第四章 第六話 ―――もう、離さない―――
マリーが横たわる寝室には、奇妙な緊張が漂っていた。
窓の外は、もう昼を過ぎていた。意識のないマリーが横たえられているベッドを囲むようにして、五人の男たちが、それぞれの場所から動こうとせずにいた。
ベッドの脇に立つのは、リオだった。マリーの脈と呼吸を確かめ続けている。彼女を縫った責任が、彼を離さない。
窓辺には、テオがいた。腕を組み、植物のことなど一片も考えていない顔で、ただベッドのマリーを見つめている。守れなかった、という後悔が、その若草色の瞳に滲んでいた。
戸口を背にして立つのは、ガウェインだった。剣の柄に手を添え、誰も入れぬよう、誰も出さぬよう、騎士団長としての務めを全うしようとしている。
その隣、壁に背を預けているのが、シリルだった。腕組みをして、目を伏せている。彼自身、なぜここから動けないのか、説明する気もないようだった。
そしてベッドの傍——マリーの最も近くに座しているのが、アルフレードだった。
誰一人、口を開かなかった。
誰一人、その場を譲ろうとしなかった。
部屋の空気は張りつめていた。それぞれの想いが言葉にならぬまま、ぶつかり合っていた。
どれほどの時間が経っただろう。
ベッドのマリーの瞼が——わずかに、動いた。
五人の視線が、一斉にそこへ集まった。
「……ん……」
マリーの唇が、かすかに開いた。
「マリー」
最初に声を漏らしたのが誰だったのか、後から考えても誰にも分からなかった。
マリーの水色の瞳が、ゆっくりと開いていく。霞んだ視界が少しずつ焦点を結んでいく。
そして——マリーは、自分を取り囲む五人の顔を、順に見た。
驚きの色が、その瞳に走った。
でも、それは一瞬だった。
マリーの口から最初に漏れた言葉は——
「……マルタは……?」
弱々しい、けれど切実な声だった。
「あの子は……無事ですか……? あの子の、お母さんは……?」
寝室に、奇妙な沈黙が落ちた。
「……マルタ?誰だ、マルタって」
ガウェインが戸惑った声を漏らした。
テオも不思議そうにマリーを見つめた。
「マリー、誰のことを言っているんだ?」
マリーは苦しげに息を吐きながら、ゆっくりと説明した。
「私を……刺した、子です」
「!」
五人の空気が、一瞬で硬くなった。
「あの子は……まだ十歳でした。お母さんが重い病に伏せっていて……それを治す薬を、買うお金が、なくて……」
マリーの声は途切れ途切れだった。けれどその言葉には、迷いがなかった。
「……ある貴族の男に、お金を出すと言われて……。私を刺せばお母さんを助けられると、信じて……。あの子は母を救いたい一心だったんです。悪い子じゃ、ない……むしろ、優しい、強い子です」
部屋の空気が変わった。
リオが奥歯を噛みしめた。ドラクロワの所業に対して、新たな怒りが湧き上がった。子供までも駒として使ったのか、と。
テオの目が暗く光った。次にあの男に会ったら、容赦などするものか、と。
シリルは目を伏せた。子供を駒に使う手口を政治の場でどう暴くか、すでに脳内で計算が始まっていた。
ガウェインの大きな手が、剣の柄を強く握った。
そしてアルフレードは——マリーを、じっと見つめていた。
その銀の瞳の奥で、何かが激しく揺れていた。
「マリー」
アルフレードはベッドに身を屈めた。
「お前は、自分を刺した子供の心配をしているのか」
「だって……」
マリーは力なく微笑んだ。
「あの子は……何も、悪くないんです……。悪いのは、医療をお金で買わせる、この国の仕組み……。あの子に母を救う他の道を用意してあげられなかった、私たちの……」
マリーの声が震えた。
「だから、お願いです……。マルタを責めないで……。それと、あの子のお母さんを救う方法を、考えさせて、ください……」
誰も、すぐには答えられなかった。
自分を傷つけた者を案じ、その家族を救えと願う。瀕死の床から目覚めて、最初に口にする言葉が、それだ。
この女は——本物だった。
信念も優しさも強さも。すべて、本物だった。
アルフレードの胸の奥で——堰が、切れた。
長年、凍りついていたものが。
守られていた、最後の核が。
音もなく、崩れ落ちていく。
その感覚を、アルフレード自身、はっきりと知覚した。止めようがなかった。止めるつもりも、なかった。
失うところだった。
この、唯一無二の女を。
もしリオの処置がほんの少しでも遅れていたら。もし刺された場所がわずかでもずれていたら。マリーは今、ここで息をしていない。
その想像がアルフレードを戦慄させた。
二十数年、誰にも心を許さず、誰にも執着せず、王太子として淡々と生きてきた。それで何の不自由もなかった。何の喪失感もなかった。
なのに、この女一人を失いかけただけで——自分はこんなにもおかしくなる。
ようやく分かった。
これは、何という名の感情なのか。
アルフレードはゆっくりと立ち上がった。
部屋の中の四人を見渡す。
「ここは、私が残る」
その声は低く、静かだった。
けれど誰もが反論できぬ、抗えぬ響きを持っていた。
「お前たちは、下がれ」
部屋の温度が変わった。
テオが、若草色の瞳をすっと細めた。
「殿下。それは——」
「命令だ」
アルフレードはテオを遮った。その銀の瞳には、これまでにない、揺るぎない光が宿っていた。
