第一章 第三話 ―――その名前を、私は知っている―――
雪が解け、エルダ村に春が来た頃、ゴットフリートは約束通り戻ってきた。
マリーは冬の間に書き溜めた観察日誌を差し出した。亜麻布の端切れに炭で記した、不格好な記録の束だ。
ゴットフリートはそれを一枚ずつめくった。
長い沈黙があった。老人の眉が、わずかに動いた。
「……これを、全部お前が」
「はい」
日誌には、村の周辺で採れる五十種以上の植物が記録されていた。葉の形、季節ごとの変化、根の断面、そして「どの症状に効くと思われるか」という考察まで。八歳の子どもが書いたとは、とても思えなかった。
ゴットフリートはしばらく日誌を見つめてから、ぽつりと言った。
「弟子にする」
マリーの顔が、ぱっと明るくなった。
「ただし約束は守れ。次に来るまでに、出した課題は全部こなしておけ。できなければ破門だ」
「はい!」
ゴットフリートはまた鼻を鳴らした。でもその目には、最初に会ったときとは違う、かすかな光があった。
それから、数年が過ぎた。
ゴットフリートは季節が巡るごとに村を訪れた。春に来て、夏の課題を残して去り、秋にまた来て、冬の課題を残す。その繰り返しの中で、マリーは薬師としての知識を、確かなものにしていった。
座学では、この世界の植物の分類、毒と薬の境界、調合の比率、保存の方法を学んだ。ゴットフリートの教えは厳しく、無駄がなく、そして深かった。
実践は、村が与えてくれた。
子どもの高熱、老人の関節痛、農作業の怪我、産前産後の不調。エルダ村の人々は、いつしか体調を崩すとまずマリーのもとを訪れるようになった。マリーは前世の医学知識と、ゴットフリートに学んだ薬草学を組み合わせ、ひとつひとつ丁寧に対処した。
時には、手に負えないこともあった。
隣村から運ばれてきた重い病人を、救えなかったこともある。そのたびにマリーは唇を噛み、自分の無力さと向き合い、また日誌に書きつけた。次は救えるように、と。
マリーは十四歳になっていた。
背が伸び、手は子どものものではなくなった。細く長い指は、薬研を扱うのにも、傷を縫うのにも、充分な器用さを取り戻していた。亜麻色の髪を後ろで束ね、村の女たちが着るような簡素な麻の服をまとい、それでもどこか、村の他の娘たちとは違う落ち着きを纏っていた。
祖母は健在だった。あの秋の病以来、マリーが目を光らせていたおかげで、大きく体調を崩すことはなかった。
ゴットフリートはあるとき、ぽつりと言った。
「お前に教えることは、もうあまりない」
「そんなことは…」
「いや。お前はもう、わしの知らないことまで知っている。どこで覚えたのかは、相変わらず聞かんがな」
マリーは何も言わなかった。
ゴットフリートも、それ以上は言わなかった。
二人の間には、いつしか言葉にしない了解のようなものが、静かに横たわっていた。
その人物が村にやってきたのは、マリーが十四歳になった年の、初夏のことだった。
その日、マリーは村はずれの森の中で薬草を採取していた。日差しは柔らかく、木漏れ日が下草を照らしていた。籠にはすでに、何種類かの薬草が積まれていた。
不意に、人の気配がした。
顔を上げると、木立の向こうに、一人の青年が立っていた。
村の人間ではなかった。
年の頃は十代の後半か。すらりと背が高く、白に近い銀色の髪が陽の光を反射していた。仕立ての良い、けれど旅塵にまみれた外套。腰には見慣れない意匠の小袋をいくつも下げ、手には分厚い革張りの書物を抱えている。何より目を引いたのは、その瞳だった。澄んだ若草色の、けれどどこか焦点の合っていない、夢の中にいるような目。
青年はマリーには目もくれず、地面に這いつくばるようにして、一本の植物を覗き込んでいた。
「……ありえない。この緯度で、この標高で、月光草の変種が自生している。気温と日照の条件が合わない。なのになぜ。いや、もしかして土壌に含まれる鉱物が……」
ぶつぶつと独り言を呟いている。
マリーは少し警戒しながら、声をかけた。
「あの、それ」
青年は顔を上げた。マリーを見て、数秒、きょとんとした。まるで人間がそこにいることが意外だとでもいうように。
「それ、月光草じゃないです。トリル草です。確かに葉の形はよく似てますけど、月光草は葉の裏に銀色の毛があります。それにはありません」
青年の若草色の目が、まんまるに見開かれた。
「……君、なぜそれを!!!!」
青年はがばっと立ち上がり、マリーに詰め寄った。距離が近い。世間知らずというか、人との距離感がまるでわかっていない様子だった。
「トリル草と月光草の判別を、葉裏の毛でしている? それは正しい。だが文献にはほとんど載っていない。最新の植物学の知見だ。なぜ村娘の君がそれを知っている?」
「……たまたま、です」
「たまたまでそんな知識が身につくものか!」
青年は興奮していた。悪気はまるでなさそうだったが、その勢いにマリーはたじろいだ。
「君、名前は」
「マリー、です」
「マリー。私はセオドール。テオでいい」
その名を聞いた瞬間。
マリーの背筋を、冷たいものが走った。
セオドール。
……セオドール?
待って。
その名前を、私は知っている。
銀色に近い髪。若草色の瞳。植物と魔法への異常な執着。人との距離感のなさ。世間知らずな天才。
マリーの脳裏で、遠い記憶が音もなく蘇った。ゲームの画面。深夜の布団の中。何度も繰り返した、あのゲームのキャラクター紹介。
――天才魔法使い・セオドール。魔法植物学の若き権威にして、王立魔法院の最年少研究員。
RCFの、攻略対象の一人。
マリーは、思わず後ずさった。
いや。
まさか。
同じ名前なんて、いくらでもある。髪の色だって、瞳の色だって、偶然似ているだけかもしれない。世の中に、銀髪緑眼の青年なんて、きっと他にもいる。植物に詳しい変人だって、一人や二人じゃないはずだ。
そうだ。偶然だ。偶然に決まっている。
だってここは、ただの田舎の村だ。前世で死んで、生まれ変わって、それだけでも信じがたいのに。その上、生まれ変わった先が、よりにもよって、あの大好きだったゲームの世界だなんて。
そんな都合のいい話が、あるはずがない。
「マリー? どうした、顔が青いぞ」
セオドールが――テオが、不思議そうに首を傾げた。
その仕草さえ、マリーの記憶の中の彼と、重なってしまう。
「……いえ。なんでもありません」
マリーはどうにか、声を絞り出した。
動揺を悟られないように、籠を持ち直す。指先が、わずかに震えていた。
テオはそんなマリーの様子には気づかず、もう興味は完全に別のところに移っていた。さっきマリーが指摘したトリル草を抱え込むようにして、また地面に這いつくばっている。
「しかしそうなると、この一帯の植生は通常の分類では説明がつかない。マリー、君はこのあたりの植物に詳しいのか? 頼む、案内してくれ。報酬は払う。いや、報酬では足りないな、何が望みだ? 言ってくれ」
まくし立てるテオを前に、マリーはまだ、心臓の音を聞いていた。
偶然だ。
そう自分に言い聞かせながら。
でも、否定しきれない疑惑の影が、胸の奥に、静かに落ちていた。




