第六章 第二話 ―――氷の、とけたところ―――
ある日のこと。
アルフレードが診療所に、大きな箱を抱えてやってきた。
「マリー。これを受け取れ」
「え? なんですか、これ」
マリーが箱を開けると——中からまばゆい光がこぼれた。
宝石だった。それも、見たこともないほど大粒の。首飾りに、耳飾りに、指輪。きらきらと輝く装飾品が、ぎっしり詰まっていた。
「ひっ」
マリーは思わず箱を閉じた。
「な、なんですか、これ!?」
「贈り物だ。お前に似合うと思って選んだ」
アルフレードは当然のように言った。
「恋人に贈り物をするのは普通のことだろう。遠慮するな。全部お前のものだ」
「いやいやいや! 受け取れません! こんな、お城が買えそうなもの!」
「城ならすでにある。気にするな」
「そういう問題じゃ……!」
マリーは頭を抱えた。
アルフレードは本気で不思議そうな顔をしていた。彼にとっては、これが「普通」なのだ。王族の感覚で、恋人に最高級の宝飾品を贈る。そこに悪気はまったくない。
でも、平民のマリーには荷が重すぎた。
「お気持ちは嬉しいです。でも、こんな高価なもの、私には不釣り合いです。それに診療所でこんなの着けてたら、患者さんがびっくりしちゃいます」
「……そうか」
アルフレードはしゅんと肩を落とした。
その姿があまりにも分かりやすく落ち込んでいたので。マリーは思わず笑ってしまった。
「ふふ。でも、本当に嬉しいんです。アルフレード様が私のことを考えて選んでくれたって。——その気持ちだけで十分です」
「……気持ちだけで、いいのか」
「はい。それが一番嬉しいです」
アルフレードはしばらく考え込んだ。
それからぽつりと言った。
「……難しいな。恋人に何をすれば喜ばれるのか。私はこういうことが分からん」
その戸惑った横顔に。マリーの胸がきゅんと鳴った。
その日、マリーはふと気づいた。
アルフレードの顔色がよくない。目の下に隈がある。
「アルフレード様。最近、ちゃんと眠れていますか」
「……なぜ分かる」
「医者ですから。顔を見れば分かります」
マリーはアルフレードを椅子に座らせた。
「公務がお忙しいんですね。無理をなさってるでしょう」
「これくらい、なんともない」
「だめです。ちゃんと休まないと」
マリーは温かいお茶を淹れた。それから彼の凝った肩を、そっとほぐし始めた。医者として見過ごせなかった。そして——恋人として、彼を労りたかった。
アルフレードは最初、戸惑っていた。
けれどマリーの手の温もりに、少しずつ力を抜いていった。
「……お前は」
アルフレードがぽつりと口を開いた。
「不思議な女だ。私に見返りを求めない」
「見返り、ですか?」
「ああ。私の周りにはいつも、何かを欲しがる人間ばかりだった。地位。金。権力。私に近づく者は皆、何かを企んでいた。——だから私は、誰も信じられなくなった」
その声は静かだった。
マリーは肩をほぐす手を止めずに、黙って聞いていた。
「幼い頃からそうだった。笑顔で近づいてくる者の裏側を、嫌でも見てきた。優しさには必ず裏がある。そう学んだ。——だから心を閉ざした。誰にも期待しなければ、裏切られることもない」
アルフレードの横顔に影が差した。
その「過去」の詳しい中身を、彼は語らなかった。マリーも聞かなかった。きっと、まだ口にするには重すぎる何かがあるのだろう。それでも、彼がその一端を明かしてくれたことが、マリーには嬉しかった。
「でも、お前は違った」
アルフレードがマリーを見上げた。
「お前は、私が王太子だろうと平民だろうと、同じように接した。私に何も求めなかった。ただ目の前の『不調を抱えた人間』として、私を診た。——あんな人間がいるのかと。正直、衝撃だった」
「アルフレード様……」
「お前に出会って初めて知った。見返りを求めない優しさが、この世に存在するのだと。——お前が私の凍った心を溶かしたんだ」
そう言って。
アルフレードは笑った。
それはいつもの、冷厳な王太子の顔ではなかった。氷のような、近寄りがたいあの仮面でもなかった。
ただ一人の男が、愛する人に向ける、柔らかくあたたかい笑顔だった。
マリーの心臓が跳ねた。
——ずるい。
こんな顔、誰も知らない。冷たくて近寄りがたいと皆が恐れる、あのアルフレードが。自分の前でだけ、こんなにも優しく笑う。
その笑顔は、世界中で自分だけが知っている。
そう思うと、マリーの胸は幸福ではちきれそうになった。
「……私、アルフレード様のその笑顔。大好きです」
思わず口にすると。
アルフレードの頬が、ほんのり赤くなった。
「……不意打ちはやめろ」
「ふふ、ごめんなさい」
二人は顔を見合わせて笑った。
穏やかであたたかい午後だった。
日が傾き、アルフレードが帰る時間になった。
「では、また来る」
「はい。お仕事、無理しないでくださいね」
「善処する。——お前も根を詰めるな。倒れたら、私が悲しむ」
そんな甘い言葉をさらりと残して。
アルフレードは帰っていった。
その背を、マリーは診療所の戸口で見送った。
胸がぽかぽかと温かかった。幸せだった。恋人に想われて。素の笑顔を見せてもらえて。こんな日々が訪れるなんて、前世では考えられなかった。
でも。
一人になって。
診療所の中に戻って。さっきまでの賑わいが嘘のように静かになった部屋で。
マリーの胸に、じわじわと別の感情が滲んできた。
「……でも」
ぽつりと呟く。
マリーは、アルフレードが置いていった宝石の箱を見つめた。結局、受け取らなかったその輝き。
あれは王族の、世界のものだ。自分の住むこの世界とは違う。
アルフレードは王太子。いずれこの国の王になる人。
そして自分は——ただの平民。
身分も、後ろ盾も、何もない。王都にすら近づけない立場の人間。
想いが通じ合ったのは本当だ。嬉しいのも本当だ。
でも——それだけで二人が結ばれるほど。この世界は甘くなかった。
「私……アルフレード様の隣に立てる身分じゃ、ないんだ」
マリーは小さく呟いた。
恋人になれた。でもその先には。きっと、とても高くて分厚い壁がある。
平民が王太子と結ばれる。そんなことが本当に許されるのだろうか。
今は幸せだ。でもこの幸せは、いつまで続くのだろう。
窓の外で夕日が沈んでいく。
マリーは宝石の箱を、そっと棚の奥にしまった。
その輝きがまるで、自分とアルフレードの間に横たわる距離のように思えて。
胸の奥が、ほんの少し切なく疼いた。




