第三章 第三話 ―――見返りのない、手のひら―――
「待ってくれ、なぜマリーを連れていく!?」
茶屋の前で、テオが、不服そうに声を上げた。
「再会したばかりなんだぞ。私はまだ、彼女とこの町の植生について議論を——」
「お前の植物談義に、彼女を付き合わせるな」
シリルは、にべもなく切り捨てた。
「彼女には、彼女のすべきことがある。お前の標本採取の助手をするためにラーテンを出たわけではないだろう」
「ぐ……それは、そうだが」
テオは、ぐうの音も出ない様子で、口ごもった。それでも諦めきれないのか、マリーの方を見て、すがるように言った。
「マリー、また会えるか? 私は、まだ君と話したいことが、山ほどあるんだ」
マリーは、その純粋な言葉に、思わず微笑んだ。
「ええ、テオ。きっと、また」
「約束だぞ! 絶対だ!」
テオは、何度も念を押した。その姿に、シリルが、こめかみを押さえて溜息をついた。
「……行くぞ、癒し手殿」
シリルは、半ば強引に、マリーを促した。
歩き出しながら、マリーは、一度だけ振り返った。テオが、まだ広場で、こちらを見送っていた。手を振ると、彼は、ぱっと顔を輝かせて、大きく手を振り返してきた。
不思議な人だ、と改めて思う。
でも——マリーの隣を歩く、この人も。
「……あの、シリル様。私を、どこへ?」
「私の目の届く場所だ」
シリルは、前を見たまま、淡々と答えた。
「お前は、目立ちすぎる。腕がよく、噂が広まりすぎている。そんな人間が、後ろ盾もなく、護衛もつけず、一人で各地をふらつく——危機管理として、看過できない」
「監視、ということですか」
「そう取ってくれて構わない」
シリルの言葉は、相変わらず、棘があった。
マリーは、内心で、少し身構えた。やはり、自分はこの人に、警戒されているのだ。野心家かもしれない、危険かもしれない、と。
……仕方ない、とマリーは思った。
平民の身で、攻略対象たちと関わってしまっている自分。シリルのような立場の人間が警戒するのは、当然だ。
でも——本当は。
シリルの内心は、マリー本人の想像とは、少し違っていた。
あの、変人のテオが。誰も心を許さなかったあの偏屈な天才が。マリーには、あんなにも無防備に懐いていた。ガウェインも、あの猪武者が、わざわざ報告書にこの娘の名を書いて寄越した。そして自分でさえ——気づけば、こうして、彼女を追ってきている。
この娘は、危険だ。
いや、危険なのは——彼女ではなく、彼女に惹きつけられる、自分たちの方かもしれない。
その考えに行き着くたび、シリルは、ざらりとした不快感を覚えた。認めたくない何かが、胸の奥で、ちりちりと、燻っていた。
異変は、街道を半日ほど進んだ、森の中で起きた。
「——止まれ」
シリルが、鋭く言った。
次の瞬間、木立の陰から、複数の影が飛び出した。
賊だった。今度は、先日の物盗りとは違う。武装が整い、動きに統制がある。明らかに、訓練された者たちだった。
「あれが例の娘か。手間をかけさせるなよ」
頭目らしき男が、にやりと笑った。
マリーの背筋が、凍った。
——狙われている?
