第六章 第六話 ―――答えの、出ない問い―――
王城の謁見の間に、モンフォール侯爵の声が、低く響いていた。
「陛下。畏れながら、申し上げます」
モンフォール侯爵——アデラインの父は、慇懃に頭を垂れていた。その物腰は洗練され、言葉は丁寧だった。だが、その目の奥には、隠しきれない悪意が滲んでいた。
「近頃、王太子殿下が、とある平民の女に入れ込んでおられるとか。エルムフィールドの、医者の女だと聞きます」
王は玉座から、静かに侯爵を見下ろしていた。
「その女が、殿下をたぶらかしているのではないか、と。城下では、もっぱらの噂でございます。平民の分際で、王太子殿下に取り入り、あわよくば妃の座を狙う。——実に、嘆かわしいことです」
侯爵は芝居がかった仕草で、首を振った。
「もちろん、わたくしは殿下を信じております。しかし——民や、貴族たちは、どう思いましょう。平民の女を、王太子妃に迎えるなど。前例の、ないことです」
侯爵の声が、徐々に熱を帯びていく。
「貴族たちは、必ずや反発いたします。王家の権威は揺らぎ、求心力は失われましょう。平民を妃にするということは、この国の秩序そのものを揺るがす、一大事なのです」
もっともらしい正論だった。
国を憂える忠臣の顔をして。けれど、その実、彼の胸にあるのは——夜会で娘が恥をかかされた、その逆恨みだった。
「それに——」
侯爵は、ここぞとばかりに畳みかけた。
「我がモンフォール家は、かねてより、娘アデラインと殿下の縁談を望んでおりました。それを反故にされるとあっては。我が家の名誉に関わります。——どうか、ご再考を賜りたく」
すべてを言い終えると。
侯爵は深々と頭を下げた。
その口上は見事だった。マリーを貶め、国の大義を説き、自家の名誉を盾にする。三段構えの、巧妙な直訴だった。
その日の夜。
アルフレードは、王に呼び出された。
「アルフレード。座れ」
王の私室。玉座ではなく、一人の父として、王は息子と向き合っていた。
「モンフォール侯爵から、訴えがあった。お前が、平民の女に入れ込んでいる、と」
「……マリーのことですね」
アルフレードは静かに答えた。
「彼女は、私をたぶらかしてなど、いません。あれは侯爵の、言いがかりです」
「分かっている」
王は頷いた。
「お前が、女にたぶらかされるような軟弱な男でないことは、私が一番よく知っている。——そして、お前がその娘を、本気で想っていることも」
王の声は、意外にも穏やかだった。
「お前が誰かに心を開くなど。長年、なかったことだ。お前は幼い頃から、誰も信じず、心を閉ざしてきた。——その、お前が。これほど一人の女に執着している。よほどの相手なのだろう」
アルフレードは目を伏せた。
父は分かってくれている。それは嬉しかった。でも——。
「だが、アルフレード」
王の声が低くなった。
「私は王だ。そして、お前は次代の王だ。——私たちの立場は、私たち個人の想いだけで動かせるものではない」
「……」
「平民の娘を妃に迎える。それがどれほどの波紋を呼ぶか。お前にも分かるだろう。貴族たちは反発する。国は乱れる。お前の王太子としての立場すら、危うくなりかねない」
王は静かに、現実を突きつけた。
「想いだけでは、どうにもならんことがある。それが——王家に生まれた者の、宿命だ」
アルフレードは拳を握りしめた。
分かっていた。痛いほど分かっていた。だからこそ、苦しかった。
「……なぜ」
絞り出すような声だった。
「なぜ、私は、王家になど生まれたのでしょうか」
アルフレードの銀の瞳が揺れた。
「生まれ落ちた、それだけのことで。私はいつも、家のために生きることを強いられる。心を殺すことを当然とされる。——たった一人、愛する人すら。自由に選べない」
その言葉には、長年抑え込んできた鬱屈が滲んでいた。
「マリーは、私をただの『アルフレード』として見てくれた、初めての人です。地位でも権力でもなく。ただの一人の人間として。——その人と一緒になることすら、許されないのですか」
