第三章 第二話 ―――その変化に、名前をつけるなら―――
旅を続けて、半月ほど。
マリーは、緑豊かな丘陵地帯にある、こじんまりとした町にたどり着いた。リンデンという名の、穏やかな町だった。
市場で食料を買い込み、宿を探そうと歩いていたとき。
町の広場の片隅で、人だかりができているのが目に入った。
何事だろう、と覗き込んで——マリーは、目を疑った。
人だかりの中心で、一人の青年が、地面に這いつくばっていた。
銀色に近い、見覚えのある髪。仕立ては良いが、土と草の汁で汚れた外套。広場の植え込みに顔を突っ込むようにして、何やら一心不乱に植物を観察し、ぶつぶつと独り言を呟いている。周りの町人たちは、奇妙なものを見る目で、遠巻きにその様子を眺めていた。
「……信じられない。この町の土壌、明らかに魔素濃度が高い。この雑草の生育速度、通常の三倍はある。いや、四倍か。なぜだ。地脈か? それとも——」
その、人目もはばからず植物に夢中になる姿。
間違いなかった。
「……テオ?」
マリーが、思わず名を呼ぶと。
青年は、ぴたりと動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。
若草色の瞳が、マリーを捉える。
数秒の、間。
それから——その顔が、ぱあっと、輝いた。
「マリー!?」
テオは、植え込みから飛び起きるなり、まっすぐにマリーへ駆け寄ってきた。例によって、人との距離感などお構いなしに、ぐいと顔を近づけてくる。
「マリーじゃないか! 本物か!? なぜここに! いや、会いたかった! ちょうど君のことを考えていたんだ。この町の植生が異常で、君ならどう分析するだろうと——ああ、それより、元気だったか? ちゃんと食べているか? 君は昔から根を詰めるからな!」
まくし立てるテオに、マリーは思わず、噴き出してしまった。
「ふふっ、テオ、相変わらずですね。近いです、顔が」
「む、そうか。すまない」
テオは、素直に半歩下がった。けれど、その顔は、隠しようもなく嬉しそうだった。
マリーの胸も、じんわりと温かくなっていた。
懐かしかった。この、裏表のない、まっすぐな人柄が。
二人は、広場のそばの茶屋に入り、向かい合って腰を下ろした。
話は、尽きなかった。
「あのときは、本当にありがとうございました。テオの推薦状がなければ、私はラーテンに入れませんでした」
「礼には及ばない。君の腕は、私が保証した通りだった。いや、それ以上だったと聞いている。『水色の瞳の癒し手』——その噂、王立魔法院にまで届いていたぞ」
「やめてください、その呼び名……」
マリーが赤面すると、テオは不思議そうに首を傾げた。
「なぜだ? 素晴らしい呼び名じゃないか。事実、君は次々と人を救ったんだろう。誇るべきことだ」
悪気のない賞賛に、マリーは苦笑するしかなかった。
思えば、ラーテンにいた頃も、テオとは時折顔を合わせていた。彼は魔法院と研究院を行き来していたから。けれど、お互い忙しく、ゆっくり話す時間などなかった。
こうして腰を据えて語り合うのは——あの村で、初めて出会ったとき以来かもしれない。
マリーは、その時間を、心から楽しんでいた。
テオは、マリーにとって、知識を分かち合える数少ない友人で、この世界で道を開いてくれた恩人だった。再会できたことが、ただ、純粋に、嬉しかった。
一方、テオは。
マリーと話しながら、奇妙な感覚に、囚われていた。
——何かが、違う。
目の前のマリーは、確かに、彼の知っているマリーだった。同じ亜麻色の髪、同じ水色の瞳。けれど、何かが、決定的に、変わっていた。
テオは、もともと、人の外見というものに、ほとんど関心がなかった。人の顔を覚えるのも苦手で、興味の対象はいつも植物と魔法ばかり。だから、彼がマリーの「変化」に気づいたのは、外見のことではなかった。
それは、言葉の端々から、滲み出るものだった。
「——その患者は、助からなかったのか?」
話の流れで、マリーが、ラーテンで看取った患者のことを口にしたとき。
「ええ。私の力が、及びませんでした」
マリーは、静かに言った。
「でも、その人が最期に遺した言葉が、次に同じ病の人を救うヒントになりました。だから、無駄な死なんて、ひとつもないんです。私は、そう思うようにしています」
その口調には、痛みがあった。けれど、それ以上に、深い、揺るぎない芯があった。
テオは、はっとした。
——この強さは、なんだ。
彼が覚えているマリーは、あの村で、祖母を喪ったばかりの、儚げな少女だった。墓の前で、今にも折れてしまいそうに泣いていた、小さな背中。守ってやらなければ、と思った。放っておけない、と感じた。
