんかの孫に生まれたんだろうって」
「そんなこと!」
「最後まで聞きな」
祖母の目は、まっすぐにマリーを見ていた。澄んでいた。
「あんたはね、こんな小さな村にいる子じゃない。あたしにはわかる。あんたは、もっとたくさんの人を救う子だ。立ち止まる子じゃない」
マリーの涙が、ぼたぼたと祖母の手に落ちた。
「行きなさい、マリー。もっと遠くへ。あんたを必要としてる人が、この世界には、まだたくさんいる」
「……いやだ」
マリーは、子どものように首を振った。十四歳の身体に宿った三十五年分の理性も、医師としての冷静さも、このときばかりは、どこかへ消えていた。
「おばあちゃんがいなきゃ、私……」
「大丈夫」
祖母は微笑んだ。
「あんたは、強い子だから」
その手が、そっとマリーの頬に触れた。涙を拭うように。
「ありがとうね、マリー。あんたが孫で、あたしは本当に……幸せだった」
そうして祖母は、もう一度だけ、ゆっくりと微笑んで――
静かに、目を閉じた。
握っていた手から、力が抜けていった。
マリーは、その手を両手で包んだまま、声を上げて泣いた。
医師でも、薬師でもなく、ただ祖母を喪ったひとりの子どもとして。
窓の外では、夜が、しんと更けていた。
葬儀は、村のしきたりに従って、ささやかに行われた。
村の誰もが祖母を悼み、そしてマリーを案じた。ルカは何も言わず、ただ傍にいてくれた。ゴットフリートは葬儀には間に合わなかったが、後日訪れて、墓前で長いこと黙って立っていた。
テオは、村に残っていた。
別れのとき、テオはマリーから少し離れた場所に立っていた。二人の最後の時間を、邪魔しないように。けれど、葬儀のあと、墓の前で立ち尽くすマリーの背中が小さく震えているのを見て、テオは静かに歩み寄った。
そして、何も言わずに、隣に立った。
慰めの言葉も、励ましの言葉もなかった。ただ、そこにいた。マリーが泣き止むまで、ずっと。
どれくらい、そうしていただろう。
日が傾き、墓地に長い影が伸びても、テオは動かなかった。マリーがしゃくり上げるたびに、ほんの少しだけ、距離を詰めた。けれど決して、急かさなかった。
やがて、マリーの膝から力が抜けて、その場に崩れ落ちそうになった。三日三晩の看病と、流し続けた涙で、身体はとうに限界だった。
とっさに、テオの腕が伸びた。
マリーの肩を、そっと支える。
その手は、薬草の頁をめくるときのような優しさで、けれど確かな力で、マリーが倒れないように支えていた。
「……無理に泣き止まなくていい」
テオの声は、いつものまくし立てるような調子ではなかった。低く、静かで、不器用だった。
「私は、こういうとき、何を言えばいいのか分からない。気の利いたことは言えない。昔から、人の心というのが、いちばん苦手な分野でね」
マリーは、テオの腕の中で、小さく息を呑んだ。
「でも」
テオは、言葉を探すように、ゆっくりと続けた。
「君が泣き止むまで、ここにいることはできる。それくらいしか、できないが」
その不器用さが、かえって、マリーの胸に沁みた。
着飾った慰めよりも、ずっと。
マリーは、テオの腕に、そっと身体を預けた。張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ。そして、こらえていた嗚咽が、もう一度、堰を切ったようにあふれ出した。
テオは、何も言わなかった。
ただ、マリーが落ち着くまで、その細い肩を支え続けた。風が二人の間を吹き抜け、墓標の野花を揺らしても、テオはそこから動かなかった。
自分の中に芽生えたこの感情が何なのか、テオ自身、まだ言葉にできずにいた。ただ、この少女が泣いているのを見ていると、胸の奥が、ひどく痛んだ。それだけは、確かだった。
「……テオ」
しばらくして、マリーは掠れた声で言った。
「ラーテンの話。まだ、有効…ですか?」
テオは、少し驚いたように目を見開いた。それから、静かに頷いた。
「ああ。もちろんだ」
マリーは、涙の跡が残る顔で、まっすぐ前を見た。
祖母を救えなかった。あのとき、もっと知識があれば。もっと技術があれば。設備があれば、薬があれば――救えたかもしれない。
もう二度と、こんな思いはしたくない。
目の前で大切な人を失う無力さを、二度と味わいたくない。
そのためには、学ばなければ。この世界でも、もっと深く、もっと遠くまで。
それが、祖母の最期の願いでもあった。
「ラーテンに行きます」
マリーは言った。
「あの研究院で、もっと学びます。もっとたくさんの人を、救えるように」
風が、墓標の野花を揺らした。
空は、よく晴れていた。
マリーは、その青さを見上げた。
いつか転生したばかりのあの朝、藁葺きの窓から見上げた、あの空と同じ青さだった。
あのとき傍にいてくれた人は、もういない。
でも、その人がくれた言葉は、確かに胸の中にあった。
――行きなさい、マリー。もっと遠くへ。
マリーは、涙を拭った。
そして、顔を上げた。




