第一章 第二話 ―――師匠と、草の名前―――
祖母が床を離れたのは、それから五日後のことだった。
ゆっくりと、でも確かに、顔色が戻っていった。食欲が戻り、声に張りが出て、ある朝には自分で起き上がって竈に火を起こそうとしていた。
「まだ無理しないで」
マリーが止めると、祖母は「じっとしてるのは性に合わないんだよ」とぼやいた。でもその声は弱々しくなく、どこかいつもの調子が戻っていて、マリーは胸の奥でほっと息をついた。
その日の夕方、祖母はマリーを呼んだ。
「座りな」
テーブルを挟んで向かいに座ると、祖母はしばらくマリーの顔をじっと見た。値踏みするような目ではなく、何かを確かめるような、静かな目だった。
「あのとき、お前が作ってくれたもの」
「うん」
「鍛冶屋のヴィクトルが教えたとか言ってたね」
「……うん」
祖母はふっと笑った。
「ヴィクトルはいい男だけどね。あいつが薬草のことを知ってるとは、おばあちゃんは思わないよ。ただ、マリーは聡明だし本で得た知識だったかもしれないね。」
マリーはどう答えるべきか迷い黙っていた。
祖母はそれ以上追及しなかった。ただ、皺だらけの手をテーブルの上に伸ばして、マリーの手をそっと包んだ。
「ただ、お前がいてくれてよかった」
マリーは俯いた。
瞼の裏が、じわりと熱くなった。泣くつもりはなかった。でも、この手の温かさが、何かを溶かしていく気がした。
「……私も」
小さく、でもはっきりと言った。
「おばあちゃんの傍に生まれてよかった、って思ってるよ」
祖母は何も言わなかった。ただ、マリーの手を少し強く握った。
窓の外で、風が木の葉を揺らした。
その夜、マリーは天井を見つめながら考えた。
祖母を救えた。それはよかった。でも、あれは綱渡りだった。
前世の知識と勘だけで調合した薬だ。もし分量を間違えていたら。もし見当違いの植物を使っていたら。医師としての経験がそれを防いだが、この世界の薬草と前世の植物学が完全に一致している保証はない。
もっと、ちゃんと学ばなければいけない。
この世界の言葉で、この世界の植物を。体系的に、確実に。
でも誰に学ぶのか。エルダ村に薬師はいない。村人が病気になれば、隣村まで馬車を飛ばすか、民間療法で乗り切るかのどちらかだ。
マリーは目を閉じた。
答えはまだ、なかった。
師匠との出会いは、まったく偶然だった。
秋も深まったある朝、マリーは村はずれの川沿いで薬草を探していた。
川べりにしゃがんで植物を観察していると、背後から声がした。
「それはタンディル草だ。根に利尿作用がある。だが秋に採るなら葉は使うな、渋みが強くなって胃を荒らす」
マリーは振り返った。
そこに立っていたのは、老人だった。
背は高くなく、どちらかといえば小柄だ。深く刻まれた皺、白髪交じりの無精髭、使い込まれた革の外套。背中には大きな荷袋を背負い、手には節くれだった杖をついている。旅人だとわかった。だが目だけが、妙に鋭かった。値踏みするような、品定めをするような、灰色の目だった。
「……知ってます」
マリーは立ち上がって言った。
老人は眉を片方上げた。「ほう」
「根に利尿作用があること。でも肝臓を助ける作用もあるから、発熱と黄疸が出たときに使いました。量は少なめに」
沈黙があった。
老人はマリーをじっと見た。八歳の、平民の少女を。
「誰に教わった」
「本で」
「この村に本があるのか」
「……昔、読んだことがあります」
老人の目が細くなった。それ以上は聞かなかった。ただ、「名前は」と言った。
「マリーです」
「わしはゴットフリート。薬師だ」
そう言って老人――ゴットフリートは、マリーの手の中のタンディル草に視線を落とした。
「その持ち方は正しい。茎を折らないように根元から支えている。どこで覚えた」
「……なんとなく、そうした方がいい気がしたの」
「なんとなく、か」
ゴットフリートは鼻を鳴らした。愉快そうでも、感心した様子でもなかった。ただ、もう一度だけマリーの顔を見て、踵を返した。
「村に一晩泊まる。宿を貸してくれるところを知らないか」
「鍛冶屋のヴィクトルさんに聞いてみたらどうかしら」
「そうするか」
それだけ言って、老人は歩き出した。
マリーはその背中を見送りながら、胸の中で何かがざわめくのを感じた。
薬師だ。
この世界の薬草を、体系的に知っている人間が、目の前に現れた。
その夜、マリーは祖母に頼んで夕食にゴットフリートを招いた。祖母は「見知らぬ旅人をいきなり連れてきて」と呆れたが、断りはしなかった。
食卓でゴットフリートは無口だった。出された麦のスープを黙って食べ、祖母の世間話に短く相槌を打つだけだった。愛想がいいとはとても言えない。