「これは王太子としての命令ではない。アルフレード個人としての、頼みでもある。——下がってくれ」
頼み、と王太子が口にした。
それがどれほど異例のことか、その場の全員が知っていた。
リオがぐっと拳を握った。何か言いたげに唇を開きかけて——閉じた。
シリルは長年の友の顔を、じっと見ていた。そして——静かに目を伏せ、頭を下げた。
「……失礼いたします、殿下」
彼は誰よりもアルフレードを理解していた。今の友がどれほどの覚悟でその言葉を口にしているか。
ガウェインがふっと笑った。
「ったく、しょうがねえな」
テオはしばらく動かなかった。けれど、やがてふいと顔を背けた。
「……マリーを泣かせたら、私は本気で君を許さないからな」
その捨て台詞を残して、テオは部屋を出た。
一人、また一人。男たちが部屋から去っていく。
最後にリオが、ベッドのマリーを長く見つめた。それから、ぽつりと呟いた。
「……俺の教わった通りに縫った傷だ。早く治せよ」
そう言ってリオも出ていった。
寝室には——マリーとアルフレードだけが、残った。
扉が閉まる音が、静かに響いた。
アルフレードは、再びベッドの傍に座した。マリーは戸惑った瞳で、彼を見上げていた。
「殿下……」
「アルフレードだ」
彼は低く言った。
「殿下、ではない。アルフレードと呼べ。今この部屋で、私はそれだけだ」
マリーは息を呑んだ。
「……アル、フレード、様……」
その響きを聞いた瞬間、アルフレードの胸が激しく軋んだ。
ずっと聞きたかった音だ。この女に自分の名を呼ばれることを。それを、今、自覚した。
「マリー」
アルフレードはベッドに身を屈めた。マリーの手を、そっと両手で包んだ。
冷たい手だった。瀕死の床から戻ったばかりの、まだ弱々しい手。それをアルフレードは、壊れ物を扱うように握りしめた。
「失うところだった」
その声には、これまで聞いたことのない震えがあった。
「お前を、失うところだった」
「……」
「分かるか、マリー。私は今、生まれて初めて——『怖い』と思った」
マリーは瞬きもできずに、アルフレードを見つめていた。
「お前のような女に、二度と出会えない。命に貴賤をつけず、自分を傷つけた子供さえ抱きしめる。そんな心の清い女に——二度と、生涯、出会えはしない」
アルフレードの銀の瞳が、深く揺れていた。
「離したくない」
その言葉は、絞り出すように漏れた。
「離れたくない。お前を誰にも渡したくない。お前が私の傍を離れることを考えるだけで——おかしくなる」
マリーの心臓が、激しく打っていた。
夢ではないか、と思った。これは夢に違いない。前世から焦がれた推しが、今、自分の手を握り、こんな言葉を口にしている。そんなことが、あるはずがない。
でも、握られた手の温度は本物だった。
「殿、下……いいえ、アルフレード様……」
マリーは必死に声を絞り出した。
「お言葉は嬉しいです……。でも、私はただの平民です……。殿下には……あなた様には、もっと、ふさわしい、お方が……」
「お前以外、いない」
アルフレードは即座に断ち切った。
「私が選ぶのはお前だ。それ以外を考える気はない」
「で、でも……」
「マリー」
アルフレードはもう一度、その名を呼んだ。
その声にはもう、一切の迷いがなかった。
「私はお前を欲しい。お前のすべてを欲しい。お前の信念も、お前の優しさも、お前の手も、お前の瞳も。——お前という命そのものを、私は欲する」
マリーの目から、涙がこぼれた。
止められなかった。嬉しさと戸惑いと罪悪感と、信じられない気持ちが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って涙になった。
「……ぁ……」
マリーは震える声で必死に言った。
「お願い、ですから……一つだけ、聞いてください……」
「言え」
「マルタの……お母さんを、救わせて、ください……。私を傷つけた、あの子の、お母さんを……。それが終わるまでは、私は……自分のことを、考えられません……」
アルフレードはしばらく、マリーを見つめた。
そして——ゆっくりと頷いた。
「分かった」
彼はマリーの手を、もう一度強く握った。
「お前の願いだ。叶える。マルタの母は私が責任を持って救わせる。最高の医師を、最良の薬を、何でも用意しよう」
「……ありがとう、ございます……」
「だが、マリー」
アルフレードの声が低くなった。
「それが終わったら——その後は、私のものだ。覚えておけ」
マリーは息を呑んだ。
アルフレードの銀の瞳が、これまで見たことのない、深い、暗い光を湛えていた。
ヒロインに心を開いた、孤高の王太子。
その愛が狂おしいほど深く、激しく、決して手放さない——前世のゲームで何度も語られた、彼の本質。
マリーは今、それを自分の身で知ろうとしていた。
「マリー」
アルフレードは屈み込んで、マリーの額にそっと、自分の額を重ねた。
「もう、離さない」
その声は誓いのようだった。
「もう二度と、お前を一人にしない。どこにも行かせない。——覚悟しろ」
マリーの涙が、また、こぼれた。
窓の外では、いつの間にか夕日が沈み始めていた。茜色の光が寝室の二人を、静かに照らしていた。
長く、凍りついていた氷が——今、完全に、解けていた。
そしてそれは、別の何かが始まったことを、意味していた。




