第六章 第四話 ―――付け焼き刃では、ない―――
アデラインからの招待状が届いたのは、宣戦布告の数日後だった。
仰々しい封蝋。豪華な装飾。そこにはこう記されていた。
『モンフォール侯爵家主催の夜会に、特別にあなたをご招待いたします』
「……これ、罠ですよね」
マリーは招待状をまじまじと見た。
「間違いなく罠だな」
居候のリオが横から覗き込んで、にやりと笑った。
「貴族の夜会に平民を招く。マナーも知らない田舎者を、衆人環視の中で晒し者にする気だ。古典的な嫌がらせだな」
「やっぱり、そうですよね」
マリーはふうと息をついた。
普通なら、こんな招待は断ればいい。でも断れば「平民は逃げた」とまた何を言われるか分からない。それに——アルフレードの恋人として、彼に恥はかかせたくなかった。
「……よし。受けて立ちます」
マリーは招待状をぎゅっと握った。
「行くのか? 貴族の夜会だぞ。作法を一つ間違えれば、それこそ笑い物だ」
「だったら、間違えなければいいんです」
マリーはにっこり笑った。
「教えてください、リオ。あなた、元伯爵家のご子息でしょう。貴族のマナー、ご存知ですよね」
「……は?」
「特訓です! 夜会まで時間はあります。完璧に覚えます。私、勉強は得意なんです」
リオは呆気にとられた。
晒し者にされると分かっていて逃げない。それどころか正面からねじ伏せる気だ。この女は本当に。
「……はは。お前、本当に面白い女だな」
リオは楽しそうに笑った。
「いいだろう。仕込んでやる。——ただし、俺一人じゃ足りん。あいつも呼ぶぞ」
こうして、マリーの特訓が始まった。
教官は二人。リオと——シリルだった。
「なぜ私が、こんなことを」
呼び出されたシリルは不機嫌そうだった。
「お前は宰相の息子だろう。宮廷作法なら、お前が一番詳しい。マリーのためだ。手伝え」
「……ふん。仕方がない」
文句を言いつつ、シリルは結局引き受けた。なんだかんだで面倒見がいいのだ。
そして——二人の教え方は、見事に対照的だった。
「いいか、マリー。挨拶はな、こう、さらっと流すようにやればいい。堅苦しく考えるな。相手の目を見て、にこっと笑えば、大体なんとかなる」
リオは飄々と、実践的に教えた。
「待て。今のは間違いだ」
すかさずシリルが口を挟む。
「いいか、マリー。淑女の礼には正確な角度がある。腰を落とす深さは、相手の爵位によって変わる。侯爵にはこれくらい。伯爵にはこれくらい。一度しか言わんぞ。覚えろ」
「ちょ、シリル、細けえな。そんなの雰囲気で——」
「雰囲気でごまかせるのは、お前のようないい加減な人間だけだ。正確さこそが品位を生む」
「あぁ? 実戦で使えなきゃ意味ねえだろ」
「基礎ができていない者の実戦など、ただの付け焼き刃だ」
リオとシリルが火花を散らす。
マリーはその間で苦笑した。
「あの、お二人とも。喧嘩しないで……」
でも。
マリーは優秀な生徒だった。
リオの「実践的な勘どころ」と、シリルの「正確な基礎」。その両方をぐんぐん吸収していった。前世で医学を修めた、その学習能力。学ぶことはマリーにとって苦ではなかった。むしろ得意分野だった。
「……驚いたな」
数日後。シリルが感嘆の声を漏らした。
「もう一通り完璧だ。下手な貴族令嬢より、よほど洗練されている」
「ほんとか? ……マジだ。こいつ、とんでもねえな」
リオも舌を巻いた。
マリーの所作は、もはや付け焼き刃には見えなかった。優雅で品があり、それでいて自然。長年培ってきた本物の淑女のようだった。
「ありがとうございます、お二人とも! これなら、いけそうです!」
マリーは晴れやかに笑った。
そして、夜会当日。
会場に現れたマリーを見て、アデラインは勝ち誇った笑みを浮かべた。
「あら、よく来たわね、平民さん。せいぜい恥をかいていきなさいな」
だが——その笑みはすぐに凍りついた。
マリーの所作は完璧だった。優雅な礼。洗練された立ち居振る舞い。受け答えの一つひとつが品位に満ちていた。どこからどう見ても、田舎者の平民には見えなかった。
「な……っ、なぜ平民が、こんな作法を……!」
