第四章 第十話 ―――仮面の下の、貴方へ―――
マリーが、ようやくベッドから立てるようになったのは、刺されてから半月ほど経った頃だった。
まだ本調子ではない。だが、ゆっくりとなら歩ける。診療所の中を、少しずつ動けるようになっていた。
その日、マリーが処置室で薬棚を整理しようと、背伸びをした瞬間だった。
「何をしている」
鋭い声が飛んだ。
振り返ると、シリルが戸口に立っていた。いつの間に来ていたのか。その眉が、不機嫌そうに吊り上がっている。
「あ、シリル様。いらして——」
「質問に答えろ。何をしている」
シリルはつかつかと歩み寄ると、マリーの手から薬瓶を取り上げた。
「薬棚の、整理を……」
「ばかか、お前は」
シリルは深く息を吐いた。
「刺されて半月だぞ。傷が塞がったばかりの身体で、背伸びなどするな。傷口が開いたらどうする。——危ない。寝ていろ」
「で、でも、もう、だいぶ動けますし」
「動けることと、無理をしていいことは、別だ」
シリルは有無を言わさず、マリーを椅子に座らせた。
「棚の整理くらい、私がやる。お前は座っていろ。いいな」
マリーは目を丸くした。
あの皮肉屋で、合理主義者で、いつも淡々としているシリルが。薬棚の整理を自分でやると言う。しかも、こんなにも過保護に。
「……シリル様、お優しいんですね」
「優しさではない。合理だ」
シリルはそっぽを向いて、薬瓶を棚に戻し始めた。
「お前が無理をして、また寝込めば、診療所が回らなくなる。それは、この町の患者にとって損失だ。だから、お前を働かせない。——それだけのことだ」
その理屈を並べる横顔は、けれど、どこかばつが悪そうだった。
マリーは小さく微笑んだ。この人はいつもこうだ。優しさを、合理という言葉で包み隠す。素直じゃない人。でも、その不器用さが、なんだか可愛らしくもあった。
「ところで、シリル様。一つ、お願いが」
「なんだ」
「マルタは——あの子は、今、どうしていますか」
シリルの手が止まった。
「あの子のこと、ずっと気がかりで。あの子は、お母さんを救いたい一心だった。今、どこで、どうしているのか」
シリルはしばらく無言だったが、やがて答えた。
「保護している。罪に問うてはいない。お前がそう望むだろうと思ってな」
「……ありがとうございます」
マリーは心から安堵した。
「あの、それで、お願いなんですが。マルタを、この診療所に通わせてもらえませんか」
「通わせる?」
「はい。あの子から、お母さんの病状を詳しく聞きたいんです。どんな症状で、どれくらいの期間、伏せっているのか。それが分からないと、治療の方針が立てられません」
マリーの目には、もう医者の光が宿っていた。
「そして——できれば、お母さんを、この診療所に連れてきてほしいんです。私が直接診ます。シリル様のお力で、手配していただけませんか」
シリルはマリーをじっと見た。
「……お前は」
その声に、かすかな呆れと——感嘆が混じっていた。
「自分を刺した子供の母親を、治すというのか」
「はい」
マリーは迷いなく頷いた。
「あの子のお母さんが助かれば、あの子はもう二度と、あんなことをしなくて済む。それに——病気の人がいるなら、医者が治す。理由なんて、それだけで十分でしょう?」
シリルは言葉を失った。
また、この目だ。
あの夜、賊から庇って倒れた自分を、見返りもなく看病してくれた、あの時と同じ。打算も計算も、何もない。ただ、目の前の命を救いたい。それだけのまっすぐな瞳。
シリルの胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「……分かった。手配しよう」
シリルは視線を逸らしながら答えた。
「マルタを通わせ、頃合いを見て、母親も連れてくる。お前はそれまでに、しっかり体を治しておけ」
「ありがとうございます、シリル様。本当に」
マリーの笑顔を、まともに見られなかった。
シリルは、薬棚の整理に視線を逃がした。
その夜。
シリルは自分の屋敷の書斎で、一人、葡萄酒を傾けていた。
明日は、いよいよ貴族議会でドラクロワを断罪する日だった。証拠は揃った。準備は万端だ。あの男を、確実に失脚させる。
なのに、シリルの心は、別のことで占められていた。
マリーの、笑顔だった。
「……ばかばかしい」
シリルは自嘲気味に呟いた。
分かっていた。自分のこの感情の名前を。とっくに分かっていた。あの夜、看病されたときから。母以来の、見返りのない優しさに触れたときから。
恋だ。
認めたくなくて、ずっと蓋をしてきた。身分が違う。自分は宰相の息子で、彼女は平民。理性的な自分が、感情に振り回されるなど許せない。そんな理屈を何重にも重ねて、この想いを封じ込めてきた。
その上——アルフレードだ。
シリルは目を閉じた。
