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平民なので王都には行けませんが、なぜか推しキャラが私を追いかけてきます  作者: 獅子の舞子


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第四章 第五話 ―――抱きしめて、許して―――

 ドラクロワ侯爵家の動きは、思いがけず早かった。


 アルフレードの治療が完了してから、ひと月も経たぬうちに——社交界に奇妙な噂が流れ始めた。


『エルムフィールドに、危険な思想を広める平民の医者がいる』


『治療費を一律にし、誰にでも同じ医療を施す。聞こえはいいが、要は身分の秩序を蔑ろにしているということだ』


『王侯貴族と平民の命を等しく扱うなど——あれは国の根幹を揺るがす危険思想ではないか』


 噂は瞬く間に広がった。社交界の人気者であるボードワン・ド・ドラクロワ侯爵が、にこやかに、けれど執拗にその話題を持ち出したからだ。


「いやはや、由々しき事態ですなあ」


 夜会の場で侯爵は嘆かわしげに首を振る。


「平民が王太子殿下を治療したのは事実、結構なことです。しかしその者が『身分による差を設けない』などと公言しておるとか。これは由々しき問題でしょう。神が定めたもうた身分の秩序を一介の平民が乱すなど——他の貴族議員方も、お聞きになりたいでしょうな」


 ドラクロワ侯爵は巧妙だった。


 愛想のいい仮面の下で、彼は確実に貴族議会の風向きを動かしていた。マリーの「危険思想」を糾弾する声が貴族たちの間でじわじわと膨れ上がっていく。


 そしてその裏で、もう一つの動きが進んでいた。


 マリーの命を絶つための準備が。






「議会でマリーを召喚する動議が出ました」


 王城の一室。シリルがアルフレードの執務机に書類を広げた。


「『その思想を公の場で説明させよ』と。表向きは弁明の機会を与える形ですが、内実は——糾弾と追放の決議への布石です」


 アルフレードの銀の瞳がすっと細くなった。


「ドラクロワか」


「間違いなく。あの男が裏で糸を引いています」


「マリーを議会に出すわけにはいかん。あの場は政争の巣窟だ。彼女のような者をあの泥沼に引きずり込むなど——」


「ですが、出ぬわけにもいきません」


 シリルが淡々と現実を突きつけた。


「出席を拒めば、それこそ『王太子の権威を笠に着る危険人物』と糾弾される。ドラクロワはその逃げ道も塞いでいます」


 アルフレードは執務机を強く拳で叩いた。


 守らねばならない。あの女を。あの命に貴賤をつけないまっすぐな女を。彼女の信念は次代の国王として、この国に必要なものだと——アルフレード自身、確信していた。


 だが政治の闇は深い。


 そしてアルフレードはまだ知らなかった。ドラクロワの手がもっとずっと暗いところまで伸びていることを。




 その夜、エルムフィールドの郊外。


 月のない闇の中を、複数の影が診療所に向かって忍び寄っていた。


「——間に合ったようだな」


 その影たちの行く手に、ふわりと銀色の髪が舞った。


 テオだった。


 いつものぼんやりとした顔つきは消えていた。若草色の瞳が月明かりの代わりに淡く青白く光っている。彼の両手には見たこともない複雑な紋様が浮かび上がっていた。


「植物以外には興味がなくてね。だから本当はこういうことに力を使うのは好きじゃない」


 テオは独り言のように呟いた。


「だが——マリーを傷つけようとする者には、容赦しない。それだけだ」


 影たちが剣を抜いた瞬間。


 テオの周囲の地面から、無数の蔓が爆発的に伸びた。鋭い棘を持つ絡みつくような蔓だった。それは見る間に刺客たちの身体を絡め取り、武器を奪い、地に伏せた。声を上げる暇すらなかった。