ただの行きずりの賊ではない。この連中は、最初から、自分を、あるいはシリルを、狙ってきた。
「下がっていろ」
シリルが、マリーを庇うように、一歩前に出た。
その横顔から、いつもの皮肉な微笑が、消えていた。
「……まったく。手を汚すのは、好かないのだがな」
シリルが、すっと、片手をかざした。
その瞬間。
空気が、変わった。
しん、と、森の温度が下がった気がした。マリーの吐く息が、白く凍る。シリルの手のひらの先で、空間そのものが、軋むような音を立てた。
——魔法。
マリーは、息を呑んだ。
次の刹那、賊たちの足元から、無数の氷の枝が、せり上がった。それは見る間に賊たちの脚を、腕を、胴を絡め取り、彼らをその場に、完全に拘束した。悲鳴を上げる間もなかった。一瞬で、勝負は、決していた。
鮮やかで、静かで、圧倒的な、制圧。
力任せではない。計算され尽くした、知的な魔法だった。いかにも、シリルらしい。
「こ、こいつ、魔法使いか……っ」
拘束された頭目が、呻いた。
シリルは、それには答えず、手を下ろした。
そして——ぐらり、と、その身体が、傾いだ。
「シリル様!?」
マリーは、咄嗟に駆け寄り、倒れかけたシリルを、支えた。
その身体は、驚くほど、熱かった。額には脂汗が滲み、呼吸が乱れている。さっきまでの涼やかな佇まいが、嘘のようだった。
「……問題ない。少し、消耗しただけだ」
シリルは、強がるように言ったが、その声は、掠れていた。
マリーは、すぐに、医師の顔になった。脈を取り、呼吸を確かめる。命に別状はない。だが、明らかな、極度の消耗。まるで、全力疾走を何時間も続けた後のような。
「……この魔法、身体への負担が、大きいんですね」
「ご名答だ」
シリルは、力なく、笑った。
「だから、普段は使わない。私の魔法は、燃費が悪くてね。一度使えば、こうして、無様に倒れる。——知られたくは、なかったのだがな」
近くの村にたどり着き、マリーは、宿を取ると、すぐにシリルを休ませた。
高熱が出ていた。魔法の反動だろう。マリーは、持っていた薬を煎じ、熱を冷ます処置をし、汗を拭い、つきっきりで看病した。
夜通し、マリーは、シリルの傍を離れなかった。
ラーテンで、いくつもの夜を、患者の傍で明かしてきたように。冷たい布を額に乗せ替え、水を飲ませ、呼吸を見守る。淡々と、けれど、丁寧に。
明け方近く、シリルの熱が、ようやく引き始めた。
うっすらと、青灰色の瞳が、開く。
そして、シリルは——自分の額に乗せられた布と、傍らで船をこぎかけているマリーの姿を見て、しばらく、動けなかった。
「……なぜ」
掠れた声に、マリーが、はっと目を覚ました。
「あ、起きましたか。熱は下がってきています。もう、大丈夫」
「なぜ、こんなことを」
シリルの問いは、熱とは別の、戸惑いを帯びていた。
「私は、お前を監視すると言った。お前を疑い、警戒し、駒として値踏みしていた男だ。お前にとって、私は、敵に等しい存在だろう。なのに、なぜ、一晩中、看病などを」
マリーは、きょとんとした。それから、当たり前のことのように、答えた。
「だって、目の前に、倒れている人がいたから。私は医者です。それ以外の理由が、いりますか?」
シリルは、言葉を失った。
「それに」
マリーは、少し、声を柔らかくした。
「私を、庇ってくれたでしょう。こんなに身体に負担がかかるのに。賊から、守ってくれた。——どうして、そこまでしてくれたのか、私には分かりません。でも、ありがとうございました。だから、これは、そのお礼です」
見返りを、求める響きは、なかった。打算も、媚びも、何もなかった。
ただ、目の前で倒れた人間を、案じ、手当てする。それだけの、純粋な手のひら。
シリルの胸の奥で、何かが、ぐらりと、揺れた。
——こんな感覚は。
遠い、記憶が、蘇った。
まだ、宰相の息子という重圧も、参謀という役目も、何も背負っていなかった、幼い頃。熱を出して寝込んだ夜、母が、つきっきりで看病してくれた。あの、ひんやりとした手のひらの感触。見返りなど何もない、ただ我が子を案じるだけの、温かさ。
それ以来だった。
誰かが、何の打算もなく、ただ自分を案じて、こうして傍にいてくれたのは。
宰相の息子であるシリルの周りには、いつも、人がいた。けれど、そのすべてが、見返りを求める人間だった。彼の地位を、彼の権力を、彼の人脈を欲しがる者ばかり。誰も、シリル個人を、見てはいなかった。
——ただ一人、アルフレードを除いて。
