第五話:望みの行方
祭儀を終えた大聖堂は静寂に包まれていた。
人の気配が消えたあとにも、甘く鋭い香りだけが残っていた。
若い神官は祭具を片づけながら、扉の向こうに足音を聞いた。
重い扉が開かれると、ゼノスが見えた。
神官は慌てて一礼し、祭具を卓上に置いた。
ゼノスは緩やかな足取りで大聖堂を巡った。
やがて、ゼノスは若い神官の前で足を止めた。
「ゼノス様、おはようございます。本日から待降節ですが、こちらにはどのようなご用件で……」
神官は慎重に言葉を選んだ。
ゼノスはステンドグラスを見上げながら答えた。
色づいた光が足元へ落ちた。
「用件はない。少し、ここを見ておきたかった」
「左様でございますか。では、この後のご予定はお決まりでしょうか?」
神官は姿勢を正したまま、ゼノスの返答を待った。
「いや……予定はない」
神官は一瞬ためらった。
「……では、孤児院の子供たちの様子を見てみてはいかがでしょうか?」
神官は言い終えると、ゼノスを窺った。
ゼノスは短く頷いた。
早朝の大聖堂に白い息が二つ昇った。
* * *
孤児院では子供たちの声が朝の廊下に響いていた。
廊下にいた子供たちはゼノスの手を引き、庭へ連れ出した。
「ゼノス様だ!一緒にかくれ鬼をしよう!」
外で遊んでいた子供たちは、一斉に彼の元へ駆け寄った。
「かくれ鬼か、いいよ。一緒にやろう」
「じゃあ、ゼノス様が鬼だ!見つかったら石像まで逃げるんだぞ、ゼノス様に捕まったら負けだからな!」
最年長の少年、ルカがそう言うと、子供たちは勢いよく走り出した。木陰や遊具の下、それぞれのとっておきの場所へ散っていった。
ゼノスは目を閉じ、百までゆっくりと数え始めた。
「――九十九、百」
ゼノスが庭へ足を踏み入れると、枯れ芝がかすかに鳴った。
乾いた響きにまぎれて、子供たちが息を潜める気配がした。
大木の陰から気配がしたが、ゼノスはそちらへ向かわず、木製遊具の方へ歩き出した。
木馬や綱遊びの脇を通り、ゼノスは滑り台の下を覗き込んだ。
「見つけた」
少年が二人、滑り台の下に身を寄せていた。
「見つかっちゃった!逃げないと!」
「行くぞ!」
二人は笑いながら駆け出した。
ゼノスは長衣の裾を翻して追い、たちまち二人との距離を縮めた。
「うわあ!ゼノス様、速いよ!」
「本当だ!もっと逃げないと!」
石像まであと少しというところで、ゼノスはわずかに歩幅を緩めた。
一人の背中にゼノスの手が届いた。
「わ!捕まっちゃった……」
「捕まえたよ。最初に捕まったのは君だな」
「また遊んでくれる?」
「ああ、もちろん」
ゼノスは落ち込んだ少年の背中を撫でて、抱き上げた。
少年の目線はたちまち石像の肩ほどまで高くなり、沈んでいた顔に笑みが戻った。
ゼノスは石像の傍らまで歩くと、少年を静かに地面へ下ろした。
「ゼノス様、すごい!楽しかったよ、ありがとう!」
少年はお礼を言うと、お辞儀をした。勢いよく頭を下げ、少しよろけた。
ゼノスは少年を支えると、屈んで内緒話をするように声を潜めた。
「次はどこを探したらいいと思う?」
「うーん、大きな木があるだろ?あそことかはどうかな?」
「ありがとう。後で皆とおやつを食べよう」
「うん!約束だよ」
少年はゼノスに手を振って見送った。
ゼノスは大木から少し逸れ、生垣の方へ向かった。
そこには白と淡桃の山茶花が入り交じって咲いていた。
ゼノスは白い一輪の前で足を止めた。
月の下で見れば、この白はさらに澄むのだろうと、彼は思った。
そのとき、生垣の奥で枝葉がかすかに鳴った。
ゼノスが影へ手を伸ばすと、三人の子供たちが慌てて飛び出した。
「わ、捕まっちゃう!逃げろ!」
「ちょっと待ってよ〜」
「置いてくなよ、ずるい!」
子供たちは散り散りになり、枯れ芝を鳴らしながら石像へ駆けていった。
ゼノスは一人を追ったが、その指先が届くより早く、三人は石像へ触れた。
歓声を背に、ゼノスは大木へ向き直った。
大木は天高くそびえ立っていた。
幹に手をついて見上げると、太い枝の上でルカが得意げに笑っていた。
「ゼノス様でもここは届かないだろ!」
「ああ、届かないな」
上から少年の声が降ってきた。
少年を支える枝は、ゼノスの身まで預けるには細かった。
ゼノスは根元の洞へ視線を落とした。
洞の暗がりに、膝を抱えた少女の姿があった。
ゼノスが身を屈めると、少女は見つかっていないつもりなのか、慌てて目を閉じた。
「見つけた」
「ここなら見つからないと思ったのに!」