 一瞬の出来事だった。


 あとには捕らえられて呻く影たちと、淡々と立つテオだけが残った。


「……ガウェイン。引き取ってくれ」


 テオが闇に向かって呼びかけると、木の陰から長身の影が現れた。


「ガハハ! お見事! しかしお前さん、本当に容赦ねえなあ」


 ガウェインだった。テオの連絡を受けて、密かに兵を伏せていたのだ。


「植物は嘘をつかない。だが人間は嘘をつく。私は嘘をつく者が嫌いだ」


 テオはつまらなさそうに肩をすくめた。


「あとは頼んだ。私は研究室に戻る」


「ちょい待ち。お前さん、これ何人目だ?」


「数えていない。三十は超えていると思う」


 ガウェインは目を丸くした。三十人以上のスパイ・刺客を、テオがたった一人で誰にも知られず片付けてきたということだ。


 なのにテオは。


 功績を誇るそぶりすら、なかった。


「テオ」


 ガウェインがふと、その銀髪の青年に近づいた。そして——大きな手で、ぽんとその頭を撫でた。


「……は?」


 テオが虚を突かれた顔をした。


「よしよし。よく頑張ったな、お前」


 ガウェインの笑顔は太陽のようだった。豪快で屈託がなくてまっすぐで。


「お前のこと、誰も知らねえだろうけどよ。俺は知ってるぜ。マリーが今日まで無事だったのはお前のおかげだ。ありがとうな、テオ」


 テオはしばらくぽかんとしていた。


 誉められ慣れていないのだ。彼の世界では研究の成果以外、評価されることがなかった。ましてやこんなふうに、ただ「頑張った」と頭を撫でられることなど。


「……別に礼を言われたくてやったわけじゃない」


 テオはふいと顔を背けた。


「私はただ、マリーを守りたかっただけだ。それだけだ」


「うん。知ってる」


 ガウェインはもう一度、テオの頭を撫でた。


 夜の闇の中で、その二人の姿は奇妙に温かかった。






 一方その頃。


 貴族議会では、シリルとリオがそれぞれの戦いを繰り広げていた。


 シリルは参謀の本領を発揮し、議会工作に奔走していた。マリーの召喚動議を骨抜きにするため、中立派の貴族たちに論理と恩義で訴えかける。あの男の頭脳と弁舌は政治の世界では無類の力だった。


 リオは別の場所で、ドラクロワに直接対峙していた。


「あんたが親父を陥れた張本人だな、ドラクロワ侯爵」


 社交場の片隅で、リオはまっすぐにその仮面の男を見据えた。


「証拠はまだ揃いきっていない。だがもうじき揃う。覚悟しておけ。——お前は終わりだ」


 ドラクロワはにこやかに、薄く笑った。


「ほう。元伯爵家のご子息にそう言われましては、震え上がりますな」


 その目はまったく笑っていなかった。


「だが口の利き方にはお気をつけください。失脚した家の人間が現役の侯爵に楯突くなど、世間体が悪うございますよ」


 リオの拳が固く握りしめられた。


 だがドラクロワの内心は、すでに焦り始めていた。


 テオの暗躍でスパイは次々と潰されている。リオの捜査は確実に核心へ迫っている。シリルの議会工作で糾弾の声は思うように膨らまない。


 時間がない。


 ドラクロワは——焦り、暴発した。




 ドラクロワが最後の駒として目をつけたのは、一人の少年だった。


 マルタという名の、十歳の少年。エルムフィールドの近隣の村に住み、母親が長らく重い病に伏せっていた。父親はおらず、少年は一人で母を看ていた。村の医者では手に負えず、王都の名医に頼めば治る——だが、そのための金などどこにもなかった。


 そこへ、にこやかな貴族の男が近づいてきた。


「お母さんを救いたいかい?」


 ドラクロワは優しい声で囁いた。


「ある人をちょっとだけ刺してくれれば、お母さんを治す金を出してあげよう」


 少年の手にドラクロワは、小さな短剣を握らせた。


 それが——この国の医療制度が生んだ悲劇だった。


 貧しい者には医療が届かない。だからこんな子供までもが、母を救うために知らない誰かを傷つけることを選ばざるを得なくなる。


 マリーがずっと変えたいと願ってきたその不条理が——皮肉にも、彼女自身を襲おうとしていた。




 その日マリーは診療所で一人、薬の調合をしていた。


 夕暮れの穏やかな時間だった。


 戸口に小さな影が立った気がして、マリーは顔を上げた。


「いらっしゃい。どうし——」


 言葉を最後まで言えなかった。


 小さな影が一気に距離を詰めた。視界の端で、何かが鈍く光った。


 脇腹に熱が走った。


 マリーは息を呑んだ。何が起こったか分からないまま視線を落とす。粗末な服の少年が、自分の腹に短剣を突き立てた格好で、顔をくしゃくしゃにして震えていた。


 十歳ほどの少年だった。


 刺した本人が、誰よりも青ざめていた。


「あ……っ、ぁ……っ」


 少年の手から短剣が滑り落ちた。


 地面に転がる金属の音と同時に、少年がへたり込んだ。そして堰を切ったように、わんわんと泣き出した。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」


 しゃくり上げながら、少年は地面に手をついた。


「おかあさんが、おかあさんが死んじゃうって、お薬が買えなくて、おじさんが、刺したらお金くれるって、おかあさん助けられるって、でも、でも……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」


