第六章 第五話 ―――お忍びの、一日―――
「では、行くか」
その日、アルフレードはいつもの王太子の装いではなかった。
地味な外套に、目立たない帽子。どこからどう見ても、お忍びの変装だった。とはいえ、隠しきれない品の良さと、整いすぎた顔立ちは、そう簡単にはごまかせなかったが。
「アルフレード様、本当にその格好で大丈夫ですか。なんというか……隠しきれてない気が」
「問題ない。これでも、目立たぬよう気を遣っている」
マリーは苦笑した。
今日は二人で、お忍びデートの日だった。診療所を飛び出して、近くの町で開かれている祭りに行く約束をしていた。アルフレードが珍しく、自分から「二人で出かけたい」と言い出したのだ。
町は祭りで賑わっていた。
露店が立ち並び、人々が笑い、買い食いをし、どこからか楽士の奏でる陽気な調べが響いている。庶民的で活気に満ちた、賑やかな空間。
アルフレードは——その光景を、物珍しそうに眺めていた。
「これが祭りか。……ほう。あれは何だ」
「あれは、ソーセージの串焼きですよ。食べたこと、ないんですか?」
「ない。私の口に入るものは、すべて毒見を経たものだけだ。露店の食べ物など、初めて見る」
マリーは思わず笑ってしまった。
王太子様は、露店の串焼きすら食べたことがないらしい。なんだか可愛い。
「じゃあ、食べてみましょう! はい、これ」
マリーがソーセージの串焼きを買って手渡すと。アルフレードはおそるおそる、一口かじった。
その瞬間、彼の目が見開かれた。
「……うまい」
「でしょう?」
「なんだ、これは。こんなにうまいものが、世の中にあったのか。毒見も、作法も、皿も、何もないのに……ただ、うまい」
アルフレードは感動していた。
串焼き一本に本気で感動している王太子。その姿がおかしくて、愛おしくて。マリーはくすくすと笑った。
二人は祭りを楽しんだ。
露店を見て回り、いろいろなものを食べ歩いた。アルフレードは一つひとつに、新鮮な驚きを見せた。普段、冷厳な王太子が、子供のように目を輝かせている。その姿を見られるのは、世界でマリーだけの特権だった。
でも——その時。
マリーは妙な視線を感じた。
「……あれ? なんだか、見られているような」
ふと、近くの露店の陰を見ると。
リオとテオがいた。
二人とも、これ見よがしに果物を選ぶふりをしている。あまりにもわざとらしく。
「……リオ? テオ?」
「お。マリーじゃないか。奇遇だな」
リオが白々しく片手を上げた。
「ああ、本当に奇遇だ。私はたまたま、この祭りで売られている珍しい南方の果実を、研究のために購入しに来ただけだ。他意はない」
テオが棒読みで言った。
……どう見ても、尾行である。
しかも、よく見ると、別の露店の陰には。
「うおっ」
ガウェインとシリルまでいた。
ガウェインは巨体を無理やり、小さな露店の陰に隠そうとして失敗している。シリルは素知らぬ顔で本を読むふりをしているが、ページがさっきから一枚もめくられていない。
「……みなさん。何をしてるんですか」
マリーが半眼で問うと。
四人は一斉に目を逸らした。
「たまたまだ」
「私もたまたまだ」
「お、俺も、たまたま通りかかっただけだ!」
「偶然だ。深い意味はない」
四人の、見事に口を揃えた言い訳。
マリーは頭を抱えた。明らかに心配してついてきたのだ。アルフレードと二人きりにして大丈夫かと。過保護にもほどがある。
「……はぁ。もう、バレバレですよ」
一方、アルフレードは。
じろりと四人を睨んだ。
「お前たち。ついてくるなと言ったはずだが」
「やだなあ殿下、偶然ですよ、偶然」
リオがにやにやと笑う。
「ふん。野暮な連中だ」
アルフレードは舌打ちしつつも。マリーの手をぐいと引いた。
「行くぞ、マリー。あんな奴らは放っておけ」
「あ、ちょっと、アルフレード様!」
アルフレードは四人を振り切るように、マリーを連れて人混みの中へ歩いていった。
その背を見送りながら。
「……まあ、大丈夫そうだな」
「ああ。殿下も、いい顔をしている」
「へへ。マリーが幸せそうで、何よりだ」
「……行くぞ。これ以上は無粋だ」
四人は顔を見合わせて笑うと。そっとその場を後にした。
ちゃんと見守りつつ。二人の時間を邪魔しない。それが彼らなりの優しさだった。
四人を振り切った二人は、祭りの喧騒を抜けて、小高い丘へと足を運んだ。
そこからは、祭りの灯りが一望できた。
夕暮れの空に、篝火やランタンの明かりが、ぽつぽつと灯り始めている。遠くから、祭りの賑わいが風に乗って聞こえてくる。穏やかで美しい夕暮れだった。
「綺麗ですね」
マリーが呟くと。
「ああ」
アルフレードは、けれど景色ではなく、マリーを見ていた。
「アルフレード様?」
「……マリー」
アルフレードはマリーの方へ体を向けた。その銀の瞳が、夕日を受けて揺れていた。
「今日は、楽しかった」
「私もです。アルフレード様が串焼きに感動してるの、すごく可愛くて」
「可愛い、は余計だ」
アルフレードは少しむっとした。けれどすぐに、その表情を和らげた。
「……こういう時間が、ずっと続けばいいと思う」
その声は静かだった。
「私はお前といると、初めてただの『アルフレード』でいられる。王太子でも、王家の長子でもなく。ただ、お前の隣にいる一人の男でいられる。——それが、どれほど得難いことか」
「アルフレード様……」
「ずっと、一緒にいたい」
アルフレードはまっすぐにマリーを見つめた。
「お前と、ずっと。これから先も、何があっても。——離れたくない」
マリーの胸が熱くなった。
その言葉に嘘はなかった。飾りもなかった。ただまっすぐな、彼の願いだった。
「……私も、です」
マリーは頷いた。
「私も、アルフレード様とずっと一緒にいたいです」
アルフレードの手が、そっとマリーの頬に触れた。
ゆっくりと顔が近づいて。
二人の唇が重なった。
夕日の中の、優しいキスだった。短くて、けれど二人の想いのすべてが込められた口づけ。
離れたあと。二人は照れたように見つめ合って、笑った。
幸せだった。
この上なく幸せな、一日だった。
日が暮れて。
二人は手を繋いで、診療所への道を歩いた。
言葉は少なかった。でも、繋いだ手の温もりだけで十分だった。
「また来よう。次は、別の町の祭りにも」
「はい。ぜひ」
「お前と見る景色は、何もかも新しい。——お前といると、世界がこんなにも鮮やかなのだと知る」
アルフレードの穏やかな横顔。
マリーはその手を、ぎゅっと握り返した。
こんな幸せが続けばいい。心からそう思った。ずっと、ずっと、この人と。
二人はそう信じて疑わなかった。
——けれど。
この、ささやかでかけがえのない幸せが。すぐそこまで迫った大きな嵐によって、脅かされようとしていることを。
二人はまだ、知らなかった。
モンフォール侯爵家が。夜会での屈辱を根に持ち。すでに静かに、牙を研ぎ始めていたことを。
その嵐が、二人の「ずっと一緒に」という願いを、根こそぎ揺るがそうとしていることを——。
幸せな二人は、まだ知る由もなかった。




