第七章 第二話 ―――背中を、押す手―――
ベルナール伯爵の申し出から数日。
マリーはまだ迷っていた。
養女になる。貴族になる。それ自体に抵抗はなかった。身分など、マリーにとってはただの肩書きだ。貴族になろうと平民だろうと、自分のすることは変わらない。一律料金で分け隔てなく、目の前の命を救う。それだけだ。
でも——気がかりなのは、伯爵家のことだった。
平民あがりの娘を養女にした。そう言われて、ベルナール伯爵が貴族社会で肩身の狭い思いをしないか。自分の存在が恩人に迷惑をかけないか。それがどうしても引っかかっていた。
そんなマリーの様子を目ざとく見抜いたのは——いつもの面々だった。
「おい、マリー。なんか、辛気くさい顔してるぞ」
居候のリオが、調剤室から顔を出した。
その日はたまたま、四人が——リオ、テオ、ガウェイン、シリルが診療所に揃っていた。そしてソフィアも遊びに来ていた。
「何か悩んでいるのですか、マリー先生」
ソフィアが心配そうに覗き込む。
「いえ、その……」
マリーは言い淀んだ。
でも結局——みんなの優しい視線に押されて。ぽつぽつと打ち明けた。ベルナール伯爵から養女の話をもらったこと。それを受ければ、アルフレードとの道が開けること。でも、伯爵家に迷惑をかけないか不安なこと。
話を聞いた五人は。
顔を見合わせた。
「——なんだ、そんなことか」
最初に口を開いたのはシリルだった。
「マリー。お前の懸念は、論理的に破綻している」
「えっ」
「考えてもみろ。ベルナール伯爵は、国内でも有数の名門だ。その地位は揺るぎない。今さら養女を一人迎えたところで、家格に傷がつくことなどあり得ん」
シリルはいつもの調子で、理詰めに続けた。
「むしろ、だ。お前は王太子が見初めた女。国に医術を広めた功労者。そんな人物を養女にできるなら——他の貴族は羨むことはあっても、見下すことなどできん。損得で考えても、伯爵に不利益は皆無だ」
「そうなんでしょうか……」
「断言する。お前が気に病む要素は、何一つない」
シリルの明快な論理に。マリーの肩の力が、少し抜けた。
「そうだぜ、マリー!」
次にガウェインが、豪快に肩を叩いた。
「難しいことは分からん! でもな、お前なら大丈夫だ! お前は立派な医者で、誰よりも優しい。そんなお前を迷惑がる奴なんて、いるもんか! 胸を張れ!」
単純でまっすぐな励まし。でもその力強さが、マリーの心にじんと染みた。
「俺は、別の心配をしてたけどな」
リオがにやりと笑った。
「お前が貴族になって、お高くとまるんじゃないかってな。——でも、杞憂だった。お前は貴族になろうが平民だろうが、どうせお前のままだ。一律料金で患者を診て、無茶して、俺たちに心配かけて。何も変わらねえよ」
「リオ……それ、褒めてます?」
「最高の褒め言葉だ」
リオの飄々とした言葉に。マリーは思わず笑ってしまった。
「私も、一つ言っていいか」
テオが淡々と口を開いた。
「君は世界で一番、希少な存在だ。それは前にも言った。——希少な品種に、貴族も平民も関係ない。君の価値は、身分などという後付けの肩書きで変わるものではない。君はただ、君としてそこに在るだけで、十分に得難い」
「テオ……」
相変わらず植物に例えた、ずれた物言い。でもその本質は——誰よりもまっすぐに、マリーの本質を見ていた。
そして、最後に。
「マリー先生」
ソフィアが両手をぎゅっと握って。
「わたし、マリー先生なら、きっと素敵な貴族になれると思います! だって先生は、誰よりも心が綺麗ですもの。身分なんて関係ありません。先生が幸せになるなら——わたし、心から応援します!」
純粋な友情。曇りのない応援。
マリーの目頭が熱くなった。
五人のそれぞれの言葉が。
マリーの心に降り積もっていった。
シリルの論理。ガウェインの力強さ。リオの本質。テオのまなざし。ソフィアの友情。
みんな、自分を後押ししてくれている。「大丈夫だ」と。「お前はお前のままでいい」と。
マリーの胸のわだかまりが——ゆっくりと溶けていった。
——そうだ。
マリーは思った。
怖がってばかりいたら。何も始まらない。伯爵は、あんなにも誠実に申し出てくれた。「自分自身の願いだ」と。みんなも、こうして背中を押してくれている。
そして——何より。
アルフレードと一緒にいたい。
あの人の隣に立ちたい。あの凍った心を溶かした男の傍に。これからも、ずっと。そのためにできることがあるのなら。——迷っている場合ではない。
「……決めました」
マリーは顔を上げた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「私、ベルナール伯爵の養女のお話。お受けします」
その言葉に、五人の顔がぱっと輝いた。
「おお!」
「よく言った、マリー!」
「これで決まりだな」
「応援します、マリー先生!」
みんなが口々に祝福した。
マリーは笑った。こんなにも心強い味方たちがいる。それだけで、どんな壁でも越えていける気がした。
その日のうちに、マリーはベルナール伯爵に返事を送った。「謹んでお受けいたします」と。
伯爵はたいそう喜び。さっそく養子縁組の手続きが動き始めた。
閉ざされていた道が、確かに開かれていく。
マリーが貴族の身分を得れば。アルフレードとの婚姻の道も見えてくる。長いトンネルの先に、ようやく光が差し込んでいた。
だが——その頃。
モンフォール侯爵家では。
不穏な影が蠢いていた。
「……平民の女が、ベルナール伯爵の養女に、だと?」
モンフォール侯爵は報告を受けて、眉を吊り上げた。
その手には、握り潰された報告書。
「あの女、まさかそんな手で、身分を得ようというのか。——ふん。そうはさせぬ」
侯爵の目に、昏い光が宿った。
「養子縁組が成立する前に。手を打たねばなるまい」
娘アデラインの屈辱。直訴の失敗。それでも諦めない執念。
モンフォール侯爵家の妨害の影が。再び二人の前に忍び寄ろうとしていた。
マリーたちが希望に沸く、その裏で。
新たな嵐の予兆が——静かに動き始めていた。




