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平民なので王都には行けませんが、なぜか推しキャラが私を追いかけてきます  作者: 獅子の舞子


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プロローグ ―――さよなら、私の日常―――

蛍光灯の白い光が、視界を焼く。

 モニターに映し出された数値を確認しながら、田中マリは三杯目のコーヒーに口をつけた。冷めきっていた。いつからそこに置いてあったのか、もう覚えていない。

「田中先生、三番に多発外傷、三十代男性です」

「はい」

 返事をしながら立ち上がる。身体が重い。昨日は何時間眠れただろう。四時間? いや、三時間半か。救急外来というのはそういう場所だ。眠れるときに眠り、食べられるときに食べる。感情は後回し、判断は即座に。それを十年続けてきた。

 処置室に向かいながら、マリは自分の手を見た。


 三十五歳にしては骨ばった、傷だらけの手だ。爪は短く切りそろえられ、薬品で荒れた皮膚に、うっすらとペンのインクが残っている。誰かに綺麗だと言われたことなど、いつが最後だったか思い出せない。

 恋愛? 結婚?

 笑えるほど遠い話だと思っていた。

 同期はとっくに所帯を持ち、子どもの運動会だの発表会だのをSNSに上げている。マリが「いいね」を押すのは、たいてい深夜の休憩室だった。画面の向こうの幸福な光景を、どこか他人事のように眺めながら。

 自分の人生に欠けているものを、マリはとっくに諦めていた。

 その代わりに与えられたのが、あのゲームだった。




 『ロイヤル・クリムゾン・ファンタジア』

 略してRCF。王道中の王道、乙女ゲームの金字塔と呼ばれる一作だ。美麗なグラフィック、重厚な世界観、そして五人の攻略対象。

 マリがこのゲームを買ったのは、発売日から三年遅れのことだった。学会発表が終わり、担当患者が峠を越し、久しぶりに丸二日の休みが取れた、そんな奇跡のような週末のことだ。

 コンビニで菓子をまとめ買いし、スマートフォンをサイレントにして、マリはゲームの世界に落ちた。

 文字通り、落ちた。

 第一王子・アルフレード。冷厳な眼差しと、氷のような言葉。近寄りがたい孤高の存在。だがひとたびヒロインに心を開けば、その愛情は狂おしいほど深く、激しく、決して手放さない――。

 マリは布団の中で画面を抱きしめた。三十五歳の救急医が、夜中の二時に声を殺して泣いていた。

 馬鹿みたいだと思った。でも、止まらなかった。

 アルフレードのルートをコンプリートしたとき、マリは初めて「生まれ変わったらこの世界に行きたい」と思った。本気で。

 それが呪いになるとも知らずに。




 事故は、呆気なかった。

 夜勤明けのことだ。三十六時間ぶりに病院の外に出て、白みかけた空を見上げながら、マリは横断歩道を渡っていた。信号は青だった。それだけは確かだ。

 睡眠不足が判断を狂わせていた。左から来る車のエンジン音を、マリの脳はうまく処理できなかった。

 気づいたときには遅かった。

 ブレーキ音。

 衝撃。

 そして、静寂。

 倒れながら、マリは妙に冷静だった。職業病だろうか。自分の身体の状態を、医師として瞬時にトリアージしようとしていた。頭部打撲、おそらく脳挫傷、出血は――。

 でも、もう誰かに指示を出す必要はなかった。

 意識が遠のく中で、マリは不思議と穏やかな気持ちでいた。悲しくはなかった。後悔がないとは言えない。でも、叫び出したいほどの無念でもなかった。

 ただ、ひとつだけ思った。

アルフレード、に会いたかったな。

 それが、田中マリの最後の意識だった。


目を開けたとき、見えたのは藁葺き屋根だった。

 しばらく、動けなかった。

 天井を見つめたまま、自分の身体を確かめた。身体の感覚、呼吸、視野、四肢の動き。どこも痛くない。むしろ異様なほど軽い。手を持ち上げてみると、そこにあったのは、荒れた救急医の手ではなかった。

 小さな、子どもの手だ。

 白くて、柔らかくて、傷ひとつない。

「マリー、起きたのかい? よかった、熱が高かったから心配したよ」

 声がした。顔を向けると、素朴な麻の服を着た女性が立っていた。頬に深い皺を刻んだ、老いた女性。見覚えのない顔だ。でも、不思議と懐かしかった。

 記憶が、奔流のように流れ込んでくる。

 マリー。この世界での名前はマリーだ。苗字はない。父はすでに亡く、母もずいぶん前に流行り病で死んだ。今は祖母と二人、どこか遠い村に住んでいる。年齢は、八歳。

 ああ、と思った。

 死んだのだ、自分は。そして、別の誰かとして生まれ直したのだ。

 不思議と、取り乱す気にはなれなかった。悲しくもなかった。前の自分の人生は、もう終わった。それだけのことだと、妙に静かに受け入れられた。

 疲れ切った三十五年間を、この小さな身体がそっと引き継いでくれているような気がした。

「……うん、起きた」

 マリーは静かに答えた。

 窓の外から、鳥の声がした。風が何かを揺らす音がした。どこか遠くで、子どもたちが笑っている。

 知らない世界の、知らない朝だった。

 それでも、胸の奥がじんわりと温かかった。

 小さな声が、藁葺きの部屋にやわらかく溶けた。

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