親友であり、主君であるアルフレードが、マリーに「もう離さない」と宣言したことは知っていた。あの孤高の王太子が、初めて心を開いた相手。それがマリーだった。
ならば、自分は身を引くべきだ。
臣下として。友として。アルフレードの想いを知りながら、同じ女を望むなど、許されることではない。理性はそう告げていた。身を引け、と。諦めろ、と。
でも。
シリルは、葡萄酒のグラスを見つめた。
「……今回ばかりは」
ぽつりと呟いた。
今まで自分はずっと、感情に蓋をしてきた。何を望んでも、何を感じても、合理と理性で押し殺してきた。それが賢い生き方だと信じてきた。
でも、それで——本当に、よかったのか。
自分の人生に、一つくらい、正直なものがあってもいいのではないか。
マリーを失いかけて、初めて思い知った。あの女がこの世から消えるかもしれないと知った夜、自分がどれほど取り乱したか。あんな感情は、生まれて初めてだった。
あれを、なかったことにはできない。
「……後悔したくない」
シリルは静かに、グラスを置いた。
身を引くのは簡単だ。理性で自分を納得させればいい。今まで、ずっとそうしてきたように。
でも、今回だけは。この想いだけは。
蓋を、したくなかった。
「アルフレードが相手でも、だ」
シリルの青灰色の瞳に、静かな決意が宿った。
もちろん、卑怯な真似はしない。友を裏切る気も、出し抜く気もない。ただ——自分の心に嘘をつくのは、やめる。マリーへの想いを、なかったことにはしない。
それが、合理主義者シリルが生まれて初めて下した、「非合理」な決断だった。自分の心に正直であること。たった一つの、わがまま。
「……明日だ」
シリルは立ち上がった。
まずは、ドラクロワを片付ける。マリーを傷つけた、あの男を。
恋の決着は、その後でゆっくりとつければいい。
翌日。貴族議会は、異様な熱気に包まれていた。
議題は、エルムフィールドの平民医師——マリーの「危険思想」についての糾弾。それを推し進めてきたのは、ドラクロワ侯爵だった。
その日も、ドラクロワは余裕綽々だった。
「諸君。私は、嘆かわしく思うのです」
彼はにこやかに、議場を見回した。
「一介の平民が、身分の秩序を乱す思想を広めている。王太子殿下を誑かし、民を扇動する。これは由々しき事態です。早急に、あの者を排除すべきでしょう」
議場の貴族たちがざわめいた。多くが、ドラクロワの言葉に頷いていた。彼の人望は厚かった。誰もが、この社交界の人気者を信頼していた。
そのとき。
「——排除すべきは、どちらでしょうな」
涼やかな声が、議場に響いた。
シリルだった。
彼はゆったりとした足取りで、議場の中央に歩み出た。
「シリル殿。それは、どういう意味かな」
ドラクロワがにこやかに首を傾げた。
「言葉の通りです、ドラクロワ侯爵」
シリルは薄く笑った。その微笑は、氷のように冷たかった。
「この議会は、一人の医師の思想を問う場、ということになっている。だがその前に——もっと問われるべきことが、あるのではないかと思いましてね」
シリルは、一枚の書類を掲げた。
「ヴァロー上級研究員、毒殺未遂事件。アルフレード殿下への、慢性的な毒の投与。そして——十数年前の、ある伯爵家の失脚」
ドラクロワの笑顔が、わずかに固まった。
「これらの事件には、共通点があります。すべて、同じ毒が使われていた」
シリルは淡々と続けた。
「『夜紛草』。それ自体は無毒だが、他の毒と掛け合わせることで、効き方を自在に操作できる、極めて希少な植物。これを使えば、急性の毒も、慢性の毒も、思いのままに作り分けられる」
議場が静まり返った。
「そして、この夜紛草が栽培できる土地は、国内にごくわずか。——そのうちの一つが」
シリルの青灰色の瞳が、まっすぐにドラクロワを射抜いた。
「ドラクロワ侯爵。貴方の、直轄領だ」
議場がどよめいた。
「な——何を、ばかなことを」
ドラクロワの声が、初めて揺らいだ。
「言いがかりだ。私の領地で、そのような植物が育っているなど知らぬ。第一、証拠が——」
「証拠なら、ここに」
シリルは、次々と書類を叩きつけた。
「貴方の領地で、夜紛草が栽培されていた記録。毒の製法と、夜紛草の配合の一致。そして——貴方の指示で動いていた、実行犯たちの証言」
一枚、また一枚。
ドラクロワの外面が、剥がされていく。
「貴方は十数年にわたり、この毒を使ってきた。邪魔な政敵を、毒で病に見せかけて葬ってきた。敵対する家を次々と没落させ、その地位と利権を奪い取ってきた。——社交界の人気者という、その仮面の下で」
ドラクロワの額に、汗が滲んだ。
「そして、つい先日は——一人の医師の暗殺のために、貧しい母を持つ、十歳の子供を、駒として使った」
シリルの声に、初めて、抑えきれない怒りが滲んだ。
