第四章 第四話 ―――命に、値段はない―――
アルフレードの治療はそれから幾日にもわたって続いた。
体内に蓄積した毒を少しずつ排出させる。それは根気のいる作業だった。マリーは毒の種類に合わせた解毒の薬を、日ごとに調合を変えながら丁寧に処方していった。
最初は警戒を解かなかったアルフレードも、日を追うごとに変わっていった。
顔色が戻っていく。指の震えが止まる。眠れるようになり力が戻ってくる。確かに身体が回復していくのを彼自身、実感していた。
そして、それ以上に。
アルフレードはこの診療所で過ごす時間に、奇妙な心地よさを覚え始めていた。
ある日のことだった。
アルフレードが治療に訪れると、診療所はいつものように患者で賑わっていた。
腰の曲がった老婆。畑仕事で手を痛めた農夫。熱を出した小さな子ども。マリーはその一人ひとりを丁寧に診ていた。誰に対しても同じ温度で。同じまっすぐな眼差しで。
アルフレードは診察の順番を待ちながら、その様子を眺めていた。
「マリー先生、ありがとうな。これでまた畑に出られる」
「無理しないでくださいね。痛みが戻ったらすぐ来てください」
「先生、おらの孫も見てくれてありがとうなあ」
「元気になってよかったです。また飴あげますね」
マリーは村人たちと笑い合っていた。
その光景はアルフレードの知る世界とはまるで違っていた。
彼の周りにはいつも序列があった。身分。格式。礼節。誰もが彼の前ではかしこまり、ひれ伏し、言葉を選んだ。当然のことだと思っていた。自分は王太子なのだから。
なのに、ここにはそんなものがなかった。
ただ人がいて、その人を癒す者がいる。それだけの世界。
「——次の方、どうぞ。あ、殿下。お待たせしました」
マリーがアルフレードを呼んだ。
その呼び方にアルフレードは内心、面食らった。
「殿下」とはつけている。けれど、その口調は——さっきの老婆や農夫に向けたものと何ら変わらなかった。
順番を待たせ、他の患者と同じ列に並ばせ、同じように「次の方」と呼ぶ。
……これがもし王城で行われたなら。
王太子を平民と同列に扱うなど。順番を待たせるなど。臣下が見れば不敬だと卒倒するだろう。極刑を、と息巻く者すらいるかもしれない。
なのに。
アルフレードは不思議と嫌な気がしなかった。
いや——それどころか。
新鮮だった。あまりにも。
誰も自分を特別扱いしない。誰も自分に媚びない。ただ一人の患者として順番に診られる。そんなことは生まれて初めてだった。
その、あまりの新鮮さに。
アルフレードの口元が——ふと、ゆるんだ。
厚く凍りついていたその仮面が。ほんの少し剥がれて。
彼は思わず小さく笑っていた。
「……ふっ」
「? どうかされましたか、殿下」
マリーが不思議そうに首を傾げた。
「いや」
アルフレードはすぐにいつもの無表情に戻った。けれど、その目元にはまだかすかな笑みの名残があった。
「……お前のところでは、王太子もずいぶんと待たされるものだと思ってな」
「あ……! も、申し訳ございません! つい、いつもの調子で——」
「構わん」
慌てるマリーをアルフレードは遮った。
「悪い気は、しなかった」
それは彼の本心だった。
治療の合間、アルフレードはふと診療所の料金表に目を留めた。
そこにはどんな治療も一律の、ごくわずかな額が記されていた。
「……これは、何だ」
「料金表です」
「料金だと? どんな病でも、どんな治療でも、この額なのか。重い病も、軽い病も?」
「はい。一律です」
アルフレードは訝った。
「ばかな。それでは商売にならんだろう。重病人の治療には高価な薬も長い手間もかかる。それを軽い擦り傷と同じ額で診ていては——お前、損をするばかりだぞ」
経営者として見れば、それは明らかに破格すぎた。為政者の目から見ても商才の欠片もないと言わざるを得ない。
アルフレードは内心、呆れた。この女、腕は超一流だが商いの才はまるでないらしい、と。
だが。
マリーは当然のように答えた。
「商売には、なりません。でも、それでいいんです」
「……なに?」
「だって、病気や怪我は、お金持ちだけがするものじゃないでしょう」
マリーの水色の瞳が、まっすぐにアルフレードを見た。
「治療費が高ければ、貧しい人は病気になっても医者にかかれません。我慢して、こじらせて、命を落とす。——そんなのは間違っています。命の価値は身分や財産で変わったりしない。誰の命も同じだけ尊い」
その言葉は静かだった。けれど、揺るぎなかった。
「だから、うちは一律です。誰でも同じように医療を受けられる。それが私の——譲れない信念なんです」
アルフレードは言葉を失った。
命に値段をつけない。
身分で命を区別しない。
それは彼が生まれてから一度も聞いたことのない考え方だった。彼の世界では命にすら序列があった。王族の命と、貴族の命と、平民の命。同じではないのが当然だった。
