第四章 第一話 ―――氷は、まだ解けない―――
エルムフィールドでの暮らしは、穏やかに始まった。
シリルが用意した建物は、診療所として申し分なかった。広い処置室、薬を保管する涼しい蔵、患者を寝かせる清潔な部屋。マリーはそこに「マリー診療所」の看板を掲げた。
最初の数日こそ、よそ者を訝しむ目もあった。けれどマリーが村の老人の長年の腰痛を和らげ、子どもの高熱を一晩で引かせると噂はあっという間に広まった。エルムフィールドに腕のいい医者が来た、と。
マリーは、また忙しくなった。
でも、それは心地よい忙しさだった。誰も自分を「水色の瞳の癒し手」などと大仰に呼ばない。ただの「町のお医者さん」として、人々の暮らしに静かに溶け込んでいく。
これでいい、とマリーは思った。
物語の中心から離れた場所で。目立たず、騒がれず、ただ目の前の命に向き合う。望んでいた暮らしがようやく手に入った。
——ただ、一つだけ誤算があった。
「邪魔をする」
その日も、診療所の戸を開けてその男が現れた。
プラチナブロンドの髪に、青灰色の瞳。仕立ての良い装い。皮肉な微笑。
シリルだった。
「……シリル様。今週、もう三度目ですけど」
「監視だ。何度来ようと、私の自由だろう」
シリルはしれっと言って、手にした包みを診療台の上に置いた。
「これは?」
「東方の薬草だ。お前の蔵にはなかっただろう。解熱に効くと聞いた。……いらないなら捨てるが」
「い、いります! ありがとうございます!」
マリーが慌てて受け取ると、シリルはふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
……これである。
シリルは「監視」と称して、足繁くエルムフィールドに通ってきた。そして来るたびに、何かしらの手土産を持ってきた。手に入りにくい薬草。珍しい医学書。質の良い器具。
最初、マリーは戸惑った。監視のはずなのに、なぜこんなに親切にしてくれるのか、と。
でも、何度目かで気づいた。
——この人、もしかして不器用なだけなのでは。
「シリル様。お忙しいでしょうに、こんなに頻繁にいらして大丈夫なんですか」
「問題ない。ここは王都から近い。気晴らしの遠乗りにちょうどいい距離だ」
「気晴らし……」
「それ以上の意味はない。勘違いするな」
シリルは、いつものように釘を刺した。
でも、その手土産の薬草がいつもマリーの蔵に「足りないもの」ばかりなことに——本人は、気づかれていないつもりだった。
マリーは、小さく笑いを噛み殺した。
ぶっきらぼうで、皮肉屋で。でも、よく見ている。マリーが何を必要としているか、いつもちゃんと。
悪い人ではない。それだけは、はっきりと分かった。
シリルの不審な行動に最初に気づいたのは、テオだった。
「シリル。最近、やけにエルムフィールドへ行くそうじゃないか」
王立魔法院で顔を合わせたとき、テオは単刀直入に切り出した。
シリルの眉が、ぴくりと動いた。
「……誰に聞いた」
「君の部下が言っていた。週に何度も同じ場所へ遠乗りに行かれる、珍しいこともあるものだと。——シリル、君、エルムフィールドに何の用がある?」
テオの目は、いつになく鋭かった。
なぜなら、テオは知っていたから。リンデンの町でシリルが「探した」と言って現れた、あの相手のことを。マリーのことを。
もし、シリルが通っている先が——マリーのところだったら。
テオの胸が、ざわついた。
「答える義務はない」
シリルは、にべもなく言った。
「私がどこへ何をしに行こうと、私の勝手だ。お前に詮索される筋合いはない」
「では、マリーは関係ないんだな?」
テオがずばりと踏み込むと、シリルの表情が一瞬、固まった。
ほんの一瞬。けれど、それをテオは見逃さなかった。
「……関係ない」
シリルは視線を逸らして、そう答えた。
明らかに、不自然な間があった。
テオは確信した。シリルはマリーのところへ通っている。そして、それを隠している。
「シリル、君——」
「この話は終わりだ」
シリルはぴしゃりと遮ると、足早に立ち去った。
その背中を、テオはじっと睨んでいた。
——許せない。
なぜ、シリルがマリーの居場所を知っている。なぜ、自分には教えてくれない。あの再会の日から、テオもマリーにもう一度会いたくてずっと探していたのに。
テオは珍しく、はっきりとした敵意をシリルに抱いた。
そして、テオのその様子から、もう一人が嗅ぎつけた。
リオだった。
リオはマリーが姿を消してから、ずっと彼女を探し続けていた。手がかりを求めて各地を巡り、ラーテンの伝手をたどり、それでも見つからなかった。
そんな折、王立魔法院に出入りしていたリオは、テオのぴりぴりとした様子に気づいた。あの植物以外に興味のない男が何かに苛立っている。それも、シリルに対して。
リオの勘が働いた。
「おい、テオ。お前、何をそんなに苛ついてる」
「……リオネルか。君には関係ない」
「関係あるね。お前がそんな顔をするのは、よっぽどのことだ。——まさか、マリーがらみか?」
テオの肩が、びくりと跳ねた。
リオの赤い瞳が、すっと細められた。
「……その様子だと、図星らしいな。何か知ってるなら吐け。俺は、あいつを探してるんだ」
テオはしばらく逡巡したが、やがて苦々しげに口を開いた。
