第四章 第十一話 ―――その瞳に、映る未来―――
マルタの母が、診療所に運び込まれたのは、よく晴れた日のことだった。
マリーは、すっかり回復していた。激しい運動はまだ控えねばならないが、診察も治療も問題なくこなせる。その手は、もう震えていなかった。
運ばれてきた母親は、痩せ細っていた。顔は青白く、呼吸は浅い。長く病に伏せっていたことが、一目で分かった。
その傍らに、マルタが不安そうに付き添っていた。
「お、おねえちゃん……」
マルタは、マリーを見るなり顔を強張らせた。自分が刺した相手。その人に、母を託すのだ。少年の心は、罪悪感とすがるような希望で、引き裂かれそうになっていた。
「マルタ。よく連れてきてくれたね」
マリーは優しく微笑んだ。
「あとは、私に任せて。お母さんは、必ず治すから」
マリーは、すぐに診察に取りかかった。脈を診て、呼吸を確かめ、症状を丁寧に問診していく。
そして——マリーは、母親の病の正体を見抜いた。
それは決して、不治の病ではなかった。
適切な薬と、十分な栄養、そして安静。それさえあれば、回復する見込みのある病だった。
なのに、なぜ、こんなにこじれてしまったのか。
答えは明白だった。
「……お金が、なかったのね」
マリーは静かに呟いた。
貧しさゆえに、医者にかかれなかった。薬も買えなかった。満足な食事もとれなかった。治せる病を、治せないまま放置するしかなかった。それだけのこと。
医療が、お金で買うものだから。
この母子は、ただ貧しいというだけで、当たり前の治療から締め出されていた。
マリーの胸に、静かな怒りと悲しみが込み上げた。
これこそが——マルタをあんな行動に追い込んだ、根本の原因だった。医療格差。命が財布の中身で選別される社会。マリーがずっと変えたいと願ってきたその不条理が、この母子の姿に凝縮されていた。
「大丈夫」
マリーは、マルタに向き直った。
「お母さんの病気は、治せる。私が必ず治す。お金のことは、心配しなくていい。うちは、一律料金だから」
「……ほ、本当に……?」
マルタの目に、涙が盛り上がった。
「本当よ。だから、もう安心して」
マリーは、マルタの頭をそっと撫でた。
それから、マリーの献身的な治療が始まった。
適切な薬を処方し、栄養のある食事を用意し、安静を保たせる。テオが魔法で育てた特別な薬草も、惜しみなく使った。日に日に、母親の顔に生気が戻っていく。
そして、半月後。
母親は、自分の足で立てるまでに回復した。
「ああ……ああ……マルタ……」
母親は、息子を抱きしめて泣いた。
「お母さん……! お母さん……っ!」
マルタも、母にしがみついて泣いた。
失われかけた、ささやかな家族の幸せが、マリーの手によって取り戻された瞬間だった。
母親の回復後、マルタは、改めてマリーの前に座った。
深々と、頭を下げる。
「おねえちゃん……いえ、マリー先生。本当に、ごめんなさい。そして——ありがとう、ございました」
その声は震えていた。
「ぼく、先生を刺しました。許されないこと、しました。なのに先生は、ぼくを責めないで、お母さんまで助けてくれた。ぼく……ぼく、どうやってお礼をすれば……」
「マルタ」
マリーは、少年の前に屈み込んだ。
「あなたは、もう十分に苦しんだ。自分のしたことと、ちゃんと向き合った。それでいいの」
「でも……」
「一つだけ、お願いがあるの」
マリーは優しく言った。
「これからは、自分を責めすぎないで。あなたは、お母さんを救いたかった。その気持ちは、何も間違っていなかった。間違っていたのは——あなたをそこまで追い詰めた、世の中の方なの」
マルタは、ぽろぽろと涙をこぼした。
「ぼく……ぼく、決めたことが、あります」
涙を拭いながら、マルタはまっすぐにマリーを見た。
「ぼくも、お医者さんになりたい。先生みたいな。お金がなくても、誰でも診てもらえる、そういうお医者さんに。ぼくみたいに苦しむ子が、もう出ないように」
マリーの胸が、熱くなった。
「ぼく、勉強します。いっぱい勉強して、先生みたいになる。だから——いつか、ぼくを弟子にしてください。お願いします!」
マリーは微笑んだ。
その目に、未来が見えた気がした。自分の蒔いた種が、こうして次の世代へと受け継がれていく。命の平等を願う心が、また一人、芽吹いていく。
「ええ。約束する」
マリーは、マルタの手を握った。
「あなたがしっかり勉強して、大きくなったら。私が、医術を教えてあげる。一緒に、たくさんの命を救いましょう」
「……! はい! はいっ!」
マルタの顔が、ぱっと輝いた。
第二のマリーが、生まれる瞬間だった。
マルタ親子が、笑顔で診療所を去ったあと。
入れ替わるように、アルフレードが訪れた。
「片付いたようだな」
アルフレードは、穏やかな声で言った。
「マルタの母も回復した。ドラクロワも失脚した。お前を脅かすものは、もう何もない」
「はい。皆さんのおかげです」
マリーは頭を下げた。
アルフレードは、しばらくマリーを見つめていた。その銀の瞳に、静かな熱が宿っていた。
