第四章 第七話 ―――遅すぎる、本音―――
マリーが意識を取り戻してから、三日が経っていた。
まだベッドから起き上がることはできなかった。脇腹の傷は深く、リオの縫合のおかげで命は繋がっていたが、無理をすれば傷口が開く。マリーは医者として、自分の身体の状態を正確に把握していた。
その朝、診療所の戸が、勢いよく開いた。
「マリー」
現れたのは、リオだった。
その姿は——以前、ラーテンで毎日見ていたリオとは、別人のようだった。気だるげな飄々さは消え失せ、目の下には濃い隈ができている。髪も整っていない。ろくに眠っていない男の顔だった。
彼はベッドの傍に、足音荒く近づいた。そして、椅子に勢いよく腰を下ろした。
「リオ……?」
「マリー」
リオはマリーをじっと見た。その赤い瞳が、滲んでいた。
「お前」
声が震えていた。
「お前、なんで——なんで、何も言わずに、消えた」
マリーは息を呑んだ。
「四年だ。四年、一緒に研究して、一緒に患者を診て、一緒に飯を食って——なのに、お前は手紙一枚で消えた。『どうかお元気で』。それだけだ」
リオの拳が、ベッドの脇のシーツを強く握りしめた。
「あれ読んで、俺がどんな思いだったか、お前、想像したことあるか」
マリーは、何も言えなかった。
「飯も喉を通らなくて、研究もできなくて、みんなが俺を心配して、誰かが俺の傍についててくれた。それくらい、俺は壊れてた。マリーがいない世界が、こんなにも色を失うなんて、知らなかった」
リオの声が掠れていく。
「探した。地の果てまで探すって決めて、各地を回って、伝手を全部辿って——なのに、見つからなかった。お前、消すのうまいんだな。ほんとに、ほんとに、見つからなかった」
「リオ……」
「やっと見つけたと思ったら、お前、刺されて死にかけてやがる」
リオの瞳から、涙がぽろりと落ちた。
飄々とした皮肉屋の彼が、こんなふうに涙を流すのを、マリーは初めて見た。
「もし間に合わなかったら、どうしてくれるつもりだったんだ。俺がお前を縫う番が来るなんて、思いもしなかった。あの時、震えてたよ、俺の手。お前の血を見ながら、お前から教わった通りに針を運ぶ間、ずっと——」
「ごめんなさい」
マリーは震える声で言った。
「ごめんなさい、リオ。本当に、ごめんなさい」
マリーの目にも、涙が滲んでいた。
「心苦しかった。本当に。あなたを裏切るような真似をして、ずっと心が痛かった。あの研究院で過ごした四年は、私にとっても宝物だった。それは本当」
「じゃあ、なんで」
「……目立ちすぎたから」
マリーは視線を伏せた。
「あの街にいたら、私はもっと巻き込まれてしまう気がして。私みたいな平民が、王太子殿下にまで顔を知られて、それで——私が表に出ることで、誰かの人生を変えてしまうかもしれない、と思ったの」
マリーが消えた本当の理由——前世のゲームの結末を守りたかった——それは、口にできなかった。だから、半分だけ本当のことを言った。
「だから、消えた」
マリーはぽつりと言った。
「リオに何も話せなかったのは、話せば止められると思ったから。それが怖かった。あなたの『ずっと一緒に』を、無下にする勇気がなかった」
リオはしばらく、無言だった。
それから深く息を吐いた。
「……ばかな女だ」
その声にはもう、怒りはなかった。ただ、疲れたような優しさが滲んでいた。
「お前一人で背負うな、っつってんだろ。話せば俺が止めた、だと? 当たり前だ。止めるに決まってる。お前みたいなのを一人で旅させて、結果がこれだ」
リオはマリーの手を握った。
「もう、どこにも、行くな」
その手は震えていた。
「もう二度と、勝手にいなくなるな。お願いだ。——俺は、もう、あれを耐えられない」
マリーの目から、涙がこぼれた。
言葉が出なかった。ただ、こくり、と頷くことしか、できなかった。
しばらく、二人は無言で手を繋いでいた。