「……シリルが知っているらしい。マリーの居場所を。だが、頑として教えない」
リオの表情が変わった。
「シリルが?」
その日から、今度はリオがシリルに詰め寄った。
「おい、シリル。マリーの居場所を知ってるそうだな。教えろ」
「知らん」
「嘘をつけ。テオが言ってたぞ。お前、エルムフィールドに通ってるんだろう。あいつ、そこにいるのか?」
「……知らんと言っている」
シリルは、どこまでもしらを切った。
リオが何度問い詰めても、どんなに食い下がっても、シリルは決して口を割らなかった。あの合理主義者で、感情を見せない男が、この件に関してだけは、頑として譲らなかった。
「……なんなんだ、あいつは」
リオは、歯噛みした。
なぜシリルが、こんなにも頑なにマリーを隠すのか。リオには理解できなかった。
——理解できないのは、当のシリル自身も同じだった。
なぜ自分が、ここまで必死に彼女を隠そうとしているのか。「監視のため」「彼女の平穏のため」——いくつもの理屈を、シリルは自分に並べた。でも、本当のところは。
……他の男に、教えたくない。
あのテオにも、リオにも。マリーの居場所を。マリーのことを。
その、子どもじみた独占欲を——シリルは、認めたくなくて、ただ口を噤み続けた。
その不可解な事態は、やがてもう一人の耳にも届いた。
アルフレードである。
「シリルが、近頃、妙な動きをしている?」
執務室でアルフレードは、側近からの報告に眉をひそめた。
報告によればシリルは、週に何度もエルムフィールドという領地へ通っている。そして、その理由を誰にも、主君であるアルフレードにすら語ろうとしない。
アルフレードは、訝った。
シリルは、アルフレードにとってただ一人の心を許せる相手だった。打算なく繋がれる、唯一の友。その忠誠を、アルフレードは、誰よりも信頼していた。
そのシリルが、自分に、隠し事をしている。
……何かある。
アルフレードの、為政者としての勘が、囁いた。シリルほどの男が、ここまで頑なに秘するのだ。よほどの、何かが。それが、王家にとっての脅威でなければいいが——。
「……自分の目で、確かめる」
アルフレードは、立ち上がった。
そして、ある日。シリルがエルムフィールドへ向かうのを、アルフレードは、密かに、後をつけた。供も連れず、身分を隠して。
馬を駆り、シリルの行く先を追う。
たどり着いたのは、のどかな田園の領地だった。穏やかな町並み。畑。そして、その一角に建つ、こぢんまりとした診療所。
シリルは、まるで、自分の家のように、その診療所へ入っていった。
アルフレードは、物陰から、様子をうかがった。
診療所。医者。——いったい、シリルは、ここの何に、通っているのか。
待つこと、しばし。
やがて、診療所の戸が、開いた。
シリルが、出てくる。その後ろ姿は、いつもの彼らしくなくどこか軽やかにも見えた。シリルは一度だけ診療所を振り返り、それから、来た道を、馬で去っていった。
アルフレードのいる物陰には、気づかぬまま。
その姿が、街道の向こうに、完全に消えるのを、アルフレードは待った。
——さて。
シリルがいなくなった今、確かめられる。あの男が、何に、通っていたのかを。
アルフレードは、物陰から、足を踏み出した。診療所へ向かって、ゆっくりと。
そのとき。
診療所の戸口に、見送りを終えた人影が、まだ、残っていた。
シリルの去った方を、ぼんやりと眺めていた、その人物が——足音に気づいて、ふと、振り返った。
亜麻色の髪。それを、後ろで、束ねている。
そして、その瞳。
澄んだ、水色の。透き通った、きれいな水の色の瞳。
アルフレードの、思考が、止まった。
——あの娘は。
忘れるはずもなかった。一度しか会っていない。言葉もほとんど交わしていない。なのに、あの日からずっと頭から離れなかった。
ラーテンで、ガウェインを救った平民の医者。誇り高く、まっすぐで、王太子の前でも一歩も引かなかったあの娘。
『水色の瞳の癒し手』マリー。
その娘とアルフレードの目がまっすぐに合った。
水色の瞳が大きく見開かれる。
「……え」
マリーの声が、掠れた。
なぜ。どうして。この人が、ここに。
前世から恋したあの推し。一目見られただけで幸せだと身を引いたはずのあの人が。今、目の前に立っている。マリーの頭は真っ白になった。心臓が早鐘を打つ。
「……アル、フレード、殿下……?」
一方、アルフレードもまた。
いつもの、完璧な無表情の下で驚愕に打ちのめされていた。
まさか。よりにもよって。シリルが、頑なに隠していたものが——彼女だったとは。あの日から忘れられなかった、あの娘だったとは。
動揺と驚きと形容しがたい何かが胸の中で激しく渦巻いた。
けれど。
アルフレードは、王太子だった。二十年あまり感情を凍らせて生きてきた男だった。どれほど内心が乱れても、その氷の仮面はたやすくは崩れなかった。
まだ、その心の氷は——解けない。
アルフレードはただ静かにその名を口にした。
「……マリー」
そして低く問うた。
「なぜ、お前がこんなところにいる」
夕暮れの風が二人の間を吹き抜けた。
驚きに固まるマリーと、無表情を保つアルフレード。
誰もいなくなった診療所の前で、二人は再び向かい合っていた。




