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9月1日の二学期始業式に、棚端翔は広い校庭にある朝礼台に立って1200人近くの児童たちに向けて赴任してきた挨拶をした。もちろん何を言うかも考えてきていなかったし、特段緊張もしなかった。言ったこともすぐに忘れてしまった。軽く頭を下げたことだけは覚えている。
台を降りたとき白目が黄ばんだ校長の鋭い眼光は感じたが、視線は合わせず所定の場所に戻った。
職員室に戻ると、黒い表紙の出席簿を手にして教室に向かった。これまでいた学校と比べて特に古いということもない普通の鉄筋の校舎だった。通り過ぎる視界に掲示物が多い。教室に入ると児童35名が着席しているかと思いきや、ポツポツ席に空きがあった。立っているものはいない。どういうことか?
「先生、みんな柊磨を捕まえに行きました」
棚端の心中の疑問に答えた男子児童が1人発言した。捕まえに?
「どういうこと?」
棚端の実際の問いには誰も答えず1人が叫んだ。
「あっ、来た来た」
その声に他の児童が窓に走り寄った。それにつられて棚端も窓の外を見た。校庭の中頃に子供の塊が見えた。教室内の児童たちはわあわあ騒いでいる。見ていると徐々にその塊は近づいてきて、数人で1人を引きずってきていることが目視出来た。
「え?何やってんだ?!」
棚端が声を出した時には仰向けに4人の児童に両手両足を持たれて引きずられている柊磨のいかにもあほですと言わんばかりのヘラヘラした顔が確認できた。
この事態をどう取り扱ってどう収めるのかがわからないまま5人が教室の窓の外に到着した。
「柊磨重いんだよ」
「やになるよ」
と数人が口々にしながらそこに脱ぎ捨ててあった上履きを履いて外履き用の靴を手に、外と通じているドアを開けて教室に入って来た。
棚端は入れ替わりに教室から校庭側に出た。柊磨がヘラヘラ笑いながら座っていた。
「たあーし」
先日と同じセリフを吐いた。
「お前何やってた?」
「柊磨また農協に行こうとしてたんだよ」
棚端の問いに別の子が答えた。
「農協?」
棚端には事態が把握できない。
「柊磨は農協に停まってる車のドアを開けるのが好きなんだよ」
近くにいた女の子が教えてくれた。教えてもらってもよく事情は飲み込めなかった。
「柊磨、ちょっと立ってみろ」
棚端が柊磨を立たせて着ていた体育着の背中を見ると案の定泥だらけだ。
どうすればいい?
棚端は案が思いつかず、とりあえずコンクリートで固められた平地の外に柊磨の背中を向けてパッパッと服をはたいて可能な限り泥を落とした。
「へへへ」
柊磨は馬鹿な顔で笑った。
「ふざけんなよ」
棚端は真顔で柊磨を睨んだ。すると、柊磨はヘラヘラをやめて言った。
「先生、トイレいってもいいっか?」
はてなと一瞬思ったが、いいですか?と聞いていると推測できた。
「いいよ」
棚端は柊磨に許可を出した。
「へへへ」
またもや左の口の端を下に落としたあほな顔で笑ったかと思ったら、何やら嫌な音がした。
「あーっ、柊磨また漏らした」
棚端には理解したくない言葉だ。澄ちゃんも割とよくお漏らししていたな、などと思い出したくもない過去を振り返りながら棚端は雑巾を探しに教室に入った。
「たあーし!」
背中越しに柊磨の汚い声が聞こえた。教師用の机の下に掛けてあった雑巾を手にして、やってらんねー、と棚端は心底思った。