 マリーの脇腹から血が滲んでいた。


 医者の感覚で分かった。深いが急所は外れている。出血は多い。けれどすぐに死ぬような傷ではない。


 だから——マリーは膝をついた。


 地面に泣き崩れる少年と目線を合わせるように。


「……いいのよ」


 マリーは震える声で、けれどはっきりとそう言った。


「いいのよ、いいのよ。あなたは悪くない」


「で、でも、ぼく、ぼく刺しちゃった、刺しちゃっ……っ」


「いいの」


 マリーは血の滲む脇腹を押さえながら、少年の小さな身体を両腕で包み込んだ。


 力の限り、抱きしめた。


「あなたは悪くない。お母さんを救いたかっただけ。優しい子。本当に優しい、強い子」


「ち、違う、ぼく、わるい、わるい、おねえちゃんを、おねえちゃんを……っ」


「いいの、いいのよ」


 マリーは少年の汚れた髪に頬を寄せた。涙が止まらない少年の背中を、何度もさすった。


「全部いいのよ。あなたの気持ち全部わかるから。お母さんを愛してるだけ。それは悪いことなんかじゃない」


 少年はマリーの胸に顔を埋めて、声を限りに泣いた。


「ぼく、ぼく、しんでもいいから、おかあさんだけは、おかあさんだけは……っ」


「死なせないわ」


 マリーは少年の背を、ぎゅっと抱きしめた。


「あなたもお母さんも絶対に死なせない。約束する」


 マリーの視界が霞み始めていた。


 出血が思ったより多い。意識が遠のく。


 それでもマリーは少年の耳元で、最後の力を振り絞って囁いた。


「あなたのお母さんのお名前を教えて」


 少年はしゃくり上げながら、母の名を告げた。そして自分の名も。


「……覚えた、わ……」


 マリーの唇がわずかに笑った。


「必ず、治すから……約束、よ……」


 マリーの瞼がゆっくりと落ちていった。


 少年を抱きしめたまま——マリーはその意識を手放した。






 悲鳴を上げて駆けつけたのは、近くの村人たちだった。


 血に染まったマリーと、その腕の中で泣き続ける少年を見て、村人たちは凍りついた。けれど誰一人——少年に手を上げる者は、いなかった。


 なぜなら彼らは知っていたから。


 マリーがこの少年に向けた腕の意味を。






 血相を変えて駆けつけたリオは、診療所の処置台にマリーを横たえると、震える手で彼女の服を切り開いた。


「……っ」


 リオの呼吸が乱れた。


 深い傷だった。出血が止まらない。手が震える。リオは毒の専門家だった。解毒には誰よりも自信があった。だがこれは——刃物の傷。縫合。外科処置。


 リオの専門外の領域だった。


「くそ……っ」


 リオは奥歯を噛みしめた。


 マリー以外、頼める者はいない。王都の典医を呼んでいる時間もない。今ここで、自分がやるしかない。


 リオは深く呼吸した。


 そして思い出した。


 あのラーテンの研究院での日々。マリーが患者を縫合する姿を、リオは何度も傍で見ていた。「リオ、ここはこうやって縫うんですよ」「結び目はこの位置に」「皮膚の張力を考えて、糸の間隔は——」。


 ただの好奇心だった。あの頃は。


 毒以外の医療技術も知っておいて損はない。そんな軽い気持ちで、リオはマリーから縫合の手ほどきを受けていた。


 あの時間が、こんな形で役に立つとは。


「マリー。お前の教えてくれた通りに、やる」


 リオは自分に言い聞かせるように呟いた。


 針を持つ。糸を通す。皮膚の張力を指で確かめる。マリーの声が頭の中で蘇る。「焦らないで、リオ。一針、一針、確実に」。


「……分かってる」


 リオの赤い瞳が静かに据わった。


 慣れない手つきだった。マリーのように滑らかにはいかなかった。それでも、リオは止まらなかった。一針、また一針。汗が額を伝う。


 血を止める。


 傷を塞ぐ。


 お前から教わった通りに。


 どれほどの時間が経っただろう。


 処置を終えたとき、リオの全身は汗にまみれていた。針を持つ手が、ようやく震えを止めた。


 マリーの呼吸は——確かに、続いていた。


「……間に合った」


 リオの声は震えていた。


「……ばかな女だ、お前は」


 助けに来たはずだった。なのに彼女は、自分を傷つけた少年さえ抱きしめていた。


 そしてその彼女を救うために、自分は彼女から教わった技術で彼女を縫った。


 なんという皮肉だろう。


 リオはそっと、マリーの額にかかる髪を払った。指先でその頬に触れる。


「死ぬなよ、マリー。お前から教わったことが、今お前を生かしてる。だから、頼むから——」


 声が詰まった。


 処置の間は震えなかった手が、今になって震えていた。






 報せを受けて、アルフレードが駆けつけたのは、その夜更けだった。


 意識のないマリーの顔を、アルフレードは長いこと見つめていた。


 その顔は青ざめていた。けれどその口元には——なぜか、穏やかな微笑みが、あった。


 最後の瞬間まで、彼女は誰かを救おうとしていた。自分を刺した子供さえも。


 アルフレードの銀の瞳が揺れた。


 守れなかった。


 あれほど力を持ちながら。王太子という地位にありながら。最も大切な——いや、自分にとって何より価値のあるはずの、この女一人を、自分は守れなかった。


「……すまない」


 アルフレードの声が掠れた。


「すまない、マリー」


 長年凍りついていたその心の核に——初めて、明確な痛みが走った。


 それが何という名の痛みなのか、彼自身まだ認められずにいた。


 ただ確かに、それは一つの種を彼の中に植えていた。


 マリーは、まだ目を覚まさない。

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