やがてリオがふっと顔を上げた。少し、いつもの皮肉っぽさが戻っていた。
「で、だ。マリー」
「うん?」
「俺、ここで働く」
マリーはぽかんとした。
「えっ?」
「お前の診療所、人手要るだろ。俺、毒の研究続けたいし。ちょうどいい」
「え、えっ、リオ、ラーテン——」
「ラーテン医療研究院は、いつでも辞められる。元々、籍を置いてただけだ。俺の研究は、お前の隣の方が捗る」
「で、でも、住む場所が——」
「お前の診療所に住み込む」
マリーは息を呑んだ。
「えっ? えっ?」
「俺の研究所が立ち上がるまで、お前の家に居候する。診療の合間に研究施設を整える。一年もかからない。それまでは——お前の傍にいる」
「ちょ、ちょっと待ってください、リオ、それは——」
「断る権利はない」
リオは当然のように言い切った。
「お前は今、まともに動けない身体だ。療養中の医者なんて、笑い話だ。誰かが診療所を回す必要がある。俺は医療の知識もあるし、毒・解毒の専門家だ。これ以上の適任、いるか?」
「い、いません、けど——」
「決まりだ」
「えっ? えっ、んーっ?!」
マリーの頭が、追いつかなかった。
言われている内容は理解できた。リオが診療所に住み込み、医療助手兼共同研究者になる。それ自体は、ありがたい話だった。実際、自分が動けない今、誰かが診療所を回さねばならない。リオほどの腕があれば、心強い。
でも。
でも、住み込み、というのは。
マリーの脳裏に、アルフレードの顔がよぎった。「もう離さない」と告げた、あの銀の瞳。「お前は私のものだ」と言い切った、あの声。
その人が、リオの住み込みを許すだろうか。
あの独占欲が——。
「……あの、リオ。アルフレード様は」
「あいつには俺が話す」
リオはにやりと笑った。
「医療上の必要だ、文句あるか、と言えば終わりだ。あいつもバカじゃない。お前を回復させることが最優先なのは、分かってる」
「で、でも——」
「マリー」
リオの声が、少し低くなった。
「俺は、ここを離れない。決めた。あの時、二度と離れないと、決めたんだ。お前が刺された時、間に合わなかったら、俺は——」
そこで、リオは言葉を切った。何かを飲み込むように。
「……離れない。もう、お前の傍を離れない」
マリーは、何も言えなかった。
リオの目が、本気だった。これ以上の押し問答は、無駄だった。
「……分かりました」
マリーは小さく頷いた。
「お願いします。リオの腕、頼りにします」
「ようし、決まりだ」
リオの顔に、久しぶりに、いつもの皮肉な笑みが戻った。
その日の午後。
リオは、マリーのベッドの脇に座り、自分の過去を語り始めた。
いつか話そう、と思っていた。でも、四年間、話せなかった。マリーを「相棒」として隣に置いておくには、自分の影が深すぎる気がして。
でも今は、話したいと思った。
マリーには、知っていてほしかった。自分という男が、なぜ毒を研究しているのかを。
「……俺の親父はな、伯爵だった」
リオは淡々と語り始めた。
「十数年前——俺がまだ子供の頃の話だ。親父は、ある『毒の陰謀』を掴みかけてた。国の中枢を毒で蝕んでいる連中がいる、と」
マリーは、静かにリオの話を聞いた。
「親父は、その陰謀を暴こうとした。だが、逆にやられた。毒殺犯の汚名を着せられて、家ごと没落させられた。親父は、罪人として死んだ」
リオの赤い瞳が、暗く沈んだ。
「俺の家は、地に堕ちた。長男の兄貴は、家の再興に必死だ。だが俺は——別の道を選んだ。親父を陥れた連中を暴きたかった。だから、毒を研究した。あいつらの使った毒を、誰よりも知る人間になることが、俺の復讐だった」
「……それで、ラーテンで……」
「ああ。ラーテンに来たのは、研究の自由と伝手を求めて、だ。だが——お前と出会った」
リオはふっと笑った。
