第七話:巡りゆくもの
乾いた音が、一定の間隔で朝の静けさを割っていた。
ゼノスは聞き慣れない音と共に目を覚ました。何の音かは分からなかったが、不思議と耳には心地よかった。
寝台を離れ、扉を開けて外へ出た。
振り返ると、扉には二羽の鷹が彫られていた。ゼノスは羽根の凹凸を確かめるように指先で撫で、それから扉を閉じた。
外ではスミンが薪を割っていた。
振り下ろされた斧が薪へ食い込み、木の裂ける音が朝の空気へ響いた。
「スミン」
ゼノスは短く彼の名を呼んだ。
スミンは薪割りを中断し、額の汗を拭って振り返った。
傍らには、木目に沿って割られた薪が積まれていた。
「ああ、起きたんだな。おはよう」
「おはよう。扉の鷹は君が彫ったのか?」
「そうだ。暇があるときに少しずつ彫り進めたんだ」
「相変わらず上手いな」
「木彫りも生活の足しにしてるからな」
スミンは斧を家の壁へ立てかけると、扉を開いた。
「そろそろ飯にしようぜ」
ゼノスを振り返り、扉を押さえたまま家の中へ入るよう顎で示した。
室内へ戻ると、薫衣草の香りがふわりと二人を出迎えた。
スミンは棚からパンを取り出し、バターを厚く塗って小さな石窯へ入れた。ほどなく、焼けたパンの香りが薫衣草の中へ混じった。
「ゼノス、手伝ってくれるか?」
「いいだろう」
スミンが燻製肉を切り分ける傍らで、ゼノスは卵を二つ割り、フライパンへ落とした。
油が小さく弾け、白身が縁からゆっくりと固まっていく。
卵が焼き上がるのを待つ間、ゼノスは林檎を手に取り、まな板の上で均等に切り揃えた。
やがて料理が出来上がると、二人はそれぞれの皿を卓上へ運び、向かい合って席に着いた。
「公務の方はどうなんだ?」
「もうすぐ、ゼニアが生まれる」
「ゼニア?」
「数か月前に神殿を訪れた霊媒師の子だ」
スミンはパンをちぎる手を止めた。
「……公務の話を聞いて、真っ先に一つの命の話をするとはな」
「何かおかしいか?」
「いや。続けてくれ」
ゼノスは食事の手を止めて、どこから話すべきか思案した。
その様子を見たスミンは、フォークを皿の脇へ置いた。
「数か月前、身重の霊媒師が神殿を訪れた。その女と胎児の未来を辿ったが――異変があった」
「へえ……それは珍しいな」
「君はこういう事態に直面したことがあるのか?」
「昔にも似たことはあったよ。数は多くないがな。……まさか忘れたのか?」
ゼノスは首を振ったが、生誕や婚姻、葬送にまつわる儀式は、スミンへ任せきりだったことを思い出した。
「いや……今回は少し違ったんだ。母親の未来は死へ閉ざされ、胎児には辿るべき未来そのものがなかった」
「それは……変だな。オレはお前みたいに未来視はできないが、全く感じ取れない訳じゃない」
「ああ、知っているよ。それに、水が胎内の子を母親に連なるものとして認識していなかった」
スミンは眉根を寄せ、しばらく黙り込んだ。
壁に掛けられた丸い木製時計が、静かに時を刻んでいた。
「……これは複雑だな。お前、大変じゃなかったか?」
「どうだろうな。大変だと思ったことはないよ」
スミンは頬杖をつき、困ったように口元を緩めた。
「星庭に異常があった」
「星庭?……あの古い境界域か?」
「……ああ。そこで異常があった」
「異常の原因は分かったのか?」
「完全には分からない。だが、星庭の異常と母子の運命が連動していることだけは確かだった」
ゼノスは次の言葉を口にする前に、わずかな間を置いた。
星庭で出会った少女の姿が、脳裏に浮かぶ。
神官たちには、その存在すら伏せていた。
「ほかにも、何かあったのか?」
スミンは急かさず、ゼノスの言葉を待った。
「星庭には少女がいた」
「へえ、女の子がいたのか」
「名前はイルという」
ゼノスは再び食事に手をつけた。
スミンもそれに倣うように、パンをちぎった。
ゼノスが燻製肉を齧ると、肉汁が口の中に広がった。焼けたパンとバターの柔らかな香りが鼻先を掠めた。
「イルはどんな子なんだ?」
「……思ったことを、そのまま口にする子だ」
スミンは興味深そうに金色の目を細めた。
「それで、お前はその子と何をしている?」
「花に水を返している」
「……それだけか?」
ゼノスは少し考えた。
「花冠も作った」
「お前が?」
スミンは口元へ運びかけていたパンを止めた。
「なるほどな」
「何がだ?」
「いいや、何でもない」
木製時計が澄んだ音で時を告げた。
スミンはその音に顔を上げ、椅子から立ち上がった。
「――ああ、まずい。そろそろ出る時間だったよな」
「まだ少しゆっくりしていても平気だが、出ようか」
スミンは食べかけのパンを口に咥え、皿に残っていた林檎を一切れ摘まんだ。
ゼノスも最後の一切れを口へ運んでから、椅子の背に掛けていた外套へ腕を通した。
