第四章 第三話 ―――疑いながら、委ねる―――
アルフレードが再び診療所を訪れたのは、それから十日後のことだった。
前回とは、様子が違った。
顔色は明らかに悪化していた。唇の青みは増し、額には脂汗が滲んでいる。気丈に背筋を伸ばしてはいるが、その立ち姿には隠しきれない疲労が滲んでいた。
マリーは一目で悟った。毒が進行している。
「……お前の言った通り、だったかもしれん」
アルフレードは苦々しげに口を開いた。
「あれから調べさせた。私の口にするものに異常はなかった。だが——体調は悪くなる一方だ。眠れず、力が入らず、指の震えもひどくなっている」
彼はマリーをまっすぐに見た。その銀の瞳には、まだ警戒の色があった。けれど、それ以上に——藁にもすがるような切実さがあった。
「お前を信用したわけではない。だが、お前の見立ては当たっていた。……診てくれ。これは依頼だ」
誇り高い王太子が、平民の医者に頭を下げるに等しい言葉だった。
それがどれほどの葛藤の末の決断か、マリーには分かった。誰にも弱さを見せない人。人を信じられない人。その人がこうして自分の不調を認め、他人に身を委ねようとしている。
マリーの胸が痛んだ。
「……分かりました。診させていただきます」
マリーは医者の顔で頷いた。
診察は丁寧に行われた。
マリーは脈を取り、目の色を確かめ、舌を診て、症状を一つひとつ問診していった。前世の知識と、この世界で培った診断技術。そして——ゲームで知っていた、毒の正体。
すべてが符合した。
慢性的な、微量の蓄積毒。即効性はないが、確実に身体を弱らせ、長期的には命に関わる陰湿なもの。
「……やはり、毒です」
マリーは静かに告げた。
「それも、かなり巧妙な。少量ずつ、長い時間をかけて盛られています。毒見では、まず気づけません」
アルフレードの表情は動かなかった。けれど、その指先がわずかに握りしめられた。
「解毒はできるのか」
「できます。ただ、一度で抜けるものではありません。時間をかけて、体内の毒を少しずつ排出していく必要があります。——通っていただくことになります」
「……分かった」
アルフレードは短く答えた。
それから彼は、ふと目を伏せた。
誰にも見せたことのない、弱った姿を。よりにもよって、得体の知れない平民の女に晒している。その事実に、彼の中の何かが軋んでいた。
屈辱ではなかった。もっと複雑な、何か。
——なぜ、この女には。
不思議だった。人に弱みを見せることをこれほど嫌う自分が。なぜこの女の前では、こうして身を委ねていられるのか。
その理由を、アルフレードはまだ言葉にできなかった。
「……一つ、聞いていいか」
「はい」
「お前はなぜ、ここまでする。私はお前を疑い、警戒し、突き放した。なのに、なぜこんなにも丁寧に私を診る」
マリーは薬を煎じる手を止めずに答えた。
「前にも申し上げました。患者が誰であろうと、私には同じです」
それから、少しだけ声を和らげた。
「それに——苦しんでいる人を放っておけないんです。たとえ、その人に疑われていても。これは私の、譲れないところなので」
アルフレードはその横顔を、じっと見ていた。
煎じ薬の湯気の向こうで、淡々と手を動かすその姿を。
その瞳の奥の氷が——また、ほんの少し軋んだ音を立てたことに、彼自身、気づいていた。
一方、その頃。
王都では、アルフレードの密命を受けたシリルが、毒の出所を追っていた。
そしてシリルは、一人の協力者を引き入れることにした。
「……なぜ、俺がお前に協力しなきゃならない」
リオネルは不機嫌を隠さなかった。
王都の一室。向かい合うのは、皮肉屋の参謀と、飄々とした毒の研究者。本来、交わるはずのない二人だった。
「毒の知識において、お前の右に出る者はいない。それは認めよう」
シリルは淡々と言った。
「私は、ある人物が盛られた毒の正体を突き止めたい。お前の力が要る」
「断る。俺は今、マリーを探すので手一杯だ。お前の頼みを聞いてる暇は——」
「その毒は」
シリルがリオの言葉を遮った。
「お前の父が追っていたものと、同じかもしれん」
リオの動きが止まった。
その赤い瞳が、すっと細くなる。
「……どういう意味だ」
「お前の父——元伯爵が、毒殺犯の汚名を着せられ失脚した。だが本当は、父君は何者かの『毒の陰謀』を掴みかけていた。違うか?」
リオは答えなかった。けれど、その沈黙が肯定だった。
「私が今追っている毒。そして、ラーテンのヴァロー研究員が盛られた毒。——それらが、お前の父君の件と同じ糸で繋がっている可能性がある。私はそう睨んでいる」
リオの表情から、皮肉が消えた。
「……本気で言ってるのか」
「私は無駄口は叩かない主義でね」
シリルは薄く笑った。
長い沈黙があった。
やがてリオは、ふっと息を吐いた。
「……いいだろう。手を組んでやる。ただし、お前のためじゃない。親父の無念を晴らすためだ」
「構わない。動機などどうでも。目的が一致すれば、それでいい」