なのに、目の前にいるのは、違った。
死と向き合い、無力さを知り、それでも前を向いて、無数の命を背負ってきた——一人の、強い女性。
いつの間に。
テオの胸の奥が、ことり、と音を立てた。
彼女は、もう、守られるだけの少女ではなかった。自分の足で立ち、自分の意志で道を切り開く、凛とした存在に、なっていた。
その瞳の強さ。言葉の重み。命に向き合う、その横顔。
——美しい、とテオは思った。
生まれて初めて、植物でも魔法でもないものを、心の底から、美しいと感じた。
テオは、自分の胸に手を当てた。鼓動が、おかしかった。妙に、速い。顔も、なぜか熱い。病気だろうか、と一瞬考えて——いや、違う、と気づいた。
こんな症状を、引き起こすものを、テオは一つしか知らなかった。文献で読んだだけの、未知の領域。
……まさか。
その、ふわふわとした不可解な感覚を、テオが持て余していた、まさにそのとき。
「——探したぞ、癒し手殿」
茶屋の入り口から、涼やかな、けれど棘のある声がした。
マリーの背が、こわばった。
その声を、知っていた。
振り返ると——案の定。プラチナブロンドの髪を揺らし、皮肉な微笑を浮かべた青年が、立っていた。
シリル。
「……シリル様」
「ずいぶんと探させてくれたな。ラーテンを、何も告げずに発つとは。私の監視下から、逃げ出すつもりだったのか?」
シリルの青灰色の瞳が、すっと細められる。
マリーが何か言う前に——シリルの視線が、その隣に座る人物に、移った。
そして、わずかに、止まった。
「……テオ?」
「やあ、シリル」
テオが、のんびりと片手を上げた。
シリルの眉が、ぴくりと動いた。彼は、この銀髪の青年をよく知っていた。王立魔法院の最年少研究員にして、魔法植物学の異端の天才。会話は植物のことばかりで、人の話を半分も聞いていない、筋金入りの変人。
正直なところ、シリルはテオを、内心で軽んじていた。悪気はない。ただ、合理主義者のシリルにとって、研究にしか興味のないテオは、政治の駒としても、人間としても、いまひとつ「使えない」部類に見えていた。
だから、シリルは、当然のように思っていた。
この変人が、誰かと親しげに茶を飲んでいるなど、ありえない、と。
なのに。
「シリル、奇遇だな。君も、マリーに会いに来たのか? そうだろうな、彼女は素晴らしいからな。私は今、彼女と再会できて、最高に気分がいいんだ」
テオの、屈託のない言葉。
そして、テオがマリーを見るその目に——シリルは、見覚えのない、けれど明確な「熱」が宿っているのを、見て取った。
あの、人間に何の興味も示さなかった男が。植物以外、目に入らなかったはずの男が。
一人の女性を、あんな目で、見ている。
シリルの中で、何か、説明のつかない、ざらりとした感情が、湧き上がった。
——なんだ、これは。
この、変人が。よりにもよって、この、誰も手懐けられなかった偏屈な天才が。マリーの隣で、あんなにも、無防備に笑っている。マリーが、彼に、心を許している。
面白くない。
シリルは、即座に、その感情に気づいた。彼は、自分の心の動きには、誰よりも聡かった。
……これは、嫉妬だ。
認めたくはなかったが、そうとしか、説明がつかなかった。あの変人と、マリーが親しいということが——どうしようもなく、面白くない。
一方、テオもまた。
シリルの登場に、胸の奥が、ざわついていた。
なぜ、シリルが、マリーを「探した」のか。なぜ、シリルが、マリーを「監視下」に置いているのか。シリルとマリーの間に、自分の知らない関係があることが——テオには、ひどく、落ち着かなかった。
マリーが、自分以外の誰かと、繋がっている。
その事実が、こんなにも、胸を締めつけるなんて。
テオは、ようやく、確信した。
さっきから感じていた、この未知の症状。胸の高鳴り。顔の熱。そして、今、シリルに対して湧き上がる、この、もやもやとした不快感。
——ああ、そうか。
これが、そうなのか。
書物の中でしか知らなかった、あの感情。詩人がうたい、物語が描き、けれど自分には一生縁がないと思っていた、あれ。
「……私は」
テオが、ぽつりと、呟いた。
マリーも、シリルも、その小さな声には気づかなかった。
テオは、自分の胸に手を当てたまま、若草色の瞳を、まっすぐにマリーへ向けた。
生まれて初めての感情に、戸惑いながら。けれど、それを、はっきりと、自覚しながら。
——私は、彼女に、恋をしているのか。
茶屋の窓から差し込む午後の光が、三人を、静かに照らしていた。
マリーを真ん中に、二人の青年が、それぞれの胸に、それぞれの想いを抱えて。
そして、マリー本人だけが、その何にも、気づいていなかった。




