第一章 第一話 ―――この手で、生きていく―――
熱が引いたのは、三日後のことだった。
身体が軽い、とマリーは思った。八歳の子どもの身体というのは、こんなにも軽いものなのか。前世では慢性的な疲労と睡眠不足で、身体は常に鉛のように重かった。それがまるで嘘のように、今の自分の四肢は羽根のように動く。
起き上がり、窓の外を覗いた。
麦畑が広がっていた。朝の光を受けて、黄金色の穂先がゆらゆらと揺れている。その向こうに、低い山の稜線。空は抜けるように青く、雲ひとつなかった。
綺麗だ、とマリーは思った。
前世では空を見上げる余裕すらなかった。病院と自宅を往復するだけの毎日。空の色を最後に意識したのは、いつだったろう。
「起きたのかい。ちゃんとご飯食べられそうかね」
祖母の声がした。振り返ると、土間の竈で鍋をかき混ぜながら、こちらを見ていた。
この人が、祖母だ。
マリーはじっとその顔を見た。マリーとしての記憶の中にある祖母は、物心ついたときからずっとそこにいた。父が死んだときも、母が死んだときも、傍らで静かに支えてくれた人だ。
前世の田中マリには、祖母との記憶がほとんどなかった。幼い頃に他界していたから。
だからだろうか。この皺だらけの顔を見ていると、胸の奥に不思議な感情が湧き上がってくる。懐かしさとも、温かさとも違う、もっと根源的な何かが。
「食べられる」
マリーは答えた。
「そうかい。じゃあおいで」
祖母は何でもないことのように言って、木のスプーンで鍋を混ぜ続けた。
テーブルに座り、出てきた粥を口に運ぶ。素朴な味だった。塩と、何か野草のような風味。前世の自分なら味気ないと思ったかもしれない。でも今は、じんわりと身体に染み渡るような気がした。
「おばあちゃん」
「なんだい」
「……いつも、ありがとう」
祖母は一瞬、手を止めた。それからふっと目を細めて、「熱でも出てたからかね、殊勝なことを言うじゃないか」と笑った。
マリーも、小さく笑った。
この世界に生まれてよかった、と思った。
この人の傍にいられるだけで、今はそれで充分だった。
八歳の身体に慣れるのには、思ったより時間がかかった。
頭の中には三十五年分の知識と記憶があるのに、手足は子どものものだ。細かい作業をしようとすると思い通りにいかず、走ろうとすると転ぶ。前世では当然のようにこなしていた縫合の手技も、今の自分の指では到底無理だろう。
もどかしかった。
ただ、頭は回った。
この世界の言語は、マリーとしての記憶の中に最初から入っていた。文字の読み書きも、日常会話も問題ない。数の概念も通じる。前世の知識をそのまま使えるかどうかはわからないが、少なくとも思考することはできる。
それだけで充分だ、とマリーは思った。
身体は、これから鍛えればいい。
村の名前はエルダ村といった。
王都から馬車で三日、山裾に抱かれた小さな集落だ。住人は百人にも満たない。麦と芋を育て、山で木を切り、川で魚を獲る。貴族とも王都とも縁遠い、静かな場所だった。
マリーはその村で、ゆっくりと日常を取り戻していった。
朝は祖母と一緒に畑に出た。土を耕し、種を撒き、水を引く。前世では考えられなかった肉体労働だったが、不思議と嫌ではなかった。土の匂いが、どこか心を落ち着かせた。
午後になると、村の子どもたちが集まってきた。
「マリー、もう走れる?」
声をかけてきたのは、隣に住む赤毛の少年、ルカだ。マリーと同い年で、村一番の元気者だった。
「走れる」
「じゃあ一緒に川行こうよ。魚いっぱいいるんだって」
マリーは少し考えてから、頷いた。
川は村はずれを流れる細い水路で、夏になると子どもたちの格好の遊び場になるらしかった。マリーはズボンの裾を膝まで捲り上げ、冷たい流れに足を踏み入れた。
透明な水が、足首を包む。
冷たかった。気持ちよかった。
三十五年間、こういうことをしてこなかったな、とマリーは思った。子どもの頃の自分にも、こんな時間があったはずなのに、いつの間にかすべて勉強と仕事に塗りつぶされていた。
「マリー、何してるの。魚逃げるよ!」
ルカが笑いながら叫んだ。
マリーは苦笑して、水の中に視線を落とした。
小さな魚が、光の中をひらめいていた。
村の人々は、マリーに優しかった。
孤児に近い境遇のマリーを、みんながそれとなく気にかけてくれた。隣のおばさんは野菜を分けてくれ、鍛冶屋のおじさんは転んで擦り傷を作ったマリーに薬草を当てがってくれた。