「マリー。覚えているか。私が、お前に言ったことを」
マリーの心臓が跳ねた。
「マルタの母を救ったら——その後は、私のものだ、と」
マリーは息を呑んだ。
覚えていた。忘れるはずもなかった。あの、氷が解けた日、アルフレードが告げた、独占の言葉。
「約束は果たされた。マルタの母は、お前が救った。——だから、今度は、私の番だ」
アルフレードは、一歩、マリーに近づいた。
「マリー。私の傍に来い。お前を、生涯、傍に置きたい。誰にも渡さず、誰にも触れさせず——私だけのものにしたい」
その言葉はまっすぐで、有無を言わさぬ熱を帯びていた。
マリーの頭が、真っ白になった。
——どうしよう。
マリーは、必死に考えた。
もう、認めざるを得なかった。アルフレードが、自分に向ける感情。それが、紛れもない恋なのだということを。
そして——彼だけじゃ、ない。
リオの「愛してる」。ガウェインの「生涯をかけて守る」。テオの「世界で一番希少な君を研究したい」。シリルの、過保護なまでの優しさ。
全部。全部、そういうことだったのだ。
マリーは、ようやく、完全に自覚した。
自分は——五人の男たちから、想いを寄せられている。
あれほど「自分はヒロインじゃない」と打ち消してきたのに。もう、打ち消せなかった。事実は、目の前に突きつけられていた。
「で、殿下、私は……」
マリーの声が震えた。
「私は……まだ、お答えできません」
マリーは、絞り出すように言った。
「ごめんなさい。あまりにも、いろいろなことがありすぎて。私には、まだ受け止めきれないんです。自分の気持ちも、よく分からなくて……」
本当だった。
刺されて、生死をさまよって、ドラクロワの一件があって、マルタ親子を救って——そして、五人から想いを寄せられていると、気づいてしまった。あまりにも多くのことが一度に押し寄せて、マリーの心は追いつかなかった。
アルフレードは、しばらく無言だった。
その銀の瞳の奥で、何かが揺れていた。待つことへの焦り。すぐにでも手に入れたいという衝動。それを必死に抑えているのが分かった。
彼は、本当は——「待てない」のだ。
でも。
「……分かった」
アルフレードは、静かに言った。
「待とう」
その声には、抑えきれないモヤモヤした熱が滲んでいた。けれど、彼はそれをマリーに押しつけはしなかった。
「お前の気持ちが整うまで。私は待つ。——だが、忘れるな。私は諦めない。お前を手に入れることを、決して諦めはしない」
アルフレードの瞳に、ちらりと、あの暗い光がよぎった。
でも、彼はそれ以上は言わなかった。ただ、マリーの頬にそっと触れただけだった。
「ゆっくりでいい。私は、いくらでも待つ」
その指先は、わずかに震えていた。
本当は、ソワソワしてたまらないのだ。一刻も早く、答えが欲しい。でも、それをぐっとこらえている。マリーには、その葛藤が痛いほど伝わってきた。
「……ありがとう、ございます」
マリーは、それだけ言うのが精一杯だった。
アルフレードが帰ったあと。
マリーは、一人、診療所の窓辺に座っていた。
夕暮れの空を、ぼんやりと眺める。
いろいろなことが、ありすぎた。でも、ようやく、すべてが片付いた。マルタの母は救われ、ドラクロワは裁かれ、町には平穏が戻った。
そして、自分は——五人の男たちから、想われている。
「……どうして、こうなったのかな」
マリーは、苦笑した。
自分は、ヒロインじゃない。ただの平民の医者。なのに、なぜか、攻略対象たちが、自分に惹かれている。物語の筋書きとは、まるで違う。
筋書き。
ふと、マリーは考えた。
……そういえば。
ゲーム『ロイヤル・クリムゾン・ファンタジア』の、本来のヒロイン。
彼女のことを、すっかり忘れていた。
マリーは、記憶を辿った。アルフレードの、あの毒。あれは、ゲームでは物語の序盤のイベントだった。つまり——その毒が起こった時点で、もうとっくに、ヒロインは現れて、物語は始まっているはずなのだ。
物語は、もう、スタートしている。
なのに、マリーは、その「ヒロイン」のことを、すっかり意識の外に置いていた。攻略対象たちが、やたらと自分の周りにいるものだから。
「……ヒロインって、今、どうしてるんだろう」
マリーは、ぽつりと呟いた。
この世界のどこかには、ちゃんと、ヒロインがいるはずだ。攻略対象たちと、出会っているはずの、運命の女の子。マリーが、ずっと「この人たちと結ばれるべき」と思ってきた、その相手。
彼女は今、どこで、何をしているのだろう。ちゃんと、攻略対象の誰かと、いい雰囲気になっているのだろうか。それとも——。
「……まあ、いいか」
マリーは、首を振った。
考えても、分からないことだ。それに、今は、自分のことで手一杯だった。五人の想いに、どう向き合えばいいのか。それだけで、頭がいっぱいだった。
夕日が、診療所を優しく照らしていた。
長い戦いが終わり、ようやく訪れた、穏やかな夕暮れ。
マリーは、その温かな光の中で、そっと目を閉じた。




