第四話:月華に結ぶ
神殿の大聖堂には幽檀の葉が飾られていた。
聖堂内には香炉が寸分違わぬ間隔で並び、細い煙を漂わせていた。
冷えた聖堂に白檀のやわらかな甘さがほのかに満ちて、その中に蒼く澄んだ香りが混じっていた。小豆蔻だった。
ゼノスは香りの出処を追った。神官が擂鉢で何かを磨り潰していた。擂鉢を回すたび、青く鋭い香りが静けさを裂いた。
神官はゼノスの気配に気づくと、恭しく頭を下げて作業に戻った。神が立ち止まると空気が重くなった。
「ゼノス様、今年の供物をご確認いただきたく。今年は北方より葡萄酒、西方より絹と麻、東方より羊皮紙と陶器、南方より果実が奉納されました」
神官は報告書を読み上げた。ゼノスは報告書を受け取ると目を通した。
「供物の状態はどうだ」
「全て規定通りの管理を行っております」
「ならば、例年通り民に下賜せよ」
ゼノスは大聖堂から出て、木漏れ日の中に眠る回廊を歩いた。
丁寧に磨かれた白い大理石は悠々と伸びた枝を映し、綻びかけた若芽の傍らでは小鳥たちが羽を休めていた。
中庭から子供たちの笑い声と水飛沫が届いた。
「あ、ゼノス様だ!」
声を上げた子が足を止めると、ほかの子供たちも一斉に振り返った。
「おはよう、ゼノス様!」
「聞いてよ、ゼノス様!」
「ゼノス様、ご本読んで〜」
囲まれたゼノスは順に子供たちの頭を撫でた。彼らの願いを紐解くべく、ゼノスは屈んで片膝をついた。
彼は「聞いてよ」と話しかけた子供に目を向けた。すると子供は左右へ大きく腕を広げて話を始めた。
「ゼノス様!おれ、たくさんご飯を食べたから背が伸びたんだ。見てよ、袖がつんつるてんだ!」
ゼノスは言われた通り、その短くなった袖口を確かめた。
すると、子供は自信を表すように胸を張った。
「ああ、大きくなったな。好き嫌いせず、たくさん食べてくれ。約束はできるか?」
「もちろん、できるよ!もうおれも六歳だからね」
ゼノスはその言葉を聞くと、子供の手をそっと握った。子供もその手を握り返した。
少年との話が終わると、本を抱えた少女が彼の前に一歩出た。
「ゼノス様、この本……」
少女は控えめに本を差し出した。ゼノスは受け取るとページをゆっくりと捲り、一節を選んだ。低く穏やかな声が回廊に響いた。
「月の女神は誰も見ていない夜にも、迷う者のために白い花を咲かせました。白い花は星のように輝いていました」
「ありがとう、ゼノス様」
少女はゼノスから本を受け取ると、胸元へそっと抱き寄せた。
ゼノスは立ち上がると、少女はその裾を小さく摘まんだ。
「あの……ゼノス様……」
「どうした?」
「月の女神様はいつ寝てるの?」
ゼノスはすぐには答えなかった。ほかの子供たちも遊ぶ手を止め、じっとゼノスの答えを待った。
「それは俺にも分からないな。だが、女神様は心を休める時があるはずだ」
「心を休める?うーん、それは寝るのとは違うの?」
「眠らなくても好きなことをしたり、静かに誰かを思ったりするうちに、心は休まる。そういう時間だ」
「……ゼノス様について考えるとか?」
ゼノスは僅かに眉を下げた。それは一瞬のことで子供たちには見えなかった。
「ありがとう。……そろそろ戻らなければ、先生が心配する」
「本当だ!またね、ゼノス様」
「さようなら、ゼノス様」
子供たちは学び舎と孤児院へ続く回廊の奥へ駆けていった。ゼノスはその姿が見えなくなるまで見送った。
* * *
ゼノスは人払いを命じ、私室の扉を閉ざした。
装飾のない黒檀の机の上には、生誕祭に関する書類が置かれていた。傍らには万年筆と真新しいノートが並んでいた。
ゼノスは揃いの椅子に腰掛けると、催事の進行表を手に取った。
表には夜明けの清めから日没後の終祭に至るまで、寸分の隙もなく予定が記されていた。
確認を終えると、進行表を机の端へ置いて、小さく息を吐いた。
例年であれば、これも務めの一つとして受け入れていただろう。
進行も儀式も、昨年までと何一つ変わってはいない。では、何が違うのか。
変わったものを探すように、ゼノスはここ数日の出来事を辿った。
脳裏に蒼い花と藤色の瞳が浮かんだ。
「あの子か……」
ゼノスは一度、背もたれに深く凭れた。
いつからか、星庭へ赴かない一日は何かを欠いたように思えていた。
星庭に佇む少女、蒼い花、月白の塔、瞬く星々。そこには彼に役目を求める者も、定められた進行もなかった。
特別なことは何もしていないはずだった。だが、彼女を思うたび、静かだったはずの心に微かな漣が立った。
彼は立ち上がると、机の端に寄せた進行表を手に取った。
昨年とも一昨年とも、何も変わらない生誕祭になるはずだった。
そこに彼女の姿がないことが、今年に限って妙に気にかかった。
彼は進行表から目を上げた。時計の針は彼女との約束の刻に近づいていた。