あの孤高の王太子だけは、違った。アルフレードもまた、生まれながらにして、群がる欲望にさらされ続けてきた男だった。王太子という地位を、その血筋を、誰もが欲しがった。だからこそ、二人は、互いを理解できた。打算でしか人と繋がれない者同士、見返りを求めない関係を、ただ一つ、互いの間にだけ築いてきた。シリルがアルフレードに捧げる忠誠は、主君への義務などではない。同じ孤独を知る者への、唯一無二の信頼だった。アルフレードもまた、シリルにだけは、わずかに、本音を見せた。
だから、シリルは、人を「利用価値」で測るようになった。そうやって生きるのが、いちばん、楽だったから。誰にも、心を開かなければ、誰にも、裏切られない。
なのに。
この娘は。
何も、求めてこない。ただ、目の前の命だから、と。そう言って、一晩中、自分の汗を拭ってくれた。
「……ばかな女だ」
シリルは、掠れた声で、呟いた。
「私を、利用しようと思えば、いくらでもできただろうに。恩を売って、取り入って。なのに、お前は」
「そんなこと、考えもしませんでした」
マリーは、笑った。
その、屈託のない笑顔を見て——シリルは、目を逸らした。
逸らさずには、いられなかった。
翌日、体調の戻ったシリルは、予定通り、マリーを、目的の地へと連れていった。
エルムフィールドという名の、小さな領地だった。緑豊かな田園地帯。寂れてはおらず、穏やかで、人の温もりのある、良い土地だった。王都からも、さほど離れていない。監視には打ってつけの土地だ。
「ここは、私が個人的に管理している領地だ」
シリルは、淡々と説明した。
「お前は、ここで診療所を開くといい。場所も、設備も、こちらで用意する。当面の暮らしも、保証しよう」
「そんな、そこまでしていただく理由が……」
「監視のためだ」
シリルは、即座に遮った。
「お前を、私の目の届く範囲に置く。それだけのことだ。勘違いするな」
その言葉は、やはり、棘を含んでいた。
でも、マリーは、もう、以前のようには、身構えなかった。
この人は、ぶっきらぼうで、皮肉屋で、人を寄せつけない。でも——昨夜、見てしまった。賊から自分を庇い、身を削って魔法を使った、その背中を。あれは、ただの「監視」では、説明がつかない。
シリルは、マリーを、敵とは見ていない。少なくとも、もう。
それが、マリーには、嬉しかった。警戒されることに、慣れていたから。「危険な存在ではない」と、この聡明な人が、認めてくれた。その事実が、じんわりと、胸を温めた。
「……ありがとうございます、シリル様。このご恩は、必ず」
「恩などと思うな。これは取引だ」
シリルは、そっぽを向いたまま、言った。
マリーは、小さく笑って、頭を下げた。そして、新しい我が家となる建物の方へと、歩いていった。
その後ろ姿を、シリルは、じっと、見送っていた。
マリーの姿が、見えなくなってから。
シリルは、一人、馬車に戻り、深く、座席に身を沈めた。
そして、額を、手で覆った。
——認めない。
シリルは、自分に、言い聞かせた。
あれは、ただの危機管理だ。優秀な医者を、危険から保護し、有事に使えるよう、手元に置く。極めて、合理的な判断だ。それ以上の、意味などない。ない、はずだ。
なのに。
昨夜の、あの手のひらの感触が。額の冷たい布が。見返りを求めない、あのまっすぐな瞳が。何度も、何度も、脳裏に、よみがえる。
胸の奥が、締めつけられる。
彼女のことを考えると、思考が、乱れる。合理が、揺らぐ。
これは——なんだ。
シリルは、自分の心に、誰よりも聡い男だった。だから、本当は、もう、分かっていた。この感情の、名前を。
「……ありえない」
シリルは、呻くように、呟いた。
ありえない。あってはならない。
自分は、宰相の息子だ。次代の国政を担う身。政略のために、しかるべき家格の令嬢と結ばれる——それが、定められた道だ。よりにもよって、後ろ盾もない、一介の平民の医者に、心を、奪われるなど。
そんなことは、立場が、許さない。
それに——何より。
合理主義者である自分が、こんな、利害もない感情に、振り回されるなど。理性が、許さない。感情で動く人間を、シリルは、ずっと、見下してきた。愚かだと、思ってきた。なのに、その自分が。
二重の鎖が、シリルを、縛り上げた。
身分という、鎖。
理性という、鎖。
その両方で、シリルは、芽生えかけた感情を、必死に、縛り上げ、封じ込めようとした。
——これは、恋などではない。
そう、自分に、言い聞かせて。
けれど。
馬車の窓の外、遠ざかっていく領地を見つめる、その青灰色の瞳には。
封じても、封じても、隠しきれない、熱が。
静かに、灯ってしまっていた。