「お前と出会って、毎日、患者を救ってるうちにな。気づいたら、復讐より、目の前の命の方が大事になっていた。皮肉な話だ。毒を憎んで研究してた俺が、解毒で人を救うことに、夢中になってた」
マリーの胸が、締めつけられた。
「だが、今回——」
リオの声が低くなった。
「親父を陥れた連中の正体が、見えてきた。ドラクロワ侯爵家。社交界の人気者の、あの陰険な男だ。親父の毒、ヴァローの毒、アルフレード殿下の毒——すべて同じ作り手。背後にはドラクロワがいる」
マリーは息を呑んだ。
「リオ……」
「だから、俺は決着をつける。シリルと組んで、あの家を潰す。親父の無実を晴らす。それが、俺の——もう一つの、生きる理由だ」
「……」
「お前にも関係ない話じゃない。お前を刺した子供——マルタを駒として使ったのは、あの男だ。お前自身が、ドラクロワに狙われた、その当事者だ」
マリーは、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。私にできることがあったら、言ってください」
「お前はまず、治れ」
リオは優しく言った。
「治って、診療所を続けろ。それが、お前にできる、一番大きなことだ」
夕暮れ近く。
リオは立ち上がって、ベッドの脇を離れた。
「じゃあ、俺は診療所を見てくる。患者が待ってるかもしれん」
「お願いします」
リオは戸口に向かった。
扉に手をかけたところで、彼はふと立ち止まった。
振り返らないまま、しばらく、動かなかった。
マリーは不思議そうに、その背中を見ていた。
「……マリー」
リオの声が、戸口でぽつりと響いた。
「俺、お前のこと、愛してるんだ」
マリーの心臓が、止まった。
「気づいたのは、お前が消えた後だ。失って、ようやく分かった。皮肉屋のくせに、自分の気持ちには疎い。いつもそうだ、俺は」
リオは振り返らなかった。
「言うつもり、なかったんだけどな。今、つい、出ちまった」
マリーは、何も言えなかった。
戸惑いが、頭の中でぐるぐる回っていた。
相棒、だと思っていた。四年間、知識を分かち合い、肩を並べて患者を救ってきた、対等な仲間。それ以上の感情をリオから向けられているなんて、考えたこともなかった。
でも、よく考えれば、第二章で「ずっと一緒に研究しよう」と言ってくれた時の、あの不器用な熱。
あれが——そういうことだったのか。
「リ、リオ、私は——」
「いい」
リオが遮った。
まだ、振り返らないまま。
「返事は要らない。俺はただ、お前の傍にいる。それだけだ。お前が誰のものになろうと、関係ない」
その声には、強がりが滲んでいた。
「ただ、知っておいてほしかっただけだ。それだけだ」
リオは扉を開けた。
「じゃあな。傷、開かないように、寝てろよ」
扉が静かに閉まった。
寝室に、マリーが一人、残された。
その手は震えていた。リオの言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
愛してる、と現在形で言ったリオ。
彼はここを離れない、と言った。住み込む、と言った。返事は要らない、お前が誰のものになろうと、関係ない——と。
その意味を、マリーは必死に整理しようとした。
でも、頭が追いつかなかった。
ベッドの天井を見上げながら、マリーはぽつりと呟いた。
「……えっ……?」
夕日が、窓の外で沈んでいく。マリーの一人時間は、これからしばらく、混乱したまま続きそうだった。
その頃、王都では。
シリルが貴族議会で議会工作に奔走していた。テオが密かに次のスパイを潰していた。ガウェインが騎士団を動員し、エルムフィールド周辺の警備を厚くしていた。そしてアルフレードが王太子として、ドラクロワ家の調査を正式に進めていた。
五人それぞれが、マリーを傷つけた一件への怒りを、自分の領分で行動に変えていた。
ドラクロワ侯爵への追及の包囲は、確実に、狭まりつつあった。