少女が目を開けるなり、洞から飛び出した。
一拍遅れてゼノスは追いかけた。
砂場には小さな足跡と、その後を追う大きな足跡が残った。
少女が石像へ手を伸ばすより早く、ゼノスの手がその背に触れた。
「あー!あとちょっとだったのに!悔しい!」
少女は地団駄を踏み、それからすぐにゼノスを見上げて笑った。
ゼノスは身を屈め、少女の頭を撫でた。膨れた頬を指先で軽く押す。
「そんなに膨らませていては、おやつが入らなくなるよ」
「おやつ!?」
「ああ、おやつだ。だから、ここで待っていてくれるか?」
「うん、分かった!もうすぐ終わるもんね」
ゼノスはもう一度少女の頭を撫で、大木の方へ戻った。
大木の根元には、幹と張り出した根がいくつもの影を作っていた。
その一つから、落ち葉がかすかに鳴った。
「誰かいるのか?」
笑いを堪えるような声が響いた。
「いませーん!」
「いないのか?なら……」
ゼノスはそれ以上声をかけず、足音を忍ばせて幹の反対側へ回った。
影の中で少年が首を伸ばした。その背に、ゼノスの指先がそっと触れた。
「見つけた」
「ゼノス様、いなくなったんじゃなかったの!?」
「いいや、最初からいたよ。君が『いません』と言うから、俺も見えなくなってみたんだ」
「なんだそれ……かっこいい!どうやったの?教えてよ」
ゼノスが手を差し出すと、少年はその指先を握った。
石像まで歩いていくと、子供たちの間では早くもおやつの話が弾んでいた。
「ぼく、聞いちゃったんだ!ゼノス様がおやつを用意してるんだって!」
「ええ?本当?」
「本当だってば!ゼノス様から聞いたんだから本当だよ!」
「じゃあ本当かもしれない……」
「いい子にしてないともらえないかもよ?」
「それは大変だ!いい子に待ってようぜ」
ゼノスは子供たちの話に耳を傾けたが、あえて訂正はしなかった。
捕まった少年が神衣の裾を摘んだ。
ゼノスは振り返った。
「どうかしたのか?」
「ルカがまだ木の上にいるよ」
「あいつ、降りてこないつもりかも」
ゼノスは石像を離れ、大木のもとへ向かった。
枝の上では、ルカが幹にもたれたままこちらを見下ろしていた。
「ルカ、降りなくていいのか?」
「ああ!降りたら負けちまうんだろ?」
「見つけられた時点で、隠れる時間は終わっている」
「でも、まだ捕まってない」
「そうだな。なら、地面へ降りるまでは捕まえない」
「本当か?」
「約束する」
ルカはすぐには答えず、枝の上からゼノスを訝しげに見つめた。
「ゼノス様が約束を破らないって、どうやって分かるんだよ」
「今まで破ったことがないからだ」
「たしかに、ゼノス様が約束を破ったことはないな……分かった。信じてやる」
ゼノスは腕を広げた。
ルカはその意図が分からず、枝の上で首を傾げた。
いつもなら、枝から幹へ足をかけ、そのまま一人で降りていた。
「ゼノス様、何してるんだ?」
「念のため受け止める」
「平気だよ」
「一人で降りられることは分かっている。だが、今日は俺がいる」
ルカは少し迷ってから、枝の端へ身を移した。
ゼノスの腕があるだけで、地面はいつもより近く見えた。
ルカはゼノスの腕と地面の間で、何度も視線を往復させた。
「絶対、落とすなよ」
ルカはそう念を押すと、枝から身を躍らせた。
落下の先で、ゼノスの腕が少年の身体を確かに抱き留めた。
ルカは抱き留められたまま、ゼノスの肩や胸元へ手を触れた。
「……ゼノス様、結構がっしりしてるな。そりゃ、俺を落とさないわけだ」
「納得したか?」
「した!」
「鍛えているからな」
ゼノスはルカを地面へ下ろした。
「それで、俺は捕まったのか?」
「いや。地面へ下りるまでは捕まえないと約束した」
「じゃあ、俺の勝ちだな」
「そうなるな」
ルカは得意げに笑って石像の前へ駆け出した。
ゼノスはその後を追い、集まった子供たちを屋内へ促した。
室内へ入ると、白布を掛けた長机に、小ぶりな焼き菓子や果実のタルトが並んでいた。
子供たちは歓声を上げ、一斉に机へ駆け寄った。
「わあ!おやつがきらきらしてる!」
「すごく美味しそうだ!」
「これ、食べてもいいの?」
控えていた給仕が椅子を引き、子供たちへ席を勧めた。
「ああ。皆のために用意したものだ。座って食べるといい」
「先生!まだお祈りしてないよ!」
世話役の女性が子供たちを席につかせた。
全員が静まるのを待って、食前の祈りを促した。
「今日の実りと、これを用意してくださった方々に感謝します」