アデラインは焦った。これでは晒し者にできない。
彼女は必死にマリーの粗を探した。そして——見つけた、と思った。
「そ、そこ! あなた、今、グラスの持ち方がおかしいわ! 淑女たる者、グラスはこう持つものよ! 無知な平民には分からないでしょうけど!」
アデラインが勝ち誇って指を差した。
でも。
「……いえ、アデライン様」
マリーは落ち着いて答えた。
「正式な晩餐の作法では、グラスはこのように持つのが正しいかと。あなたの持ち方は、略式のお茶会のものです」
「なっ……!」
「そうだ」
そこへ、すっとシリルが進み出た。
「モンフォール侯爵令嬢。あなたこそ基礎がなっていませんね。正餐におけるグラスの作法は、彼女の言う通りだ。宮廷作法の初歩の初歩ですよ」
「シ、シリル様!?」
「ついでに言えば」
リオもにやにやしながら加わった。
「さっきから見てりゃ、あんたの礼の角度、侯爵令嬢にしてはぞんざいすぎるぜ。マリーの方がよっぽど正確だ。——なあ、シリル」
「ああ。マリーの所作は完璧だ。指摘する箇所などどこにもない。むしろあなたの方が、学び直した方がいい」
宰相の息子と、元伯爵家の次男。
貴族作法を知り尽くした二人に、理詰めで滔々と説教されて。
アデラインは、ぐうの音も出なかった。
彼女がマリーを貶めようとするほど、逆に自分の無知が露呈していく。周りの貴族たちも、ひそひそと囁き始めた。「あら、モンフォール家のご令嬢、基礎がなっていないのね」「恥ずかしい」と。
アデラインの顔が、屈辱で真っ赤になった。
そこへ。
「——何の騒ぎだ」
会場に、アルフレードが現れた。
そしてまっすぐマリーのもとへ歩み寄ると、衆人環視の中で、当然のようにその手を取った。
「マリー。待たせたな」
「アルフレード様……!」
「私の大切な人だ。粗相のないよう、丁重にもてなしてもらおう」
王太子が公の場で、マリーを「大切な人」と宣言した。
その瞬間、会場の空気が決した。誰ももう、マリーを平民と侮ることはできなかった。
アデラインの企ては——完全に崩れ去った。
「う……っ、うぅ……! 覚えてなさい……!」
アデラインは捨て台詞を残すこともままならず。屈辱に震えながら、自分の主催した夜会から、逃げるように去っていった。
主役がいなくなった夜会。
でも、誰も彼女を惜しまなかった。
夜会の帰り道。
マリーは馬車に揺られながら、ほっと息をついた。
「疲れたか」
隣に座るアルフレードが、優しく聞いた。
「はい、少し。でも、なんとか乗り切れました。リオとシリルのおかげです」
マリーは笑った。
勝った。アデラインの嫌がらせを跳ね返した。完璧に振る舞って、晒し者にもならなかった。
でも——心の片隅に、小さな引っかかりが残っていた。
今日、自分は必死に貴族のふりをした。何日も特訓して。やっと、あの場に立てた。
それは裏を返せば。
本来の自分のままでは、あの場に立てない、ということ。平民のマリーは、貴族の世界では、それだけで攻撃の的になる。今日は勝てた。でもそれは、リオとシリルとアルフレードがいたから。
もし、自分一人だったら。
「……やっぱり、厳しいなあ」
マリーはぽつりと呟いた。
「ん?」
「いえ。——この世界の身分って、大きいんだなあ、って」
マリーは窓の外の、流れる夜景を見つめた。
アルフレードと想いは通じ合った。恋人にもなれた。でも身分の壁は、想像していたよりずっと高くて分厚かった。今日、それを思い知った。
平民の自分が、王太子のアルフレードと結ばれる。
その道のりは——きっと、まだ果てしなく遠い。
アルフレードは、そんなマリーの横顔を見て。そっとその手を握った。
「案ずるな」
その声は静かで、力強かった。
「壁があるなら、私が壊す。お前を必ず、私の隣に立たせてみせる。——だから、お前は何も心配するな」
「アルフレード様……」
マリーは握られた手の温もりに、少しだけ勇気をもらった。
でも、二人の前に立ちはだかる身分の壁が、これから本格的に動き出すことを。
このときの二人は——まだ、知らなかった。




