第四章 第二話 ―――気づいてしまった―――
「なぜ、お前がこんなところにいる」
アルフレードの問いに、マリーはようやく我に返った。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。動揺を悟られてはいけない。この人はヒロインと結ばれるべき人。自分はただの平民の医者。それ以上でも以下でもない。
「……ラーテンを出て、この地で診療所を開いております。シリル様が場所を用意してくださいました」
マリーは努めて淡々と答えた。
その名を出した瞬間。
アルフレードの銀の瞳が、すっと細くなった。
「シリルが」
「はい」
「あの男とは、どういう関係だ」
その声は低く、どこか刃のような響きを帯びていた。
マリーは戸惑った。なぜそんなことを問われるのか。
「どういう、と言われましても……。私を監視するために、時々様子を見にいらっしゃるだけです」
「監視?」
「はい。私が目立ちすぎる人間だから、と。危機管理だとおっしゃっていました」
マリーは心の底からそう思っていた。シリルの行動を額面通りに受け取っていた。あの手土産も頻繁な訪問も、すべて「監視」の一環なのだ、と。
だがアルフレードには、そうは聞こえなかった。
あのシリルが。合理の塊のようなあの男が。「監視」などという見え透いた口実で、週に何度も一人の女のもとへ通っている。手土産まで持って。
そんなものが、ただの監視であるはずがなかった。
アルフレードの胸の奥で、黒く重い何かがぐるりと渦を巻いた。
なぜ、シリルなのだ。
あの男は自分の唯一の友だった。打算なく心を許せる、ただ一人の理解者。その男が自分に隠れて、この女に会っていた。自分にすら頑として語らずに。
その事実が、なぜか無性に面白くなかった。
恋仲、なのか。あの何にも心を動かさなかったシリルが。この女に。
考えた瞬間、胸の奥がぎりりと軋んだ。
——なんだ、これは。
アルフレードは自分の感情を測りかねた。シリルとこの女がどんな関係であろうと、自分には関係ないはずだ。なのに、なぜこんなにも心がざわつく。
「……っ」
そのとき。
マリーの視線が、ふとアルフレードの顔に留まった。
あれ。
マリーの中の、医者の感覚が、警鐘を鳴らした。
顔色が、悪い。
夕暮れの薄明かりの中でも、分かった。アルフレードの唇の色が、わずかに、青みがかっている。健康な人間の、それではない。そして、剣の柄に添えられた、その指先。ほんの、かすかに震えている。
マリーの背筋を、冷たいものが、走った。
この症状を、マリーは、知っていた。
いや医者として、知っていたのではない。
前世の、記憶。あのゲーム。『ロイヤル・クリムゾン・ファンタジア』。アルフレードのルートで、語られた、あの展開。
アルフレードは、物語の序盤、何者かによって、密かに、毒を盛られていた。慢性的な、微量の毒。即座に命を奪うものではない。じわじわと、確実に、身体を蝕んでいく、陰湿な毒。
ゲームでは、それを見抜き、解毒へと導くのはリオの役回りだった。毒に通じたリオが、王太子の異変に気づき、ヒロインと共に、彼を救うのだ。
でも。
今、ここには、リオは、いない。
そして、目の前の彼の症状はもう、始まっている。
マリーの頭の中で、二つの声が、せめぎ合った。
——関わるな。
一つの声が囁いた。これは物語の筋書きだ。本来、リオが気づき、リオが救う。お前が手を出せば、運命が変わってしまう。お前はヒロインじゃない。物語の中心に立ってはいけない。身を引け。
でも。
もう一つの声が叫んだ。
——苦しむ彼を、見たくない。
目の前で毒に冒されている人がいる。それが、ずっと恋してきたあの人だ。放っておけば、彼はこれから何ヶ月も、原因の分からない不調に苦しむことになる。誰にも言えず、人間不信ゆえに弱音も吐けず、たった一人で。
そんなの耐えられない。
マリーの中で、医者としての本能と推しを想う気持ちが、運命を守ろうとする理性を押し流した。
「……殿下」
マリーは、口を開いていた。
「失礼を承知で申し上げます。お加減が悪いのではありませんか」
アルフレードの銀の瞳が見開かれた。
「……何?」
「唇の色が優れません。指先に微かな震えがあります。それに、おそらくこのところ、原因の分からない倦怠感や眠りの浅さに悩まされているのではないですか」
