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幽祇の暁  作者: 露木雪丸
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第八話:世界を啓く

 ルカは孤児院から頼まれた本を借りるため、図書館へ足を踏み入れた。

 いつもなら静かな館内が、今日はどこか慌ただしい。

 見上げると、二階の回廊が吹き抜けをぐるりと巡っていた。高窓から差し込む朝日が、書架の上へ細長く落ちた。

 長机にはいくつもの本が積まれ、神官たちが一冊ずつ手に取っては仕分けていた。

 時折、頁を繰る音が静かな館内に響いた。

 頼まれた本を探すより先に、ルカは長机へ歩み寄った。



「おはようございます。先生たち、何してるんだ?」

「ルカくん、おはよう。私たちは今、本の整理をしているんだ」

「へえ!楽しそうだな」



 神官たちは顔を見合わせ、苦笑した。



「大変ではあるが、楽しいよ」

「なら、俺もやりたい!」

「はは!それは助かるよ。じゃあ、あそこの図鑑を仕分けてくれるかい?」



 神官は隣の机を手で示した。

 ルカは椅子を引いて座ると、卓上に積まれた図鑑を手に取った。



「この一覧を見てごらん。今持ってる本と同じ題があるだろう?」

「あ、本当だ」

「一覧にある方が新しい本だ。古いものと分けてくれるかい?」

「分かった!」



 ルカは一覧の文字と表紙を見比べ、本を長机の端へ置いた。

 その様子を見た神官は頷いて、自分の作業へと戻った。



「先生、これ何時までに終わらせればいいんだ?」

「九時には片づけたいな。……そういえば、ルカくんは本を借りに来たんじゃなかったかい?」

「ああ。でもまだ時間あるだろ?少しくらい読んでも平気だよ」



 ルカは樹木の図鑑を手に取り、頁を捲った。

 幽檀の項目が目に留まった。冬にも葉を落とさない樹木だと記されていた。

 ルカは目を瞬かせた。



「先生、ゼノス様って幽檀が好きなのか?」

「うーん、どうだろうなぁ……私たちは気にしたこともなかったが、きっとそうなのかもしれないね」

「ゼノス様の生誕祭には、いつもこれが飾られてるから気になったんだ」



 ルカは図鑑を閉じて、次の本へ手を伸ばした。虫や蝶が描かれた本だった。

 本を開き、頁を何度か捲る。やがてルカは、それを静かに端へ置いた。

 そうして何冊かに目を通す頃には、机の端に仕分けた本が小さな山を作っていた。



「先生、古い本が何冊かあったけどそれはどうするんだ?」

「それは市井(しせい)の人たち――神殿の外で暮らす人々に分け与える予定だよ」

「確かにまだ読めるもんな」



 神官はルカが仕分けた本を受け取り、荷台へ載せた。



「あ、そうだ。俺、本を借りに来たんだった」

「ようやく思い出したのかい?」

「忘れてたわけじゃないって」



 ルカは椅子から立ち上がり、書架へ向かおうとした。

 そのとき、入口の方から声が聞こえた。



「ゼノス様、おはようございます」



 聞き慣れた名に、ルカの足が止まった。

 すぐさま踵を返し、入口へ駆けていく。


 朝の光が差し込む扉の傍らに、ゼノスが立っていた。

 銀髪に淡い光を受けながら、吹き抜けを囲む書架へ目を向けていた。



「ゼノス様!」

「おはよう、ルカ」

「おはようございます」



 ゼノスは書架から一冊の本を抜き取った。

 ルカは首を傾げ、ゼノスを見た。



「君はどうしてここに?」

「お使いを頼まれたんだ」

「そうか。もう終わったのか?」



 ルカはきまり悪そうに頭を掻き、ゼノスの手元の本を覗き込んだ。

 彼が近寄ると、ゼノスは目線を合わせた。



「なあ、ゼノス様」

「どうした?」

「本を探して何するんだ?」