でもマリーは食事の間中、ずっと考えていた。
どう切り出すか。
食後、祖母が片付けをしている間、マリーはゴットフリートの向かいに座った。
「お願いがあります」
ゴットフリートは湯気の立つカップから目を上げた。
「弟子にしてください」
沈黙。
「断る」
即答だった。
「理由を聞いてもいいですか」
「わしは旅をしながら薬を作る。腰を落ち着けて誰かに教える気はない」
「定期的に村に来てくれるだけでいいです。来たときだけ教えてもらえれば」
「……」
「私は覚えます。次に来るまでの間に、言われたことは全部試して、全部記録します。絶対に」
ゴットフリートはカップを置いた。そしてもう一度、あの値踏みするような目でマリーを見た。
「なぜそんなに学びたい」
「祖母を守りたいの」
即答だった。
ゴットフリートは少しの間、何も言わなかった。カップの湯気が、ゆっくりと天井に向かって消えていった。
「……一つ聞く」
「はい」
「タンディル草を煎じるとき、水の量はどうした」
「葉三枚分に対して、木椀二杯分の水で。弱火で半分になるまで」
「なぜその分量にした」
「強すぎると胃に負担がかかると思ったの。祖母は食欲が落ちていたから、胃を荒らしたくなくって」
また沈黙があった。
今度は長かった。
ゴットフリートは窓の外の暗闇をしばらく見てから、ゆっくりと口を開いた。
「次にこの村に来るのは、雪が解けた頃になる。それまでにタンディル草の観察日誌をつけておけ。葉の形、茎の色、根の太さ、季節による変化。全部だ」
マリーの胸が、跳ねた。
「……はい」
「それからもう一つ」
「なんですか」
「お前が『本で読んだ』と言ったとき、嘘をついていた」
マリーは息を呑んだ。
ゴットフリートは立ち上がりながら、「わしは長年薬師をやっている。本で読んだだけの知識と、手で覚えた知識の違いくらいわかる」と言った。
「でも」
老人は振り返らなかった。
「聞かん。お前がどこで何を学んだかは、お前の話すべきことだ。わしが聞くことじゃない」
そのまま、ゴットフリートは部屋を出た。
マリーはしばらく、動けなかった。
心臓が、うるさいほど鳴っていた。
ゴットフリートが村を発ったのは、翌朝のことだった。
見送りに出たマリーに、振り返りざまに言った。
「日誌は細かく書け。字は読めるな」
「読めます。書けます」
「ならいい」
それだけ言って、ゴットフリートは村の出口へ向かった。その背中はどこまでも不愛想で、温かみのかけらもなかった。
でもマリーは笑った。
小さく、誰にも見えないように。
春になったら、また来る。それだけで充分だった。
冬が来た。
エルダ村の冬は静かだった。雪が音を吸い込み、人々は家に篭り、畑は眠りにつく。マリーも祖母と二人、炉の前で長い夜を過ごした。
でも今年の冬は、去年とは違った。
マリーには、やることがあった。
観察日誌だ。
ゴットフリートに言われた通り、タンディル草だけでなく、村の周辺で見つけたすべての植物を記録し始めた。葉の形を模写し、根の断面を描き、前世の知識と照らし合わせながら、この世界の薬草の体系を少しずつ組み立てていった。
紙が足りなかった。
村の雑貨屋で買える紙はわずかで、高かった。マリーは祖母に頼んで、余った亜麻布の端切れに炭で書いた。不格好だったが、消えなければそれでよかった。
ルカが覗きに来て「何それ」と言ったとき、マリーは「草の絵日記」と答えた。ルカは「変なの」と笑ってすぐ飽きた。
それでよかった。
雪がまだ残る三月の終わり、事件が起きた。
村の東側に住む農夫が、薪割りの最中に斧を足に当てた。深い傷ではなかったが、処置が遅れて傷口が赤く腫れ、熱を持ち始めた。
隣村の医師を呼ぶには半日かかる。
農夫の妻が泣きながら村を駆け回っているのを見て、マリーは動いた。
傷口を確認した。化膿が始まりかけている。洗浄が先だ。次に抗炎症作用のある薬草を――冬でも採れるものが必要だ。
雪の下に残っているはずの根を掘り起こし、煮沸した湯で傷を洗い、煎じた薬を湿布として当てた。熱は翌日には引いた。
農夫の妻は泣いて礼を言った。
マリーは「たまたまです」と言ったが、その話はあっという間に村中に広まった。
そしてその話は、村を訪れた行商人の耳にも入った。
行商人は次の村へ、その次の村へと移動しながら、面白い話として語った。
王都から馬車で三日の山間の村に、薬草に詳しい不思議な少女がいる、と。
マリーはまだ、それを知らなかった。
その夜も炉の前で日誌を広げ、炭の走る音だけが小屋に響いていた。




