第七章 第四話 ―――勿忘草の、約束―――
養子縁組は滞りなく成立した。
モンフォール侯爵家の妨害が打ち砕かれた今。それを阻むものは、もう何もなかった。
マリーは正式に。ベルナール伯爵家の養女となった。
「これで、あなたは私の娘だ」
ベルナール伯爵は目を細めてマリーを見た。
「マリー・ド・ベルナール。——いい響きだ」
「……はい。ふつつか者ですが、よろしくお願いします。お義父様」
マリーがはにかんでそう言うと。伯爵は相好を崩した。
貴族になった。身分が変わった。
でも、マリーの胸にあったのは——「貴族になれた」という誇らしさではなかった。
恩人を新しい家族として慕えること。その温かさ。そして何より——アルフレードにまた一歩近づけたこと。その喜び。肩書きそのものには、相変わらず何の執着もなかった。
そして、貴族となったことで。一つ、大きな変化があった。
——王都に、行ける。
平民だった頃は、決して立ち入ることのできなかった王都。物語の中心。マリーがずっと避けてきた場所。そこへ、ついに足を踏み入れることになったのだ。
「うわあ……ここが、王都……」
初めて王都の門をくぐったマリーは。ソワソワと落ち着かなかった。
石畳の大通り。立ち並ぶ壮麗な建物。行き交う着飾った人々。何もかもが、初めて見る光景だった。
「お、落ち着かないです……。私、こんな立派なところにいていいんでしょうか」
「何を言っている。お前はもう、伯爵令嬢だ。胸を張れ」
隣を歩くアルフレードが、可笑しそうに笑った。
「それに——今日は、お前が主役だぞ」
その日。
マリーは王城に招かれていた。
国王からじきじきに。医術の功労を称える栄誉を授かるためだった。
ことの発端は。あの議会だった。
マリーを糾弾しようとしたモンフォール侯爵。それに対し、彼女に救われた貴族たちが、次々と立ち上がった。その一部始終は——王の耳にも届いていた。
「平民の身で、これほど多くの国民を救っていたとは」
報告を聞いた王は。深く感じ入ったという。
貴族も平民も分け隔てなく。報酬すら一律で。ただ目の前の命に向き合い続けた、一人の医者。その献身。その功績。それは王の目にも——紛れもなく得難いものと映った。
かつて王は。アルフレードと平民の娘の関係に、難色を示していた。だが——その娘が、いかに立派な人物であるかを知るにつれ。王の心は、少しずつほぐれていった。
そして今。王は彼女に、国としての栄誉を授けようとしていた。
謁見の間。
マリーは緊張でガチガチになりながら。玉座の前に進み出た。
玉座には、初老の、威厳ある男性が座っていた。アルフレードの父。この国の王。
「面を上げよ」
マリーはおそるおそる顔を上げた。
王は——意外にも穏やかな目で、マリーを見ていた。
「そなたが、マリーか。——いや、今は、マリー・ド・ベルナールだな」
「は、はい」
「そなたの噂は、かねがね聞いていた。『水色の瞳の癒し手』。——身分を問わず命を救う、稀有な医者がいる、と」
王はゆっくりと続けた。
「正直に言おう。私は最初、そなたのことを警戒していた。平民の身で王太子に近づく。何か企みでもあるのではないか、と」
マリーの肩が強張った。
「だが——議会での一件を聞いてな」
王の表情が和らいだ。
「そなたに命を救われた者たちが。我先にと立ち上がり、そなたを庇ったという。貴族も平民も関係なく。そなたはただ、目の前の命に向き合ってきた。——その事実を知って。私は己の不明を恥じた」
「陛下……」
「会ってみたかったのだ。そなたに」
王はまっすぐにマリーを見て、そう言った。
飾らない、率直な言葉だった。
「これほど多くの民に慕われ。これほど多くの命を救った娘とは、どのような人物か。——この目で確かめたかった」
マリーは胸がいっぱいになった。
あれほど恐れていた王が。こんなにも温かく、自分を迎えてくれている。
「マリー・ド・ベルナール」
王は厳かに告げた。
「そなたの、長年にわたる医術の功績。身分を問わず、民の命を救い続けた、その献身。——これを国として、正式に称えたい」
王の合図で。
係の者が恭しく、勲章を運んできた。
澄んだ水色の、小さな花をかたどった、美しい勲章だった。勿忘草の花。マリーの瞳と同じ色の。
「これは、『勿忘草勲章』。我が国が、特別な功労者にのみ授ける栄誉である」
王は自ら、その勲章をマリーに手渡した。
「そなたの功績を、国民は決して忘れない。——胸を張るがいい」
「……ありがとうございます」
マリーは勲章を受け取った。
ずっしりと手のひらに伝わる、重み。
不思議な気持ちだった。
称号が欲しかったわけではなかった。勲章が欲しくて医者をやってきたわけでもない。マリーはただ、目の前の苦しむ人を放っておけなかった。それだけだった。
だから、この勲章を鼻にかける気も、偉ぶる気も、まるでなかった。
でも——それでも。
じんわりと胸に込み上げてくるものが、あった。
自分のしてきたことが。誰かに認められた。前世から医者として生きてきた、その積み重ねが。この世界でこうして形になって、報われている。
——ただ、純粋に。
嬉しかった。
「……よかったな、マリー」
謁見の間の隅で。
その様子を見守っていた面々がいた。
アルフレード。そしてリオ、テオ、ガウェイン、シリル。さらには、ベルナール伯爵にソフィアまで。みんなが温かい目で、マリーを見つめていた。
「やったな、マリー! 国一番の、お墨付きだ!」
ガウェインが嬉しそうに声を上げた。
「ふん。当然の評価だ」
シリルも満足げに頷く。
「おめでとう、マリー先生!」
ソフィアが目に涙を浮かべて祝福する。
「まあ、お前は勲章なんざなくても、お前だけどな」
リオがにやりと笑い。
「希少な存在が、正しく評価された。実に喜ばしい」
テオも淡々と、けれど嬉しそうに言った。
みんなが自分の栄誉を。我がことのように喜んでくれている。
その光景に。マリーの目にも、じわりと涙が滲んだ。
謁見の間は——温かな空気に満ちていた。
そして、アルフレードがマリーの隣に進み出た。
王の御前で。彼はマリーの手を、そっと取った。
「父上」
アルフレードはまっすぐに王を見上げた。
「先ほど申し上げた件。——改めてお願い申し上げます」
王はしばし、息子とマリーを交互に見つめ。
それからふっと、口元を緩めた。
「……まったく。お前たちは」
その表情は、もう。二人の仲を阻もうとする、厳格な王のものではなかった。
大きな扉が。今、ゆっくりと開かれようとしていた。