全員が復唱すると、束の間の静寂はたちまち賑わいへ戻った。
子供たちは思い思いにタルトや焼き菓子へ手を伸ばし、頬張った。
ゼノスは苺、蔓苔桃、桃が乗ったタルトを手に取った。
果実は緩やかな渦を描き、ひとひらの花のように見えた。
タルトを口元に運ぶと、瑞々しい桃の香りがふわりと立った。
一口齧れば、苺の甘酸っぱさが先に広がり、蔓苔桃の酸味が後味を引き締めた。
果実の瑞々しさに、ゼノスは二口目をゆっくり味わった。
桃と苺の柔らかな香りが、卓上に淡く漂っていた。
苺のタルトを手にした幼い少女が、ゼノスの傍へ寄った。
「ゼノス様は桃が好きなの?」
「分からない。嫌いではないよ」
「じゃあ、もう一個食べたらいいよ!」
「それはどうしてだ?」
少女はトレーからタルトを取ると、ゼノスの目の前に差し出した。
「だって、もう一個食べたいって思ったら、好きってことでしょ?ゼノス様も食べよう!」
「ああ、ありがとう」
ゼノスはタルトを受け取った。
口へ運ぼうとして、喉の渇きを自覚した。
自らの渇きを意識し、ゼノスはわずかに戸惑った。
ゼノスは果実茶をカップに注ぐと、ゆっくりと口にした。
「ゼノス様はタルトよりもお茶が好きなの?」
「そうかもしれない。お茶の方が好きだよ」
ゼノスはタルトの時よりも答えに迷わなかった。
「じゃあ、タルトは貰ってもいい?」
「ああ、構わない。持ってきてくれてありがとう」
少女はゼノスからタルトを受け取ると、隣に座って食べ始めた。
ゼノスは無意識に果実茶の入った茶瓶へ手を伸ばしていた。
喉の渇きだけでは、この手の動きを説明できないように思えた。
ゼノスは果実茶を注ぐと、湯気とともに果実の香りが立った。
果実茶に口をつけると、仄かな甘さが舌に残った。
* * *
ゼノスは花野を歩いていた。
花野の終わりが遠い、そんな気がした。
花の海には、以前より蒼い花が増えていた。
イルはどこにいるのだろうか。
花野の中に彼女の姿はなかった。
遠くから歌声が聞こえてきた。
ゼノスは歌に耳を傾けた。
歌に導かれて花野を進むと、イルの背が見えた。
イルは屈んで池を覗いていた。
「こんばんは、イル」
「こんばんは、ゼノス。今日は少し遅かったね」
「子供たちと遊んでいたんだ」
イルはそれを聞くと、静かに笑った。
「見て、ゼノス。星空が映ってるよ」
「そうだな。いつも見ているのか?」
「ううん、いつもじゃないよ。でも、君が来ない日はこうして見ているかも……」
「そうか。俺も星空を見るのは好きだよ」
イルは「お揃いだね」とはにかんで、隣に座るよう促した。
ゼノスは誘われるまま、隣に腰を据えた。
二人の指先がかすかに触れ合った。
淡い水色の髪留めが、イルの手首で揺れていた。
ゼノスの口元がわずかにゆるんだ。
「気に入ったか?」
「うん。君が作ってくれたから。それに可愛い」
二人は並んで池の中に映る星空を見つめた。
水面を渡る風が、二人の間を静かに抜けていく。
ふいにイルが口を開いた。
「今日はどんな一日だったの?」
「……悪くない一日だったと思う」
ゼノスは池に映る星へ言葉を沈めるように答えた。
「子供たちと遊んだが、思ったより疲れた」
「それはどうして?」
ゼノスはわずかに口元を緩め、小さく息を吐いた。
「どうしてだろうな。子供たちと遊んだ後に喉が渇いたんだ」
「いつもなら喉は渇かないの?」
「ああ。だから、不思議な感覚だったよ」
イルは静かな水面へ顔を向けた。
藤色の瞳に、星明かりが宿った。
「うーん……子供たちとまた遊びたい?」
「遊びたい、か……約束はした」
イルは少し意外そうに瞬いたあと、微笑んだ。
「それなら、また会いたいって思ったんだね」
「そうかもしれない。俺が自らその約束をしたんだ」
池に映る星は瞬いていた。
また会いたい。
その願いは祈りではない。
誰かに与えられた使命でもない。
自ら望んだことだった。
「イル」
「なあに?」
「人は皆、こうして誰かと会いたいと思うものなのか」
「全部じゃないと思う。でも、私はゼノスに会いたいよ」
水面を渡る風が二人のもとへ届いた。
淡い栗毛と銀髪が、同じ風に揺れた。
「……そうか。俺も君と話す時間は好きだよ」
「ふふ、良かった」
イルは微笑んだ。
ゼノスはイルの手に掌を重ねた。
二人は言葉を交わさないまま、池のほとりに座った。
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