なのに、この女は言う。誰の命も同じだけ尊い、と。
「……お前は」
アルフレードはゆっくりと口を開いた。
「商人には、向いていないな」
「あはは、よく言われます」
「だが」
彼は料金表を見つめたまま続けた。
「——医療は、商売ではない、ということか」
その言葉に、マリーはぱっと顔を輝かせた。
「! はい。そうです。その通りです、殿下」
アルフレードの胸に、何か温かいものが広がっていった。
命の平等。医療の意味。この女がその身ひとつで体現している信念。
それは次代の国王として、彼がこれまで考えたことのなかった、まったく新しい——けれど、ひどく大切な視点だった。
この女は、ただの医者ではない。
アルフレードは改めて、そう思った。一目見たときから惹かれていた。その腕に。その誇りに。そして今、そのまっすぐな信念に——彼の心は確かに、強く引き寄せられていた。
ただ、それでも。
彼の心の、いちばん奥の凍りついた核は。
まだ、解けてはいなかった。彼自身、この感情が何なのか——気づいてすら、いなかった。
長年の孤独が、人間不信が、その自覚を頑なに阻んでいた。
その頃、シリルとリオの捜査は、ついに核心へと迫っていた。
十数年来、同じ作り手の毒で国の中枢を蝕んできた、巨大な陰謀。その糸を一本ずつ手繰っていくうちに、二人は一つの家に行き着いた。
「……ドラクロワ侯爵家」
シリルがその名を口にした。
リオの顔が強張った。
「ドラクロワ……。親父を陥れた家だ」
リオの父が毒殺犯の汚名を着せられ、失脚したとき。最も得をし、最も喜んでいたのが、このドラクロワ侯爵家だった。リオの伯爵家が没落したことで、ドラクロワはその地位と利権を、まんまと手に入れたのだ。
「ボードワン・ド・ドラクロワ侯爵」
シリルが苦々しげに続けた。
「社交界の人気者だ。愛想がよく、誰からも好かれ、信頼されている。私も表向きは何度も、にこやかに言葉を交わしてきた。——だが」
シリルの青灰色の瞳が、鋭く光った。
「思えば、あの男の周りでは、敵対する家が不自然なほど次々と没落していった。事故、病、醜聞。——そのすべてに毒の影があったとしたら」
リオが低く唸った。
「愛想のいい仮面の裏で、邪魔な奴を片っ端から毒で消してきた、ってことか。……反吐が出る」
「まだ確証はない。あの男は狡猾だ。尻尾は容易には掴ませないだろう」
シリルは慎重に言った。けれど、その内心には確かな手応えがあった。
「だが、糸は確実にあの家へと伸びている。——詰めていくぞ、リオネル。慎重に、だが確実に」
「ああ。今度こそ、親父の無念を晴らす」
二人の追及は静かに、けれど確実に、巨大な敵の喉元へと近づいていった。
そして——アルフレードの治療が完了する日が来た。
最後の解毒薬を処方し、マリーは丁寧に彼の状態を確かめた。脈も顔色も、すっかり健康なものに戻っていた。指の震えも倦怠感も、もうない。
「……もう、大丈夫です。毒は、すっかり抜けました」
マリーはそう告げた。
「殿下のお身体は、もう健康です。あとは滋養のあるものを召し上がって、しっかり休めば元通りになります」
「……そうか」
アルフレードは自分の手を見つめた。もう震えていない、その手を。
「世話になった」
短い言葉だった。けれど、それは彼の精一杯の感謝だった。
アルフレードが供を連れて去っていく。その後ろ姿をマリーは診療所の戸口で見送った。
完全にその姿が見えなくなってから。
マリーはふう、と長い息をついた。
そして——その場にしゃがみこんだ。
膝に顔を埋める。
込み上げてきたのは涙だった。悲しみの涙ではなかった。あまりにも大きな満ち足りた想いが、胸からあふれ出して止まらなかった。
——治せた。
あの人を。前世からずっと、ずっと恋してきたあの人を。
画面の向こうの、手の届かない人だった。一生会えるはずのなかった人だった。その人をこの手で診て、薬を作り、毒から救うことができた。
こんなことが、あっていいのだろうか。
「……夢、みたい」
マリーは呟いた。
前世の自分を思い出す。疲れ切って、眠れなくて、恋も結婚も諦めて。ただ画面の中の彼に焦がれることしかできなかった、あの日々。
なのに。
今、自分は。
彼と同じ世界で同じ空気を吸い、彼の命を自分の手で繋いだ。医者として。一人の人間として。
これ以上の幸せが、あるだろうか。
「……この世界に、生まれてよかった」
マリーは涙を拭いながら空を見上げた。
澄んだ青い空。あの転生した朝に見上げた空と、同じ青。
恋が実らなくてもいい。アルフレードはいずれヒロインと結ばれる。それでいい。自分はヒロインじゃない。それでいいのだ。
ただ、一度でも。
最愛の人をこの手で救えた。その時間があった。
それは一生忘れない。誰にも奪えない、自分だけの宝物。
もう、これ以上は何も望まない。
マリーはそっと目を閉じた。
胸の中に満ち足りた温かな光が、いつまでも灯っていた。