その薬草を受け取ったとき、マリーの中で何かが反応した。
――これは、オオバコに似た植葉だ。収斂作用がある。傷口の止血と、軽い炎症を抑えるのに使える。
前世の記憶が、静かに言葉を紡いだ。
マリーは手の中の葉を眺めた。鍛冶屋のおじさんが何気なく当てがったそれは、確かに傷口に効いていた。
この世界の植物と、前世の薬草学の知識が、どこかで繋がっているらしかった。
マリーは何も言わずに、その葉を丁寧に押さえた。
まだ早い、と思った。今はただ、見て、覚えて、蓄えるだけでいい。
異変に気づいたのは、秋の初めのことだった。
祖母の動きが、少し鈍くなっていた。
最初は疲れだと思った。収穫の時期で、村全体が忙しかったから。でもマリーは医師の目を持っていた。疲れではない、と直感した。祖母の顔色がわずかに黄みがかっている。食欲が落ちている。夜中に何度か起きている音がする。
ある朝、祖母が竈の前でしゃがみこんだ。
「おばあちゃん!」
マリーは駆け寄った。祖母は「大丈夫だよ、ちょっとめまいがしただけ」と言って笑おうとしたが、その顔は白かった。額に手を当てると、熱があった。
マリーは素早く、祖母を寝台に横にした。
「大げさだよ、マリー」
「大げさじゃない」
静かに、でもはっきりと言った。
祖母は少し目を丸くしてから、おとなしく横になった。
マリーは祖母の手首を取り、脈を確かめた。八歳の子どもがするような仕草ではなかったかもしれないが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
脈は弱く、やや速い。
発熱、黄疸様の顔色、倦怠感、食欲不振。
前世の記憶が、素早く鑑別を並べ始めた。この世界に近代医療はない。血液検査も画像診断もない。できることは限られている。でも、何もできないよりはましだ。
問題は、何を使うか、だった。
マリーは村の中で見かけた植物を、頭の中で次々と引き出した。
――あの黄色い花。川沿いに群生していたやつ。セイヨウタンポポに似た形状。肝臓の働きを助ける作用がある。利尿作用もある。
――村はずれの茂みにあった白い実の低木。解熱に使えるはず。ただし量に注意が必要だ。
マリーは立ち上がった。
「どこ行くの」
「すぐ戻る」
外に飛び出した。
秋の風が頬を打った。空は高く、澄んでいた。マリーは走った。八歳の足で、全力で走った。転びそうになりながら、それでも走った。
川沿いに出ると、目当ての黄色い花がまだ咲いていた。マリーは丁寧に根ごと引き抜いた。葉も、茎も、全部使える。次に村はずれに回り、白い実の低木から慎重に実をいくつか取った。多すぎてはいけない。少量で充分だ。
戻ると、祖母は目を閉じていた。眠っているのか、意識が落ちているのか。
マリーは竈に火を起こし、鍋に水を張った。
葉を洗い、根を刻み、実を潰す。分量は感覚だった。前世の薬理学の知識と、この身体に刻まれた直感が、マリーの手を動かした。
煎じ薬が、ゆっくりと色づいていった。
草と土の匂いが、小屋に満ちた。
出来上がったそれを、マリーは祖母の唇に少しずつ含ませた。意識はあった。祖母はゆっくりと嚥下した。
「苦いねえ」
祖母が小さく呟いた。
「我慢して」
「……お前、どこでそんなこと覚えたんだい」
「鍛冶屋のおじさんが前に教えてくれたの」
祖母はしばらくマリーの顔を見つめてから、「そうかい」と小さく呟いた。それ以上は聞かなかった。
その夜、マリーは祖母の傍で眠れなかった。
ベッドの縁に座り、祖母の呼吸を数えながら、夜明けを待った。医師として当直していた頃と、どこか似ていた。患者の傍で夜を明かす、あの感覚に。
でも今は違う。
これは患者ではない。この人は、今の自分の唯一の家族だ。
夜明けが来たとき、祖母の熱は少し下がっていた。顔色が、わずかに戻っていた。
「マリー」
「うん」
「……ありがとうね」
マリーは返事をしなかった。
ただ、祖母の手をそっと握った。老いた、皺だらけの手。働き続けてきた、温かい手。
窓の外が、白んできた。
鳥が鳴いた。
マリーは静かに目を閉じた。
この人を守りたい、と思った。
もっとちゃんと、もっと確かに。この世界の草と土と空気で、自分にできることを、全部やりたい。
それがこの命に課せられた使命なのか、それとも八歳の少女の単純な願いなのか、マリーにはまだわからなかった。
ただ、その気持ちだけは、揺るがなかった。