寒空の淵は曙に染まっていた。
淡藤の色が空へほどけ、白藍の雲へと融けていった。
鷹の彫られた扉が背後で閉じた。二人が歩き出すと、霜柱が小さく砕けた。
土の道は街へと続き、その両脇には冬枯れの草地が広がっていた。小鳥が草地から飛び立った。
青霞の向こうには世界樹が聳え、その麓に神殿が佇んでいた。
スミンは朝焼けに浮かぶ神殿を見やった。
「久しぶりに戻るな」
「そうだな」
二人が歩く先に、街の城門が見えてきた。
白い石を積み上げた堅牢な城壁は、朝日を受けて仄かに光を返していた。
門扉は堀の上へ倒され、対岸へ渡る一筋の橋となっていた。
二人が水橋を渡ると、足元の厚板が低く軋んだ。
城門を抜けると、子供たちが通りを駆け回っていた。
家々の前では婦人たちが枯れ葉や埃を掃き集め、軒先には昨夜の花飾りがまだ残っていた。
静かな朝の街に鐘の音が響いた。
通りを駆けていた子供たちは足を止め、年老いた者たちは戸口へ姿を見せた。皆が胸元で祈りの印を結んだ。
鐘の余韻が消えるや、婦人たちの話し声が通りを行き交った。
祈りを終えた人々のうち、何人かは足早に神殿へ向かっていった。スミンはゼノスを肘でつついた。
「お前に会いに行くらしいぞ」
「ただの礼拝だろう。茶化すな」
二人は緩やかな足取りで神殿に向かった。
すれ違う人々は皆、身なりを整えていた。近くを通るたび、わずかに石鹸が香った。
頬を撫でる風は柔らかかった。
神殿へ近づくにつれ、その風には少しずつ温もりが宿っていった。
青葉を湛えた枝が神殿の上空まで広がっており、石畳には木漏れ日が揺れていた。
神殿へ続く石畳には、蔦の絡む白いアーチが幾重にも連なっていた。
蔦の葉の隙間から陽光が差し込み、二人の背を温めた。
最後のアーチを抜けると、神官が二人を出迎えた。
「ゼノス様、おかえりなさいませ」
「ああ、今戻った」
「恐れながら、そちらの方は……」
スミンは一歩前に出て、神官に手を差し出した。
「イェ・ス=ミンだ。よろしく」
「スミン様、よろしくお願いいたします」
神官は差し出された手を握り返すと、一礼した。
「ゼノス様、まもなく朝の謁見のお時間です」
「……だってさ、ゼノス。オレは適当に見て回るよ」
「俺は謁見の間にいるから、用があればそこに来てくれ」
「分かった。じゃあ、またな」
スミンはゼノスに手を振ると、渡り廊下へ歩いていった。
ゼノスと神官はスミンの背へ一度目を向けると、謁見の間へ歩き出した。
「ゼノス様、先程のスミン様はもしや……」
「ああ。俺の旧い友人だ」
神官はわずかに驚きの表情を見せたが、深く頷き、それ以上は何も口にしなかった。
* * *
昼食を済ませたゼノスは、スミンと共に内廷の小謁見室へ足を運んだ。
部屋には、赤子を抱いた霊媒師の女が待っていた。
女はゼノスに気づくと立ち上がろうとしたが、彼は片手を上げてそれを制した。女は座り直し、深々と頭を下げた。
「ゼノス様、なんと御礼を申し上げたらいいか……」
「顔を上げろ」
スミンは女の隣に座ると、赤子の顔を覗き込んだ。
「へえ、この子がゼニアか」
女は困惑したようにゼノスを見た。
「俺の友人、スミンだ」
スミンは柔らかな笑みを浮かべて、赤子へ人差し指を差し出した。
小さな手が、その指を握った。
スミンは目を細め、赤子の星巡りを詠んだ。
「……ちゃんと廻ってる。木星が随分いい位置にあるな。学ぶ機会に恵まれるだろう」
「やはり、そうなのですね……本当に良かった」
女は腕の中の赤子へ目を落とした。睫毛の際から、涙が一筋零れた。
赤子はスミンの指を握ったままだった。
「……確かに異常はないな。運命も正しく巡っている」
ゼノスの言葉を聞くと、女はようやく肩の力を抜いた。
「もう案ずる必要はない。ほかに尋ねたいことがなければ、今日は帰って休め」
女は立ち上がると、お礼を述べて部屋を出た。
扉が閉まると、スミンは先ほどまで赤子に握られていた指へ目を落とした。
「……本当に普通の子だったな」
「ああ。無事に生まれたからだろう」
「だとしても、妙な話だ。生まれる前だけ運命から外れていたことになる」
「そうだな」
「……イルって子は、このことを知ってるのか?」
ゼノスはイルとの出会いを思い出し、首を横に振った。
「いいや。知らなかったよ」
「そっか」
スミンが立ち上がると同時に、扉が三度、控えめに鳴った。
「ゼノス様、次の方がお見えです」
「じゃ、オレは行くよ。またな、ゼノス」
「ああ、また」
スミンは神殿を後にし、ゼノスは公務へと戻った。
次の謁見者が入室し、ゼノスは静かに耳を傾けた。
謁見が続く中、先ほどのスミンの言葉がふと脳裏を過った。
イルは、ゼニアが無事に生まれたことをまだ知らない。
次に星庭を訪れたときには、伝えておこう。




