第七章 第一話 ―――恩返しの、申し出―――
あの夜から数日が経っても。
二人の前に立ちはだかる壁は、何一つ変わっていなかった。
マリーは診療所でいつものように患者を診ながらも。ふとした瞬間に考え込んでしまう。アルフレードのことを。二人の行き先のことを。
答えは相変わらず出なかった。
離れたくない。でも一緒にいれば彼を苦しめる。その堂々巡りから抜け出せずにいた。
そんなある日の午後。
診療所に立派な馬車が停まった。
降りてきたのは——ベルナール伯爵だった。
「マリー殿。突然、申し訳ない」
穏やかな笑みを浮かべた初老の紳士。かつて馬車で倒れたところを、マリーたち三人が救った、あの伯爵だった。
「ベルナール伯爵! お久しぶりです。お体はもう、よろしいんですか」
「おかげさまで、すっかり。あなたがたに救っていただいた命だ。大切に使わせてもらっているよ」
伯爵はにこやかに応えた。
ちょうど診療所には、アルフレードも来ていた。伯爵は王太子の姿を認めると、丁重に礼をした。
「これは、殿下も。——ちょうどよかった。今日はお二人にお話があって、参ったのです」
伯爵はマリーとアルフレードを前に、静かに切り出した。
「実は——お二人のことが耳に入りましてな」
マリーの肩が、わずかに強張った。
「以前から、わたくしはお二人のことを気にかけておりました。王太子殿下が、エルムフィールドの平民医師と想い合っている。その噂はかねてより聞いておりました」
伯爵は穏やかに続けた。
「そして先日。社交界で、モンフォール侯爵が陛下に直訴したという話が広まりました。平民の娘を王太子妃になど、できぬ、と。——お二人が苦境に立たされていることを知りました」
マリーは俯いた。
やはり噂は広まっている。アルフレードを苦しめている、その現実が、改めて突きつけられた。
「さらに——」
伯爵は少し笑った。
「先日、シリル殿がわたくしのところへ相談に来られました。マリー殿の身分を、何とかできないか、と。あの合理主義者の彼が。柄にもなく頭を下げてね」
「シリル様が……」
マリーは驚いた。あの皮肉屋のシリルが。自分のために、伯爵に頭を下げて。
「ですが」
伯爵はここで、いたずらっぽく目を細めた。
「白状すると——シリル殿の相談を受ける前から。わたくしはもう、決めていたのですよ」
「え……?」
「マリー殿。わたくしはずっと、あなたに恩を返したいと思っておりました」
伯爵の声が、温かく響いた。
「あなたはわたくしの命を救ってくれた。身分も報酬も問わずに。ただ一人の医者として、目の前の命に向き合ってくれた。——その恩をいつか必ず返したいと。ずっと機会を伺っておったのです」
伯爵はまっすぐにマリーを見た。
「二人には申し訳ない言い方かもしれぬが——ようやくその時が来た。あなたに恩を返せる、絶好の機会が」
そして伯爵は告げた。
「マリー殿。あなたを——わたくしの養女に迎えたい」
マリーの目が見開かれた。
「養女、ですか……!?」
「そうです。あなたがベルナール伯爵家の養女となれば。あなたは貴族の身分を得ることになる。——平民ではなくなる。そうなれば、王太子殿下との婚姻の道も開けるはずだ」
マリーは言葉を失った。
それは思いもよらない申し出だった。閉ざされていた道に、突然光が差し込んだような。
でも——すぐに、マリーの胸に別の思いが湧き上がった。
「……あの、伯爵。本当にありがたいお話です。でも」
マリーは躊躇いがちに口を開いた。
「私が養女になることで……伯爵家にご迷惑がかかるのではないでしょうか。平民あがりの娘を養女にしたと、他の貴族の方々から良く思われないかもしれません。伯爵のお家の名に、傷がついては……」
マリーは自分のことより、伯爵の家のことを案じた。
恩人に迷惑をかけたくない。自分のために伯爵が貴族社会で肩身の狭い思いをするのは、忍びなかった。
でも。
伯爵は——豪快に笑った。
「はっはっは! 迷惑など、気にされるな!」
伯爵は朗らかに首を振った。
「いいですか、マリー殿。あなたを養女に迎えられることは——むしろ我がベルナール家の誇りなのですよ」
「誇り、ですか……?」
「そうです。あなたほど立派な志を持った人物を、家族に迎えられる。これ以上の名誉がありますか。他の貴族が何と言おうと、知ったことではない」
伯爵の言葉には、揺るぎない信念がこもっていた。
「それに——これは恩返しであると同時に。わたくし自身の願いでもあるのです」
伯爵は優しく続けた。
「わたくしには子がおりません。長年、跡継ぎのことで頭を悩ませてきた。——そんな折に、あなたのような素晴らしい人物と巡り合えた。あなたを娘として迎えられるなら。それはわたくしにとって、この上ない喜びなのです」
「伯爵……」
「だから遠慮は無用。これは施しではない。わたくしが心から望んでいることなのです。——どうか、受けてはいただけまいか」
マリーの胸が熱くなった。
恩返しという言葉で。マリーに遠慮させないように。伯爵は「自分自身の願い」として申し出てくれている。その心遣いが。何よりありがたかった。
マリーは隣のアルフレードを見た。
アルフレードは——きらきらと目を輝かせて、伯爵の話を聞いていた。
まるで暗闇に光を見出した子供のように。希望に満ちた表情で。
でも、彼は何も言わなかった。口を挟まなかった。
これはマリーが決めること。マリーの人生のこと。だからアルフレードはただ、彼女の決断を待っていた。その意思を尊重して。
そのまなざしだけで、マリーには伝わった。
——彼も望んでいる。この道を。
「……伯爵」
マリーはゆっくりと口を開いた。胸がいっぱいで、声が震えた。
「本当に、よろしいのですか。こんな私で」
「こんな、ではありません。あなただから、なのです」
伯爵は力強く頷いた。
マリーの目に涙が滲んだ。
閉ざされていたと思った道。諦めかけていた未来。それが今、思わぬところから——恩人の温かな手によって、開かれようとしている。
「……ありがとうございます」
マリーは深く頭を下げた。
「前向きに考えさせてください。こんなにありがたいお話、私にはもったいないくらいです」
「おお……! では」
「ただ、その前に。きちんと考えたいんです。伯爵家のことも、これからのことも。——でも、本当に、本当に嬉しいです」
伯爵は満足そうに頷いた。
「もちろん。じっくり考えてくだされ。わたくしはいつでも、お待ちしておりますよ」
アルフレードは——その様子を見守りながら。
ほっと息を吐いた。そしてマリーにだけ分かるように。そっとその手を握った。
言葉はなかった。
でも、その手の温もりが、すべてを語っていた。
——道は、開ける。
二人の前に、確かな希望の光が差し込んだ瞬間だった。
あの、答えの出なかった問いに。初めて糸口が見えた。
まだ、すべてが解決したわけではない。養子縁組には手続きもいるだろう。貴族たちの反発もあるかもしれない。モンフォール侯爵家が黙っているとも思えない。
それでも。
立ち止まっていた二人の物語が。今、再び動き出した。




