第六章 第三話 ―――許嫁を、名乗る女―――
その日、アルフレードはいつものように診療所を訪れていた。
診察の合間、二人で穏やかにお茶を飲む。すっかり馴染んだ幸せな時間だった。
その平穏を破ったのは、けたたましく開いた扉の音だった。
「ごめんあそばせ!」
甲高い声とともに、一人の令嬢が診療所に踏み込んできた。
豪奢なドレス。高く結い上げた金髪。扇を片手につんと顎を上げた、いかにも気位の高そうな美女だった。供を何人も引き連れている。一目で高位の貴族令嬢だと分かった。
「あなたが、マリーという平民ね?」
令嬢はマリーを上から下まで、無遠慮に眺め回した。
「まあ。本当にただの平民じゃないの。こんな女が……」
マリーはきょとんとした。
「えっと……どちらさまでしょう。ご病気か、お怪我ですか?」
「病気ですって!? 失礼な!」
令嬢は扇をばっと広げた。
「わたくしはアデライン。由緒正しきモンフォール侯爵家の令嬢よ。——そして」
アデラインは勝ち誇ったように胸を張った。
「アルフレード王太子殿下の、許嫁よ」
その言葉に、マリーは目を瞬かせた。
——許嫁。
アデライン。モンフォール侯爵家。
マリーの頭の中で、前世のゲームの記憶が繋がっていく。
そうだ。いた。確かにいた。アデライン・ド・モンフォール。ゲームに登場する悪役令嬢。王太子ルートでヒロインに嫉妬して、嫌がらせを繰り返す——あの悪役令嬢だ。
でも。
マリーの背筋に冷たいものが走った。
——おかしい。
ゲームのアデラインが敵視するのはヒロイン。ソフィアのはずだ。王太子に近づくヒロインに嫉妬して立ちはだかる。それが彼女の役割だった。
なのに今。
彼女の矛先はマリーに向いている。ソフィアではなく、この自分に。
——やっぱり、変わってる。
マリーは確信した。物語は本来の筋から完全に逸れてしまっている。悪役令嬢がヒロインではなく、自分のところに来てしまった。
それはつまり、自分が物語を変えてしまった何よりの証拠だった。
「聞いているの!? 平民!」
アデラインの苛立った声で、マリーは我に返った。
「あ、はい。すみません。許嫁さん、でしたっけ」
「許嫁さん、ですって? 馴れ馴れしい! アデライン様、とお呼び!」
「アデライン様。失礼しました」
マリーは素直に言い直した。
その淡々とした態度が、かえってアデラインの神経を逆撫でしたらしい。
「あなた、自分の立場が分かっているの? 平民の分際で、王太子殿下に馴れ馴れしく取り入って。恥ずかしいと思わないの?」
「平民なのは、事実ですね」
「……は?」
「はい。私は平民です。おっしゃる通りです」
マリーはけろりと肯定した。
嫌味のつもりで言ったのに。相手があっさり認めるので、アデラインは調子が狂った。
「な……っ、開き直るつもり!?」
「いえ。事実なので」
マリーには、アデラインの嫌味がまるで刺さらなかった。
平民であることは本当のことだ。隠すことでも恥じることでもない。だから「平民のくせに」と言われても、「はい、平民です」としか答えようがなかった。
暖簾に腕押し。
アデラインの攻撃は、マリーの飄々とした受け答えにことごとく空を切った。
マリーの内心はむしろ、別のことでいっぱいだった。
——どうしよう。アデライン、出てきちゃった。私のせいで本当にシナリオが変わってる。これ、放っておいて大丈夫なのかな。ソフィアさんのところには行かなくていいの……?
目の前の嫌味より、物語の行方の方がよっぽど気がかりだった。
二人のやり取りを黙って見ていたアルフレードが、ゆっくりと立ち上がった。
「——アデライン嬢」
その声は氷のように冷たかった。
マリーに向ける、あのあたたかい声とはまるで別人だった。底冷えするような、絶対零度の王太子の声。
「誰が、許嫁だと?」
「で、殿下……」
「私はお前を許嫁と認めた覚えは、一度もない。モンフォール侯爵家が勝手に縁談を望んでいるだけだろう。私はその話をすべて断り続けてきた。——違うか」
アデラインの顔がこわばった。
「で、でも、それは、いずれお受けいただけると……家同士の話も……」
「勝手に決めるな」
アルフレードはぴしゃりと言い放った。
「私の伴侶は、私が決める。家の都合でも、お前の願望でもない。——そして、私が選んだのは」
アルフレードはマリーの隣に戻った。そしてその肩を、そっと抱き寄せた。
「この、マリーだ」
「なっ……!」
アデラインの顔が屈辱で真っ赤に染まった。
「そ、そんな……! 平民の女を、このわたくしより選ぶとおっしゃるの!?」
「身分は関係ない。私はマリーを選んだ。それだけだ」
アルフレードの断固とした態度。
アデラインはわなわなと震えた。プライドをずたずたに引き裂かれた、屈辱の表情だった。
「……いいでしょう」
アデラインは扇をぎりっと握りしめた。
「平民の分際で、王太子妃の座を狙うなんて。このわたくしが許さないわ!」
彼女はマリーをきっと睨みつけた。
「覚えておきなさい! あなたなんかが殿下の隣に立てると思わないことね。——目にもの見せて差し上げますわ!」
そう捨て台詞を残して、アデラインは供を引き連れ、嵐のように去っていった。
「気にするな。あの手の輩は、ただ騒ぐだけだ」
アルフレードはマリーを安心させるように言った。
「……はい。ありがとうございます」
マリーは笑顔で頷いた。
でも——その胸の内では、別の不安が渦巻いていた。
悪役令嬢が現れた。でもその矛先はヒロインではなく、自分に向いた。物語は確実に、本来の道筋からずれている。
この先、何が起こるのか。ゲームの知識が、もう通用しない領域に足を踏み入れている予感があった。
でも——それは、誰にも言えないことだった。
前世のことも。ゲームのことも。マリーがこの世界の「物語」を知っていることも。
全部、自分一人の胸の奥にしまっておくしかない秘密だった。
窓の外を、そっと見つめる。
その横顔の翳りには気づかぬまま。アルフレードは優しくマリーを見守っていた。




