第五章 第六話 ―――推し、本懐―――
その日、アルフレードはふらりと診療所にやってきた。
公務の合間を縫って、というにはあまりにも軽やかな足取りだった。まるでただ会いたいから来た、とでも言うように。
「殿下。お忙しいのに、よくいらっしゃいましたね」
「アルフレードだ。二人のときはそう呼べと言ったはずだが」
「……アルフレード様」
マリーが言い直すと、アルフレードは満足そうに頷いた。
マリーはふと思いついた。これはいい機会かもしれない。
最後の標的にして、最大の難関。アルフレードとソフィアをくっつける。これまで散々失敗してきたが今度こそ。本来の物語の、いちばん大切な組み合わせなのだ。
「あの、アルフレード様。光の聖女のソフィアさんってご存知ですか。とても素敵な方で——」
「興味がない」
ばっさり、だった。
「えっ」
「その話はもういい。お前以外の人間の話を、私はする気はない」
アルフレードは心底どうでもよさそうに話を打ち切った。
「で、でも、ソフィアさんは光の魔法を使える特別な——」
「聞こえなかったのか。興味がない、と言った」
ぷい、と。
アルフレードはあからさまにそっぽを向いた。
マリーは目を丸くした。
あの冷厳で誇り高い王太子が。まるで構ってほしい子供のように、不機嫌そうに唇を尖らせている。ソフィアの話題を出されたのが、よほど気に入らないらしい。
「……ふっ」
マリーは思わず噴き出してしまった。
「な、何がおかしい」
「いえ、ごめんなさい。アルフレード様が、なんだか拗ねた子供みたいで」
「子供だと? 私を誰だと思っている」
「ふふ、すみません。でも可愛らしくて」
「か……っ」
アルフレードの白い頬が、ほんのり赤くなった。
マリーはまた笑った。
不思議だった。あれほど近寄りがたかった人。氷のように冷たくて、何を考えているか分からなかった人。その人が今、自分の前でこんなにも人間らしい顔を見せている。
張り詰めていた空気が、ふっとほどけた。
「……お前は」
アルフレードがぽつりと言った。
「私の前でだけ、よく笑うな」
「そうですか?」
「ああ。……いい。もっと笑え。お前の笑った顔は、悪くない」
その言葉に、今度はマリーの頬が熱くなった。
二人は診療所の窓辺でお茶を飲んだ。
穏やかな午後だった。アルフレードは公務の愚痴をぽつぽつと話した。マリーは診療所での出来事を話した。他愛のない、けれど心地よい時間だった。
ふと、マリーはまた思い出した。本来の目的を。
「あ、そうだ。やっぱりソフィアさんのことなんですけど——」
「マリー」
アルフレードの声が低くなった。
「お前はなぜ、そんなにその聖女の話を私にしたがる」
「え、それは、その。お似合いだと思うので」
「お似合い? 私とその女がか?」
アルフレードの銀の瞳が、すうっと細くなった。
「……お前は、私をその女にくっつけたいのか」
「あ、いえ、その」
マリーは言葉に詰まった。
アルフレードはティーカップをことりと置いた。そしてはっきりと、不機嫌な顔で言った。
「気に入らないな」
「え?」
「さっきからソフィア、ソフィアと。——そんなにその女の名を、私の前で口にするな」
それは。
どう聞いても——ヤキモチ、だった。
「お前が私の口から聞きたい名前は、その女のものか? 違うだろう。私が呼ぶべき名は、ただ一つだ」
アルフレードはマリーをまっすぐ見た。
「マリー。お前の名だけだ」
マリーの心臓が跳ねた。
顔が熱い。鼓動が速い。
——あれ。
マリーは戸惑った。
この感覚を知っている。さっきまでソフィアと攻略対象をくっつけようと必死だったのに。アルフレードに名を呼ばれただけで。たったそれだけで、こんなにも胸が高鳴る。
テオの時も。リオの時も。ガウェインの時も。シリルの時も。こんな風にはならなかった。どんなに想いを向けられても、胸のある一点だけは静かなままだった。
でも、アルフレードは違う。
この人にだけは。この人の言葉にだけは——心がこんなにも震える。
そのとき、マリーの頭の中で、ある事実が繋がった。
——待って。
マリーは考えた。
ソフィアが現れてから。マリーは必死に、攻略対象たちとソフィアをくっつけようとしてきた。でも誰一人、ソフィアになびかなかった。
特に——アルフレードは。
ヒロインが登場したのに。本来なら物語の中心でヒロインと結ばれるはずの、メインの攻略対象が。ソフィアに見向きもしなかった。それどころか「興味がない」と、名前を聞くことすら嫌がった。
ずっとマリーだけを見ていた。
マリーの胸が震えた。
——そういうことなの。