 ゼノスは目を伏せ、顎に指先を添えた。



「……古い本はいずれここを離れる。今のうちに目を通しておきたくなったんだ」

「ふーん?……難しいことはよく分からないな」



 ルカは神衣(しんい)の裾を指先でもて遊んだ。

 ゼノスはルカの頭をひと撫ですると、奥の書架へ向かった。

 ルカは神衣の裾から指を離し、その背を追った。



「お使いはどうするんだ?」

「ゼノス様に会ったんだから後でいいよ」



 ゼノスは足を止め、ルカの旋毛(つむじ)へ目を落とした。



「なら、手伝おう」

「やった!」

「どの本を探しているんだ?」

「えっとな……」



 ルカはポケットから小さな紙切れを取り出した。そこには細い筆致で文字が並んでいた。



「月の女神様についての本と、極西(きょくせい)の国についての本と……」



 ゼノスはルカの手元のメモを確かめると、隣の書架へ移った。背表紙を辿り、月の女神を扱った童話を数冊抜き取った。

 ルカを連れ、メモの順に書架を巡った。

 極西の国を扱う郷土史の一角で足を止め、金細工の施された背表紙へ目を向けた。



「この本で合ってるか?」

「……合ってる。ゼノス様、取ってくれないか?」



 ゼノスは背表紙に指をかけ、厚い本をルカに手渡した。



「ゼノス様、神殿で働くのって難しいのか?」

「急だな」

「俺さ、前からここにいたいなって。それでどうしたらいいか考えたんだ」



 ゼノスは長机に本を置き、椅子を引いた。ルカがそこへ座り、ゼノスも対面の席に腰を下ろした。



「神殿で働くには勉学に励まなければならない。……君はできるか?」

「分からないけど、嫌いじゃないと思う」



 ゼノスは静かにルカを見据えた。銀髪が光に透けた。



「君は人々の模範になれるか?」

「模範?」

「誰かに見習われても恥じない者でいられるか、ということだ。すぐに答えなくていい。考えておくといい」

「見習われても恥じない者……」



 ゼノスは本を片腕に抱え直して立ち上がった。空いた手を差し出すと、ルカはその掌を握った。

 ゼノスはルカと共に司書官の元へ歩き出した。

 ルカは本を受付台の上に載せて、ゼノスの方へ振り返った。



「ゼノス様も借りるのか?」

「俺は後で借りるよ」



 司書官はルカの名前を帳簿に書き込んだ。



「返却日は一週間後です。忘れずにね」



 ルカは本を受け取り、腕の中に抱えた。



「じゃあ、俺は家に帰るよ」

「ああ、また。気をつけてくれ」

「ゼノス様、またな!」



 ルカは大きく手を振った。

 ゼノスはルカの背を見送ると、司書官へ向き直った。

 ゼノスは植物図鑑と紀行書を受付台の上へ置いた。



「これを譲り受けたいが、問題はないか」

「この二冊は……はい、問題ありません」



 司書官は二冊の古書をゼノスへ手渡した。

 ゼノスはそれらを腕に抱え、図書館を後にした。

 朝日の差す廊下に、彼の影が細長く伸びていった。




* * *




 ゼノスが星庭を訪れると、霞の向こうに大きな影が浮かんでいた。

 霞の中を進むにつれ、長く伸びた枝が姿を現した。生い茂る葉の下には、太い幹が静かに根を下ろしていた。

 木陰にイルが佇んでいた。



「イル」



 彼女は振り返り、微笑んだ。



「ゼノス、また会えたね」



 イルはゼノスの手を取り、樹の根元まで導いた。二人は並んで腰を下ろした。



「以前、一緒に水を返したことを覚えているか?」

「うん、覚えてるよ。あの人と、お腹の子のためにしたんだよね」

「ああ。あの子が無事に生まれた」

「本当?」

「ああ。母親も無事だ。運命も正しく巡っていたよ」

「良かった……」



 イルは安堵したように微笑んだ。



「名前はなんていうの?」