アルフレードの表情が凍りついた。
なぜ。
なぜ、この女がそれを知っている。
その不調を、アルフレードは誰にも話していなかった。シリルにも、医師にも。人間不信の彼は、自分の弱さを誰にも見せたことがなかった。ただの過労だろうと自分に言い聞かせ、一人で抱え込んでいた。
なのに。
初めて会ったも同然の、この平民の娘が。たった今、顔を合わせたばかりの女が。一目でそれを言い当てた。
「……なぜ、それを」
アルフレードの声が、わずかに掠れた。
終盤
「医者ですから」
マリーは努めて平静に答えた。
本当はゲームで知っていた、なんて言えるはずもない。だから医者の観察眼を装った。実際、症状そのものは医学的にも説明がつく。
「人の身体の不調は、顔色や仕草に現れます。私はそれを読むのが仕事ですから。——殿下、その症状、ただの過労ではないかもしれません」
マリーは一歩踏み込んだ。
「失礼ながら、何か口にされたあとに体調が悪くなることはありませんか。特定の飲み物や食べ物のあとに」
アルフレードの眉がひそめられた。
「……まさか、毒だと言うのか」
「断定はできません。でも、可能性はゼロではありません。一度きちんとお調べになった方が」
「ばかな」
アルフレードは即座に撥ねつけた。
「私の口に入るものは、すべて毒見を経ている。毒など入り込む隙はない」
「微量の毒なら、毒見では気づけません。少しずつ時間をかけて蓄積させる毒もあります」
マリーが引かずに言うと、アルフレードの目に明確な警戒が宿った。
「……お前」
その声は冷たかった。
「会ったばかりの私に、ずいぶんと踏み込んでくるな。私を不安にさせて取り入るつもりか。それとも お前自身が、その『毒』とやらに関わっているのか」
人間不信の刃だった。
誰も信じない。誰の親切も、裏があると疑う。それがアルフレードの生き方だった。突然現れて自分の隠した不調を言い当てる女など、警戒する以外にない。
マリーはその冷たい視線を、まっすぐに受け止めた。
怯まなかった。
なぜなら彼女には、やましいことなど何もなかったから。そして目の前の人を救いたいという思いだけは、誰にも否定させなかったから。
「私を疑うのは、ご自由です」
マリーは静かに、けれどはっきりと言った。
「取り入るつもりもありません。毒に関わってなどいません。私はただ、目の前に不調を抱えた人がいる。それを見過ごせないだけです。患者が王太子殿下だろうと、町の子どもだろうと、私には同じことです」
その瞳に、嘘はなかった。
澄んだ水色の瞳。媚びも恐れも打算もない。ただまっすぐに、こちらを射抜く眼差し。
アルフレードはたじろいだ。
こんな目を向けられたことが、なかった。
彼の前で、人はいつも、媚びるか、恐れるか、欲を隠して笑うかだった。誰もこんなふうに、まっすぐに彼を王太子ではなく、一人の「不調を抱えた人間」として見たことはなかった。
その瞳に、アルフレードの凍りついた心が。
ほんのわずかに。
軋んだ。
——なんだ、この女は。
長い沈黙が流れた。
やがてアルフレードは、ふいと視線を逸らした。
「……忠告は、聞いておく」
それだけ言って、彼は踵を返した。
「だが、お前を信じたわけではない。次に会うときまでに、お前という人間を調べさせてもらう」
そう言い残して、アルフレードは去っていった。
その背中を、マリーは見送った。
完全にその姿が見えなくなってからマリーは、ずるずるとその場に座り込んだ。
「……やってしまった」
膝が震えていた。
関わってしまった。物語の中心に。本来、自分が触れてはいけないはずのアルフレードの運命に。リオが救うはずだったあの毒の展開に、自分が手を出してしまった。
運命が、変わってしまうかもしれない。
あの、愛した物語の結末が。
分かっていた。分かっていたのに——止められなかった。
苦しむ彼を見たくなかった。たった一人で、誰にも言えずに毒に蝕まれていく彼を、見過ごすなんてできなかった。
たとえ、それで物語が歪んでしまうとしても。
「……ばかだ、私」
マリーは両手で顔を覆った。
夕暮れの風が、診療所の前に一人座り込む彼女を、静かに撫でていった。
恋した人を、救いたい。
でも、救えば、その人の幸せな結末を壊すかもしれない。
その矛盾が、マリーの胸を締めつけて離さなかった。