王は、何も答えなかった。
ただ、痛ましげに息子を見つめるばかりだった。
答えなど、王にもなかった。王とて、一人の父として、息子の幸せを願っている。けれど、王という立場が。それを許さなかった。
沈黙だけが、私室に重く横たわっていた。
その話は、ほどなくしてマリーの耳にも届いた。
アルフレードが、彼女との関係ゆえに、王から苦言を呈された。貴族たちが反発している。王家の威信が、どうの。——断片的に伝わってきた、その話に。
マリーの胸は、潰れそうになった。
「……私の、せいだ」
診療所で一人。マリーは呟いた。
自分がアルフレードに関わってしまったから。彼を、こんなにも苦しい立場に追い込んでしまった。
もし、自分が彼と出会わなければ。あの時、想いを受け入れなければ。アルフレードは、こんな苦しみを味わわずに済んだのに。
彼の、あの鬱屈した表情を思うと。胸が張り裂けそうだった。
愛する人を、苦しめている。その事実が、何よりもつらかった。
——でも。
マリーは首を横に振った。
それでも——身を引こうとは、思わなかった。
離れれば、すべてが丸く収まるのかもしれない。アルフレードは、苦しまずに済むのかもしれない。
でも、それでも。
離れたくなかった。
彼の傍にいたかった。こんなにも人を好きになったのは、初めてだった。前世から焦がれて。この世界で、ようやく結ばれた、その想いを。簡単に手放すことなど、できなかった。
「……どうしよう」
マリーは頭を抱えた。
離れたくない。でも、一緒にいれば、アルフレードを苦しめる。
駆け落ち——という言葉が、ふと頭をよぎった。二人で、どこか遠くへ逃げてしまえば。
でも、すぐに打ち消した。無理だ。自分は医者として、名が知られすぎている。亜麻色の髪に、水色の瞳。どこへ逃げても目立つ。すぐに見つかってしまう。それに、逃げれば、アルフレードは王太子の座を捨てることになる。そんなこと、させられない。
考えても、考えても。
答えは、出なかった。
その夜。アルフレードが、診療所を訪れた。
二人は向かい合って座った。けれど、いつもの甘い空気はなかった。重い沈黙が、二人の間に横たわっていた。
「……マリー」
「アルフレード様」
二人は同時に口を開いて。そして、同時に言葉を失った。
言いたいことは、山ほどあった。でも、どれも答えにはならなかった。
「すまない」
先に口を開いたのは、アルフレードだった。
「私の立場が。お前を苦しめている」
「そんな……! 謝らないでください。悪いのは、私の方です。私が関わったから……」
「違う。お前は、何も悪くない」
アルフレードはマリーの手を握った。
「悪いのは、この理不尽な身分の仕組みだ。——お前を好きになったことは、間違いではない。それだけは確かだ」
「アルフレード様……」
二人は手を握り合った。
離れたくない。その想いだけは、痛いほど共有していた。
でも——どうすればいいのか。
その答えだけが、どうしても見つからなかった。
二人はただ、手を握り合ったまま。窓の外の闇を見つめていた。
答えは、出なかった。
その夜、二人は何の解決も見出せないまま、別れた。
重い課題だけが。二人の前に立ちはだかっていた。平民と、王太子。その間に横たわる、あまりにも深い身分の溝。それは想いの強さだけでは、どうにも埋められない現実だった。
——けれど。
二人の想いは、消えなかった。
どれほど苦しくても。どれほど答えが見つからなくても。互いを想う、その気持ちだけは。少しも揺らがなかった。
そして——想いがある限り。
道は、まだ閉ざされてはいなかった。
今は見えないだけ。今は分からないだけ。
諦めない限り。きっと、どこかに。二人で進める道が、あるはずだった。
その、かすかな光を。二人は、まだ知らない。
けれど、確かに。物語は——次の扉へと、向かい始めていた。