「ゼニアだ。生まれる前から、そう呼ばれていた」

「ゼニア……いい名前だね」



 風が枝葉を揺らし、二人の足元で木漏れ日が淡く移ろった。



「ゼニアも、ここじゃない場所にいるんだよね」

「ああ」

「……不思議だね。私の知らない場所にも、たくさんの人がいるんだ」

「行ってみたいか?」

「分からない。でも、どんなところなのかは知りたい」

「なら、俺と一緒に来るか?」



 イルは緩く首を振り、ゼノスの手を握った。



「ううん。離れられないの。……どうしてかは忘れたけど、ここからは出られないんだ」

「……そうか」



 傍らには、現世から持ち込んだ二冊の本がそのまま残っていた。


「これは?」

「君に必要なものを持ってきた」

「必要なもの……」



 イルは植物図鑑を開くと、頁を捲った。そこには季節の花々が描かれていた。



「どうして私に本をくれたの?」

「……どうしてだろうな。ただ、君に見せたいと思ったんだ」

「そっか。ありがとう、ゼノス」



 イルは図鑑に目を落とし、ゆっくりと読み進めた。

 本の中では春、夏、秋と時が流れていった。姫彼岸花(ひめひがんばな)の頁で手を止め、イルはゼノスを見つめた。



「ネリネって花、綺麗だね」

「別名をダイヤモンドリリーという」



 ゼノスはイルの手元を覗き、図鑑の説明文を指先でなぞった。

 花言葉の欄には、「幸せな思い出」「また会う日を楽しみに」と記されていた。

 イルは図鑑を閉じると、両手に淡い水色の姫彼岸花を創り出した。



「……どうかな?似てる?」

「そっくりだよ」



 ゼノゼノスはイルの手から花を一輪取り、耳元の髪をそっと払って挿した。

 少し離れて、その姿を確かめた。



「似合ってる」

「ありがとう、ゼノス」



 イルは目を瞬かせ、やがて微笑んだ。ゼノスもわずかに口元を緩めた。

 ひとすじの風が過ぎ、姫彼岸花の花弁を震わせた。



「ねえ、ゼノス」

「どうした?」

「さっき、ダイヤモンドリリーって言ってたけど、ダイヤモンドって何?」



 イルが小首を傾げると、栗色の髪が頬へさらりと落ちた。

 ゼノスは頬に落ちた髪をそっと払った。



「ダイヤモンドは鉱物の一種だ。今度、鉱物図鑑も持ってくるよ」

「ありがとう。楽しみにしてる」

「他に読みたいものはあるか?」



 イルはわずかに唇を開いて、閉じた。



「分からない、かも……でも、君が持ってきてくれるものは何でも読みたい」

「分かった。難しすぎないものを選ぼう」



 イルは頷くと、紀行書を手に取った。頁には、見知らぬ街の挿絵が描かれていた。



「これはどんな本なのかな?」

「著者の日記のようなものだ。どこに行って、何を見たか……そんなことが書かれている」



 ゼノスは頁を捲った。次の頁には色硝子(いろがらす)の工房の絵と、その隣に文章が綴られていた。



「夕刻になると、工房に並ぶ色硝子は西日を透かし、石畳へ宝石のような光を落とした――」



 イルのたどたどしい声が、木陰に柔らかくほどけた。



「うーん、読みにくい……ゼノス、読んで」



 ゼノスは紀行書を手に取り、彼女の肩を抱き寄せた。

 大樹に凭れると、低く明瞭な声で続きを読み上げた。



「赤や青の光は行き交う人々の足元に重なり、日が沈むまで街路を淡く染めていた。なかでも細かな文様を刻んだ器は、光を受けるたび、その縁に小さな星を宿した」

「このコップのことかな?……何色なんだろう」



 ゼノスはイルの髪を撫で、頁を進めた。

 彼の声が緑陰(りょくいん)の中で静かに響いた。少女はゼノスの肩に頭を預け、その朗読に聞き入った。

 二人の足元には淡い空色のネリネが咲いていた。

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