第七章 第五話 ―――ロイヤル・クリムゾン・ファンタジア―――(最終話)
「——よかろう」
謁見の間に、王の声が響いた。
「アルフレード。そして、マリー・ド・ベルナール。お前たちの婚姻を——正式に認めよう」
その言葉に。
マリーの心臓が大きく跳ねた。
「ほ、本当ですか、陛下……!」
「ああ。お前ほどの人物なら。我が国の王太子妃として、何の不足もない。——いや、むしろ。お前のような娘が次代の王妃となることは。この国にとって幸運だ」
王は穏やかに微笑んだ。
かつて二人の仲を阻もうとした、その人が。今、心から二人を祝福している。
アルフレードが深く頭を下げた。
「……感謝します、父上」
その声は、わずかに震えていた。長年、家のために心を殺してきた彼が。初めて自分の願いを、父に認めてもらえた瞬間だった。
マリーは隣で、涙をこらえていた。
長い道のりだった。平民として身分の壁に阻まれて。一度は答えの出ない問いに立ち尽くして。それでも諦めずに進んできた。
その果てに。ようやく——この瞬間に辿り着いたのだ。
王の許しを得た、その日の夕暮れ。
アルフレードは、マリーを城の庭園へと誘った。
夕日に染まる美しい庭。そこは勿忘草の花が、一面に咲き誇る場所だった。澄んだ水色の小さな花。マリーの瞳と同じ色の。
「アルフレード様。ここは……」
「お前に見せたかった。——この花を」
アルフレードは勿忘草を一輪、手に取った。
「勿忘草。花言葉は『真実の愛』だそうだ。——お前を表すのに、これ以上ふさわしい花はないと思った」
そして、彼は。
マリーの前で、片膝をついた。
「アルフレード様……!?」
驚くマリーの前で。アルフレードは小さな箱を取り出した。中には、水色の石の嵌まった指輪が。
彼はまっすぐにマリーを見上げた。その銀の瞳には、もう氷の冷たさはなかった。ただ深い愛情だけが湛えられていた。
「マリー」
「は、はい」
「生涯をかけて、お前を愛する」
飾らない、まっすぐな言葉だった。
「私の妃になってくれ。——いや。ただの妃ではない。私の隣で、お前のまま生きてほしい。医者として。お前の信じる道を歩みながら。その傍に、私をいさせてほしい」
マリーの目から、涙がこぼれた。
この人は分かっている。マリーが何を大切にしているかを。妃という立場に押し込めるのではなく。「お前のまま生きてほしい」と言ってくれる。
それが——どうしようもなく嬉しかった。
「……はい」
マリーは頷いた。涙で声が震えた。
「私でよければ。喜んで。——生涯、あなたの隣に」
アルフレードが、マリーの指に指輪を嵌めた。
水色の石が、夕日を受けてきらりと光った。
そして二人は——勿忘草の咲く庭で、口づけを交わした。
前世から続いた、長い片想い。手の届かない、画面の向こうの推し。一生、会えるはずのなかった人。
その人が今、目の前にいて。自分を生涯の伴侶に選んでくれた。
夢ではない。現実だった。
マリーは確かに——その幸せを掴み取ったのだ。
そして、月日は流れ。
二人の結婚式が執り行われた。
王城の大聖堂。荘厳な鐘の音が響き渡る中。
マリーは純白の花嫁衣装に身を包んでいた。亜麻色の髪を結い上げ、水色の瞳を輝かせて。誰もが息を呑む美しさだった。
その隣には、正装したアルフレード。いつもの冷厳な表情はどこにもなく。ただ隣の花嫁を、愛おしげに見つめる一人の男がいた。
「——誓いますか」
司祭の問いかけに。
「誓います」
二人の声が重なった。
その瞬間、大聖堂に祝福の歓声が満ちた。
参列者の中には。見慣れた顔ぶれがいた。
「ううっ、マリー……綺麗だ……! 幸せになれよ……!」
ガウェインが豪快に号泣していた。
「みっともないぞ、ガウェイン。——だが、まあ。同感だ」
シリルが珍しく、目元を緩めて。
「最高に希少で、美しい花嫁だ。記録に残しておくべきだな」
テオがいつもの調子で。けれど、その目は優しかった。
「……幸せにな、マリー」
リオが静かに笑った。少しの寂しさと。それを上回る祝福を込めて。
「マリー先生……! 本当に、本当におめでとうございます!」
ソフィアが両手を握りしめ、涙ぐんでいた。
そして。
「マリー先生ー! おめでとうございますー!」
すっかり背が伸びたマルタが。元気いっぱいに手を振っていた。今では、マリーの医術を学ぶ立派な弟子だ。
ベルナール伯爵——お義父様も。我が子の晴れ姿に、目を潤ませていた。
みんなが笑顔で。みんなが祝福してくれていた。
マリーはその光景を見渡して。胸がいっぱいになった。
こんなにもたくさんの大切な人たちに囲まれて。最愛の人と結ばれて。
——なんて幸せな人生だろう。
結婚してからも。
マリーは変わらなかった。
王太子妃になっても。診療所での仕事を辞めなかった。相変わらず身分を問わず、一律料金で。貧しい人も、富める人も、分け隔てなく。目の前の命と向き合い続けた。
「妃殿下が自ら診療所で患者を診るなど」と、最初は驚かれもした。でも、マリーは揺るがなかった。
医者であることは。マリーにとって、肩書きでも義務でもなかった。前世からずっと——それは彼女の、生き方そのものだった。
前世。田中マリは、救急医だった。
命を救うために走り回り。睡眠を削り、心身をすり減らして。報われることも少ないまま。恋を知ることもなく。過労の果てに倒れ、命を落とした。
悔いの残る人生だった。
でも——その人生で培ったすべてが。
この世界で、生きていた。
前世で必死に身につけた医療の知識。数えきれない命と向き合ってきた経験。その一つひとつが。この異世界で、魔法では救えない命を救う力になった。
誰かに与えられた幸運ではない。
マリーが前世から積み重ねてきたもので。自らの手で掴み取った——ハッピーエンドだった。
ある日のこと。
診療所の窓辺で、マリーはふと手を止めた。
窓の外には、いつかアルフレードと約束を交わした、あの勿忘草が。今年も変わらず、水色の花を咲かせていた。
勿忘草。花言葉は『真実の愛』。
マリーは左手の薬指に嵌まった指輪を、そっと見つめた。水色の石が、陽光を受けて優しく輝いている。
「マリー。何を見ている」
いつの間にか隣に、アルフレードが立っていた。公務の合間に、また診療所へ来たのだろう。
「ふふ。勿忘草を。——綺麗だな、って」
「ああ。お前の瞳と同じ色だ」
アルフレードが、マリーを後ろからそっと抱きしめた。
その温もりに身を委ねながら。マリーは静かに目を閉じた。
前世から続いた、長い物語。
異世界に転生して。大好きだった乙女ゲームの世界で。ヒロインではなかった、ただの平民の自分が。前世の知識と医術を頼りに歩んできた。
たくさんの人に出会い。たくさんの命を救い。そして——大好きだった推しと結ばれた。
これは。
マリーが自らの手で紡ぎ、掴み取った——たった一つの物語。
誰のものでもない。彼女だけの、王家の深紅の幻想曲。
その物語はこれからも。
穏やかに、幸せに——続いていく。
水色の花が、風に揺れる。
優しい陽だまりの中で。二人はいつまでも、寄り添っていた。
——おわり。




