第七章 第三話 ―――その命を、診た者たち―――
養子縁組の手続きが進む中。
モンフォール侯爵家の反撃が始まった。
それは巧妙だった。
まず、王都の社交界に噂が流れた。「エルムフィールドの平民医師が、身分目当てにベルナール伯爵をたぶらかしている」と。「王太子妃の座を狙う、卑しい悪女だ」と。
根も葉もないでっち上げ。だが噂というものは、真偽に関わらず広まっていく。
モンフォール侯爵は、その噂を巧みに利用した。貴族たちを焚きつけ、養子縁組への反対勢力を作り上げていった。
そしてついに。
貴族議会で、その問題が取り上げられることになった。平民を伯爵家の養女とし、あまつさえ王太子妃にしようとしている。これは由々しき事態である、と。
その議会に——マリーはいなかった。
平民の彼女は、王都の議会になど立ち入れない。自分の運命が決められるその場に、当人は立ち会えなかった。
代わりにその場にいたのは。
アルフレードと、シリルと、ベルナール伯爵。そして——マリーを糾弾しようとするモンフォール侯爵と、彼に与する貴族たちだった。
「——諸君。よく考えていただきたい」
モンフォール侯爵が、議場で声を張り上げた。
「素性も知れぬ平民の女。それをベルナール伯爵が養女にするという。そしてあろうことか、王太子妃にしようとしている。——これが許されるのか」
侯爵は芝居がかった調子で続けた。
「その女は医者を名乗っているそうだが。怪しいものだ。平民の分際で王太子に取り入る。身分をわきまえぬその振る舞い。——王家の品位を汚すものに他ならない」
ざわ、と。議場が揺れた。
侯爵の言葉に頷く貴族も、少なくなかった。でっち上げの噂は、確かに効いていた。
「お待ちを」
立ち上がったのはシリルだった。
「モンフォール侯爵。あなたの主張は、憶測と悪意に満ちている。マリー殿が身分目当てだという証拠が、どこにある。彼女はただ、一人の医者として献身的に人々を救ってきただけだ」
「ふん。参謀殿は、ずいぶんとあの女の肩を持つ」
侯爵はせせら笑った。
「だが、口で何とでも言える。その女の人となりを、ここにいる誰が知っている? 所詮は辺境の、平民の女。我々の与り知らぬ存在だ」
ベルナール伯爵が口を開こうとした。だが——。
「私は、知っている」
その時。
議場の一人の貴族が立ち上がった。
立ち上がったのは、初老の貴族だった。
「ヴァンス子爵……?」
誰かが呟いた。
「私は、マリー殿に命を救われた」
ヴァンス子爵は静かに、けれどはっきりと言った。
「昨年の冬。私は高熱を出し、生死の境を彷徨った。地元の医者は皆、匙を投げた。もう助からぬ、と。——そんな時、たまたま近くを通りかかったマリー殿が、診てくれたのだ」
子爵の声が震えた。
「彼女は私の容態を一目で見抜いた。そして即座に、的確な処置を施した。迷いのない判断だった。——あの迅速な対応がなければ。私は今、ここに立っていない」
議場が静まり返った。
「あの女が、身分目当ての悪女だと? 笑止な」
子爵はモンフォール侯爵を睨んだ。
「彼女は、私が貴族であることなど気にも留めなかった。ただ目の前の命を救うことに必死だった。報酬も一律。特別扱いなど一切なし。——あれが悪女のすることか」
「わ、私も、だ」
別の貴族が立ち上がった。
「私の息子は、馬から落ち、ひどい骨折を負った。重傷だ。普通の医者なら、足を切断するしかなかった。——だが、マリー殿は違った」
その貴族の声にも、熱がこもっていた。
「彼女は即座に処置を判断し。息子の足を救ってくれた。今、息子は自分の足で立って、歩いている。——あの方のおかげだ」
一人、また一人。
議場のあちこちから、貴族たちが立ち上がっていった。
「私の妻も救われた」
「私の母も、だ」
「マリー殿に助けられた者は、ここにいるだけではない」
次々と上がる証言。
それはマリーが、これまで積み重ねてきた診療の軌跡だった。身分を問わず。報酬を問わず。ただ目の前の命に向き合ってきた。その一つひとつが——今、彼女を守る声となって、議場に響いていた。
モンフォール侯爵の顔が、みるみる青ざめていった。
「な……っ、何を馬鹿な。そ、その女がたまたま、お前たちを診ただけだろう。それが何だと——」
「たまたま、ではない」
ヴァンス子爵が遮った。
「彼女は誰であろうと、同じように救う。それが彼女の信念だ。貴族だろうと平民だろうと関係ない。——その分け隔てのなさこそが。彼女が本物の医者である証だ」
「身分目当ての悪女が。どうして見ず知らずの平民まで、無償で救う」
「侯爵。あなたの言う悪女像は。我々の知るマリー殿とは。まるで別人だ」
貴族たちの視線が、一斉にモンフォール侯爵に注がれた。
そこにあるのは、もはや侯爵への賛同ではなかった。冷ややかな軽蔑のまなざしだった。
形勢は、完全に逆転していた。
「マリー殿の人となりは。今、ここにいる皆が証言した通りだ」
シリルが静かに、とどめを刺した。
「彼女が身分目当てだという、あなたの主張には。何一つ根拠がない。むしろ明らかになったのは——彼女がいかに多くの命を、分け隔てなく救ってきたか、という事実だけだ」
そして、アルフレードが立ち上がった。
「モンフォール侯爵」
その声は、王太子の威厳に満ちていた。
「これ以上、私の大切な人を、根も葉もない噂で貶めることは許さん。——彼女の潔白は証明された。異論はあるか」
議場は静まり返ったまま。
もう、誰も侯爵に味方する者はいなかった。
「……っ、ぐ」
モンフォール侯爵は、わなわなと震えた。
完全な敗北だった。マリーを貶めるどころか。彼女の人徳を、満天下に知らしめる結果になってしまった。
「……し、失礼、いたします」
侯爵は屈辱に顔を歪めながら。逃げるように議場を後にした。
二度目の惨敗だった。
その一部始終を。
マリーは後から聞いた。
診療所に戻ってきたアルフレードとシリルから。議会で何があったのかを。
「……みなさんが、私を庇ってくださったんですか」
マリーは信じられない思いで聞いた。
「ああ。お前が診てきた貴族たちが。次々と立ち上がってな」
シリルが珍しく、穏やかに言った。
「お前は知らなかっただろうが。お前が救ってきた命は。貴族の中にも大勢いたのだ。彼らは皆、お前に恩を感じていた。——だから、お前のために声を上げた」
「そんな……」
マリーの目に涙が滲んだ。
自分はただ。目の前の患者を診てきただけだった。相手が貴族か、平民かなど考えもせずに。当たり前のことを当たり前にしてきただけ。
でも——その一つひとつが。
いつの間にか。自分でも知らないところで。こんなにも多くの人の心に届いていた。そして今、その人たちが自分を守ってくれた。
「お前の信念が。お前を救ったんだ」
アルフレードが優しく言った。
「命に貴賤はない。お前のその生き方が。巡り巡ってお前自身を守る盾になった。——誇るべきことだ、マリー」
マリーは涙をこらえながら頷いた。
胸がいっぱいだった。
自分の歩んできた道は。間違っていなかった。そう思えた。
モンフォール侯爵家の妨害は。打ち砕かれた。マリーの人徳によって。彼女が救ってきた命によって。
養子縁組への道は——再び開かれた。
そして、その先に。
ようやく。二人の未来が見え始めていた。