二人は、握手こそ交わさなかった。
けれど、その瞬間、皮肉屋の参謀と、復讐を秘めた研究者の利害は、確かに一つに重なった。
調査は難航した。
だが、リオの毒の知識とシリルの政治的な情報網が組み合わさると、それは恐ろしい速さで真相へと近づいていった。
ヴァロー研究員に盛られた毒は、急性の即効性のものだった。一方、アルフレードを蝕む毒は、慢性のゆっくりと効くもの。そして十数年前、リオの父が掴みかけていた毒も、また別の症状を引き起こすものだったという。
症状は、それぞれ違う。
だが——リオが三つの毒の製法を丹念に照らし合わせていくうちに、ある事実が浮かび上がった。
「……効き方は違う。急性と、慢性。だが」
深夜の調査室で資料を広げながら、リオが低く呟いた。
「使われている特殊な原料が同じだ。配合の癖も、毒の『組み立て方』も。——これは、同じ人間の手による毒だ。即効のものと遅効のものを、相手に応じて作り分けている。だが作り手は、間違いなく同一人物だ」
シリルの表情も険しくなった。
「同じ作り手が、十数年にわたって毒を作り続けている、ということか」
「ああ。しかも、ただの毒師じゃない。これだけの技術と原料を、長年にわたって安定して使える——背後に、相応の『組織』がいる」
シリルは、資料の一点を指で叩いた。
「ヴァロー研究員は、ラーテンの運営の要。アルフレード殿下は、次期国王。そして、お前の父君は、その陰謀を暴きかけた人物だった。——標的はすべて、この国の中枢か、それを脅かしかねない者」
「国を内側から蝕もうとしてる、ってことか」
リオの声に緊張が走った。
二人は顔を見合わせた。
これは、単なる個別の毒殺事件ではなかった。十数年にわたってこの国の中枢を、密かに同じ作り手の毒で侵し続けてきた——巨大な陰謀。その、ほんの一端が、今、二人の前に姿を現したのだった。
「……厄介なことに、なってきたな」
シリルが額を押さえた。
「ああ。だが、これで親父の無実を証明する糸口が見えてきた」
リオの赤い瞳が、暗く燃えた。
動機は違う。シリルは主君と国を守るため。リオは父の無念を晴らすため。
けれど、二人が追う先には、同じ巨大な敵がいた。
数日後。
シリルはアルフレードへの報告のため、エルムフィールドへと向かっていた。
その道すがら、シリルの胸中は穏やかではなかった。
報告の場所は、マリーの診療所。アルフレードが治療のために通っている、あの場所だ。——つまり、もうとうに知られている。自分が頑なに隠し続けてきたマリーの存在を。よりにもよって、主君であるアルフレードに。
考えるほどに、気が重かった。
あの聡いアルフレードのことだ。自分がマリーのもとへ通っていたことなど、すべて見抜いているに違いない。きっと問われる。「なぜ隠していた」と。「あの娘は、お前にとって何なのだ」と。
……どう、答えるべきか。
馬を進めながら、シリルはずっとそれを考えていた。本心を明かすつもりは毛頭なかった。あの感情の名前を、主君に——いや、誰にも知られるわけにはいかない。
覚悟を決めるしかなかった。何を問われても、いつも通りの仮面で、いつも通りの理屈ではぐらかす。それしかない。
診療所に着くと、アルフレードは治療を終えたところだった。
「シリル。来たか」
その声はいつも通り、淡々としていた。マリーのもとに通っていたことを、咎める風でもなく、詮索する風でもなかった。ただ当然のように、シリルを受け入れた。
その、あっさりとした態度が——かえってシリルを身構えさせた。
「……殿下。ご報告が」
シリルは努めて平静に頭を下げた。背筋には、薄く汗が滲んでいた。
アルフレードは報告を聞く姿勢を取った。けれど、その前に。
「シリル」
「は」
「お前はなぜ、この診療所に通っていた」
ついに、来た。
シリルは一瞬、息を詰めた。予期していた問いだった。それでも、いざ向けられると胸が跳ねた。
だが、すぐにいつもの涼やかな仮面を被り直した。
「……監視です」
シリルはしれっと言い放った。
「この者は腕は確かですが、素性の知れぬ平民。野放しにするのは危機管理上、好ましくありません。ゆえに私が目を光らせておりました。それだけのことです」
その、すらすらとした弁明に。
アルフレードはしばし、無言でシリルを見つめた。
……嘘だな。
アルフレードには分かった。長年の付き合いだ。シリルが本心を隠すとき、どんな顔をするか。今の彼は、まさにその顔だった。
だが、アルフレードもまた、それを追及しなかった。
「……そうか」
ただ、それだけ言った。
二人の唯一無二の友は。
互いに本心を隠したまま。けれど、互いが「隠している」ことだけは分かったまま。奇妙な沈黙を共有した。
その様子を、マリーは不思議そうに見ていた。
なぜ二人とも、こんなにぎこちないのだろう、と。
——本当に何も気づいていないのは。
この場で、ただ一人、マリーだけだった。




