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小さな椅子  作者: 珉砥
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  教育委員会から呼び出しがあったのは夏休みに入る直前だった。同僚から、新しい赴任先が決まったんだね、と言われて、ああ、なるほどと棚端翔は合点がいった。要するに休んでいた女性教諭の産休が明けて棚端の代わりにまた担任におさまるということだ。

  言われるがまま教育委員会に出向きドアを開けて挨拶すると、偉そうなおっさんが、

  「君の新しい赴任先は境土町の立宮小学校だ。骨を埋めるつもりで頑張って欲しい」

  と言った。

  「境土町はどの辺ですか?」

  棚端は不安になって聞いた。

  「うーん。そうだな、ここから、30kmくらい北かな」

  おっさんが偉そうに言った。

  「えっ。ここから通えますか?」

  「いやあ、無理だね。電車が通ってないからね。だから、骨を埋める覚悟が必要と言っただろ」

  棚端は理不尽さに憤りを感じた。

  「でも、せっかくいいアパート見つけたんで、ここから通えるところがいいんですけど」

  棚端は稚拙とは思ったが正直に言った。

  「君さあ、そんなアパートとか言ってる場合じゃないよ。一生がかかってるんだよ。向こうには教員住宅もあるから、頑張りなさいよ」

  棚端にはこの理不尽で偉そうなおっさんが耐えられないくらいムカついてきた。

  「ちょっと考えます」

  そう言って部屋を出た。既に辞めることは棚端の中では確定していた。

  この話を聞いた同僚は同情の意を表した。

  「何かお金は貯まるらしいよ」

  「一説には使うところがないとか」

  「実際立宮小に遊びに行った人が机の引き出しを開けてザクザクお札が入ってるのを見せられたらしいよ」

  そんな話を聞いてますます行く気はなくなり、辞める決意が固まった。

  棚端にとって最も悔しかったことはアパートを出なければならないことだった。大学生の時に暮らしていた最悪のアパートに比べると、今住んでいる環境は素晴らしかった。特に、何が良いということもないが、以前が酷すぎたのだ。

  思い返すと、大学2年の夏休み明けからボロアパートに住み始めたので、都合2年半住んだ計算になる。

  通学に2時間弱要していたため、後輩に「大学の近くに住むと楽ですよ」と勧められて引越しを決意した。

  アパートを探している時に同じクラスの知人に、自分のアパートに空き部屋があるはずだから聞いてみると言われ、結果を待っているとそいつは不思議そうな顔をして伝えてきた。

  「おれの住んでる部屋の上が空いてるらしいんだけど、何か変なんだよな。いっつも夜中の2時頃帰ってきたような音が聞こえるから、てっきり人が住んでると思ってたんだけどな」

  と不気味なことを言われた。

  入居してみると、角部屋なので隣室は1つかないのだが、そこから犬の情けない吠え声が夜な夜な聞こえた。6畳一間で犬を飼ってるのかと思いきや、酔っ払いとその妻らしき女も居て、どうやらその子供たちも住んでいる様子だった。押し入れをベッド代わりにしているのか、寝言や寝息がすぐ近くで聞こえた。夜中に友人と飲んでいて少しでも声を出すと

  「うるせえ、ばかやろう」

  と部屋越しに聞こえてきた。

  風呂は無いが、トイレはついていた。しかも汲み取り式。しかも2階だ。下のそのアパートを紹介してくれた奴と同じ時間にトイレに入ると小声で会話ができた。そして何より強烈な臭気で頭がどうにかなりそうだった。人間の住むところとしては割と不快な部屋だったので、就職が決まって今の新しいアパートに入居した時はパラダイスかと思うほど棚端は幸福感に包まれた。

  だから棚端は教育委員会からの辞令には納得がいかなかった。小学校教諭は県で採用のため県内の移動は当然で、文句を言える立場ではない。棚端もその事は十分理解している。つまりそのような立場に身を置いた自分が許せなかったのだ。公務員になどなるものではなかった。ひいては会社員も無理だ。元来上からの命令でも納得のいかないことは従わない性質である。そういった根本的な自分の本質が見えたことは何より幸いだと棚端は感じた。

  もう働かない。と心に決めた。まあ、働かないわけにはいかないだろうから、働いたとしても気に入らなければすぐに辞める。そんな不遜な考えを肯定できるほどに棚端は社会不適応な思考をしていた。

  棚端の思考に生活の安定や会社内での出世、他人との比較における経済的優位性の保持などの志向は皆無であった。一般的に公務員になる理由の大きな要因は生活の安定であろう。それがこの男には欠如していた。ドラマを見て軽い気持ちで教員をめざして大学も決めた。教師になって児童、生徒の人生の指針になりたいなどという野望は微塵もなかった。何となく、やれるかな?と思った程度の動機であり、元来社会で働く気持ちがなかった。金を稼ぎたい、良い暮らしがしたい、といった願望もなかった。ダラダラひがな一日特に何もせずに生きていきたいという、消極的とも積極的とも判断のつかない願望があったのみである。

  辞めることは決定したが、教育委員会に電話して辞めると伝えたところ、本年度末まではやれ、という脅しとも取れる言い方で押し切られたため、棚端はあと半年は境土町の立宮小学校で教諭として働くこととなった。



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