ヒロインが現れても、アルフレードは彼女と交わらなかった。物語の筋書きがどうであろうと。この人は自分の意志でマリーを選び、マリーだけを想い続けている。
それはつまり。
自分はもう「ヒロインのために身を引く」必要なんて、ないのかもしれない。
ずっと思い込んでいた。自分はただの平民。ヒロインじゃない。だから攻略対象たちと結ばれてはいけない。物語を正しい結末に戻さなきゃいけない。
でも——その「正しい結末」は、もう来なかった。ヒロインが現れても何も始まらなかった。アルフレードの心は、最初からマリーのものだったから。
なら。
もう、いいんじゃないか。
この想いを認めても。この幸せを受け取っても。
「……アルフレード様」
マリーの声が震えた。
胸の奥でずっと抑えつけてきた想いが。堰を切ったように溢れ出していた。
前世からずっと焦がれていた人。画面の向こうの、手の届かない推し。一生会えるはずのなかった人。その人が今、目の前にいて。自分だけを見て、想ってくれている。
こんな幸せが。こんな奇跡が。あっていいのだろうか。
自惚れかもしれない。都合のいい夢かもしれない。でも、それでも。
最愛の人からこれほどまでに一途に想われている。その事実が、マリーの胸を幸福でいっぱいに満たしていた。
もう否定できなかった。
これは——恋だ。
自分はアルフレードを愛している。前世からずっと。そしてこの世界で、再び。
「アルフレード様。私、お話しなきゃいけないことがあります」
マリーは勇気を振り絞った。
アルフレードは黙ってマリーを見つめた。その銀の瞳がかすかに揺れていた。何かを期待するように。けれど怖れるように。
「私、ずっと自分には、あなたを想う資格がないと思っていました。私はただの平民で。あなたにはもっとふさわしい人がいるはずだと。だからずっと、身を引こうとしていました」
「マリー——」
「でも」
マリーはアルフレードの言葉を遮った。そしてまっすぐに彼を見た。
目に涙が滲んでいた。
「もう、やめます。自分の気持ちに嘘をつくの」
マリーの声が震えた。
「私……あなたが好きです。アルフレード様。ずっと、ずっと前から。誰よりも——あなたをお慕いしています」
言ってしまった。
ずっと心の奥に封じ込めてきた想い。決して口にしてはいけないと思っていた言葉。それを今、伝えてしまった。
アルフレードの目が見開かれた。
そして——その銀の瞳が、みるみる潤んでいった。
「……っ、マリー」
アルフレードは立ち上がると、マリーを強く抱きしめた。
壊れ物を扱うように。けれど、もう二度と離さないというように。痛いほど強く。
「言ったな。今、確かに言ったな」
「は、はい」
「もう取り消せないぞ。お前は私のものだ。今、お前が自分でそう認めた」
アルフレードの声は震えていた。歓喜に。
「ずっと待っていた。お前がその言葉を口にするのを。どれほど待ち焦がれたか。——お前は知らないだろう」
「ごめんなさい。待たせてしまって」
「いい。待った甲斐があった」
アルフレードはマリーの顔を両手で包んだ。そしてその額に、そっと自分の額を重ねた。
「愛している、マリー。お前だけを。生涯、お前だけを」
「私も。私も、愛しています。アルフレード様」
二人はしばらく、そうして寄り添っていた。
窓の外には穏やかな午後の光。
長い長い片想い——いや、両片想いが、ようやく実った瞬間だった。前世から続くマリーの恋が。氷のように閉ざされていたアルフレードの心が。今、確かに結ばれた。
もっとも。
二人の前に、課題がないわけではなかった。
マリーは平民。アルフレードは王太子。その身分の差はあまりにも大きい。王族が平民を伴侶に迎えるなど、簡単に許されることではない。
いずれその壁が、二人の前に立ちはだかるだろう。
でも——今は。
今だけは、この幸せに浸っていたかった。
「アルフレード様」
「なんだ」
「これからも診療所に来てくれますか」
「当然だ。むしろ毎日でも来たい」
「ふふ、お忙しいでしょう」
「お前のためなら、時間くらい作る」
マリーは笑った。
幸せだった。胸がいっぱいだった。
前世で過労に倒れ、報われなかったあの日々。恋も知らずに終わったあの人生。それが今、こんなにも満たされた形で報われている。
——この世界に生まれてよかった。
マリーは改めてそう思った。
最愛の人と心を通わせて。たくさんの大切な人たちに囲まれて。自分の信じる医術で人々を救って。
これ以上の幸せはない。
窓辺で寄り添う二人を、午後の光が優しく包んでいた。
——推しと結ばれる。
そんな夢みたいな結末を。マリーは今、確かにその手に掴んでいた。