「母の病を治す金欲しさに、藁にもすがる子供の弱みにつけ込み、人を刺させた。——よくも、そんな外道な真似ができたものだ」
議場の空気が、完全に変わっていた。
貴族たちがドラクロワを見る目に、疑念と嫌悪が宿り始めていた。今まで信じていた「人格者」の、おぞましい裏の顔が暴かれていく。
「ち、違う! でっち上げだ! 私は、そんな——」
「往生際が悪いですよ。侯爵」
そのとき。
議場の扉が開き、一人の男が入ってきた。
リオだった。
「俺が、証人だ」
リオはまっすぐに、ドラクロワを見据えた。
「俺の名は、リオネル。十数年前、貴方に陥れられて失脚した、元伯爵家の次男だ」
ドラクロワの顔が青ざめた。
「俺の父は、貴方の毒の陰謀を暴こうとした。だから貴方は、父に毒殺犯の汚名を着せて、家ごと潰した。——覚えているだろう、ドラクロワ侯爵」
リオの赤い瞳が燃えていた。
「俺は、毒の研究者になった。貴方を暴くために。そして今、すべての証拠が揃った。父の使われた毒も、夜紛草の配合だった。父は無実だ。毒殺などしていない。——貴方がすべて、仕組んだことだ」
リオは、自らが集めた証拠を議場に示した。父の冤罪を晴らす証拠を。
もはや、誰の目にも明らかだった。
ドラクロワ侯爵こそが、十数年にわたりこの国を毒で蝕んできた、真の黒幕であると。
「ば、ばかな……っ、私は、私は侯爵だぞ! こんな、平民や、失脚した家の人間の言葉を——」
「証拠が、すべてを語っています」
シリルが冷たく断じた。
「貴方の言葉に、もう誰も耳を貸さない。——見なさい。この議場の、貴族たちの目を」
ドラクロワが議場を見回した。
そこには、もう、彼を信じる者は一人もいなかった。あるのは、軽蔑と、怒りと、裏切られたという冷たい視線ばかり。
彼が長年かけて築き上げた「人望」という名の仮面は——完全に、剥がれ落ちていた。
「ドラクロワ侯爵」
議長が厳かに宣告した。
「貴殿の爵位、領地、ならびにすべての特権を剥奪する。追って、正式な裁きを受けてもらう。——連れていけ」
衛兵が、ドラクロワを取り押さえた。
「は、放せ! 私を誰だと——っ、こんなことが許されると——っ!」
往生際の悪い悲鳴を上げながら、ドラクロワは議場から引きずり出されていった。
社交界の人気者の、無様な最期だった。
その背を見送りながら、リオは静かに拳を握りしめた。
「……親父。聞こえたか」
その声は震えていた。
「あんたの無実は、証明された。十数年、かかったけど。——やっと、晴らせたよ」
リオの赤い瞳に、光るものがあった。
長い、長い、復讐の旅が。父の冤罪を晴らすという、その悲願が。今、ようやく終わったのだった。
シリルは、そんなリオの肩に、そっと手を置いた。
「よくやった、リオネル。お前の父も報われただろう」
「……ああ。あんたのおかげだ、シリル。礼を言う」
二人の、かつて反発し合った男たちは、共に戦い抜いた戦友として、静かに頷き合った。
その日の夕方。
シリルとリオは、エルムフィールドの診療所を訪れた。
マリーは、ベッドに半身を起こして、二人を迎えた。
「終わったぞ、マリー」
シリルが静かに告げた。
「ドラクロワは失脚した。爵位も、領地も、すべて剥奪された。もう二度と、お前を——誰も、傷つけられない」
マリーは、ほっと息をついた。
「……よかった。本当に、よかった」
「それと」
リオが口を開いた。その顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「親父の冤罪も、晴れた。あいつの罪が暴かれて、親父の無実が証明されたんだ」
「リオ……!」
マリーの目に、涙が滲んだ。
「よかった……! 本当に、本当に、よかったですね、リオ……!」
「ああ。お前のおかげでもある、マリー」
リオは優しく笑った。
「お前がこの世界で、医術を広めてくれたから。命に貴賤はないって、教えてくれたから。俺は、復讐だけの人間にならずに済んだ。——ありがとうな」
マリーは首を振った。
「私は、何も。戦ったのは、皆さんです」
マリーは、シリルとリオを見た。
そして、その後ろにいる、たくさんの人たちのことを思った。テオも、ガウェインも、アルフレードも。皆がそれぞれの場所で、自分のために戦ってくれた。この診療所も、この町も、自分自身も——皆が、守ってくれた。
「……ありがとうございます。皆さんに守られて、私は、ここにいるんですね」
「当然のことをしたまでだ」
シリルはそっけなく言った。
でも、その横顔は、どこか穏やかだった。
窓の外で、夕日が優しく沈んでいく。
長い戦いが、終わった。毒の陰謀は暴かれ、黒幕は裁かれた。リオの父の無念も、晴れた。
残るは——マルタの母の、治療。
そして、五人の男たちの、それぞれの想いの行方だけだった。