ゼノスは卓上に進行表を戻すと、少女に何を話すべきか考えた。
平素であれば、あらかじめ話題を用意する必要はなかった。彼女の興味に寄り添えば、言葉は自然と生まれた。
それでも今日は何から話すべきか決めかねた。
「何故、悩んでいる?」
ゼノスは問いを口にした。曖昧な感覚をより明確に捉えるためだった。
しかし、約束の刻は迫っていた。これ以上遅れれば、彼女が心配するだろう。
ゼノスは答えの出ない問いを残したまま、星庭へ向かった。
* * *
星庭に着くと、星が一筋の光を引いた。花々は風に揺れていた。
花野の中に少女が佇んでいた。
「イル」
ゼノスが少女の名を呼ぶと、彼女が振り返り、駆け寄った。
少女はゼノスの背に腕を回し、胸元に顔を埋めながら小さな声で呟いた。
「来ないかと思った……」
「それはどうしてだ?」
「最近、来ない日と来てくれる日がバラバラだったから」
ゼノスはイルの細い背に腕を回して、目を伏せた。
不安を見せる彼女の髪をそっと撫でた。
「公務が忙しかった」
「公務……でも、君は忙しくても来てくれてた。どうして急に?」
「……生誕祭があるんだ。それが終わると待降節、降臨祭と祝事が続く」
「待降節に降臨祭……大変だね。じゃあ、生誕祭は誰の?」
ゼノスは一瞬言葉に詰まった。
「俺のだよ」
「ゼノスのお誕生日?それは祝いたいな、私も。いつなの?」
イルはゼノスから離れると微笑んだ。
「明日だよ」
「明日なの?うーん……」
「どうかしたのか?」
「ううん。もっと早く知りたかったなって。それに今の私ならきっと……」
ゼノスは答えを待った。
少女は彼の手を握り、前へ歩き出した。
ゼノスは僅かに目を見開いたが、イルの手を握り返して隣を歩いた。
月白の塔へ入ると、窓から風が入ってきて、カーテンの裾が緩く広がっていた。
風に煽られた頁が机上でかすかに揺れていた。日付のない頁に、幼く丸い文字で日々の出来事が記されていた。
「あ、ゼノスは日記を見ちゃダメ」
「分かった」
「ふふ、冗談だよ。君のことばかり書いているから少し恥ずかしいんだ」
イルは頁を押さえると、筆跡を追うように読み上げた。
今日はゼノスが来てくれたんだ。
久しぶりに花冠を作って見せたら、上手くなったなって褒めてくれた!
それから、花の水やりも忘れずにやったよ。
これも日課になったね。
それから、庭全体が広くなったような気がする。
前より花野が大きく見えるような……
ゼノスに聞いたら分かるかな?
でも、二人で過ごせる場所が大きくなったのはいいことだね。
「こんなことを書いてるよ」
ゼノスは日記へ手を伸ばし、イルの指先に続いて頁の文字をなぞった。
「君らしいな」
「そうかな?ちょっと恥ずかしいけど、こうやって残すのが好きだから続けてるんだ」
「いいと思うよ。記録を残すことには意味がある」
イルはその言葉を聞くと、日記を閉じた。
引き出しから淡い色の紐と、白い小花をいくつか取り出した。
「これは?」
「ゼノスが来てくれるようになってから、紐とか花飾りを作れるようになったんだ。綺麗?」
イルは月白の紐を差し出した。
ゼノスは紐を掌に乗せ、均一な編み目を指先でなぞった。
やがてイルへ顔を上げ、僅かに微笑んだ。
「ああ、綺麗だ」
「本当?それならこれでお守りを作ろうかな」
少女は彼から紐を受け取ると、俯いたまま、その端を指先でもてあそんだ。
「……君も作る?」
「そうだな、一緒に作ろうか」
イルは嬉しそうに笑うと、材料を抱えて床へ移り、それらを足元に広げた。
それからゼノスの手を引き、隣へ座らせた。
「作り方は分かるのか?」
「あっ……分からない、かも。でも、これと花を使うことは覚えてるの」
「そうか。なら俺が教えるよ。君は作りたいように作ればいい」
ゼノスは淡い水色の紐を手に取った。イルは月白の紐を選び、床に広げた。
「私は君のを作るね。ゼノスは私のを作って」
「ああ」
ゼノスは淡い水色の紐を二つ折りにし、長さを揃えた。輪を重ねるたび、結びは花弁のように横へ広がっていった。
一方、イルは月白の紐を幾重にも結び、中央へ白い小花を添えた。結び目の下には紐を長く残し、細い房へ整えようとしていた。
ゼノスは自分の結び目を整えつつ、時折イルの手つきを確かめた。
「ゼノス、これはどうやって留めるの?」
「根元を一度束ねてから、短い紐を巻けばいい」
イルの掌に糸切りばさみが現れ、ゼノスの指が止まった。
「それは一時的なものか?」
「うん。ずっと使うものじゃないから、必要な時だけ作ってるんだ」
「そうか。はさみを使って長すぎる部分は切ろう」
房の長さを揃えたイルは、教えられた通り根元へ短い紐を巻き、ほどけないよう慎重に結び留めた。
ゼノスはそれを見届けると、重ねた輪の中央へ白い小花を留め、全体の形を整えた。
イルがゼノスの手元を覗き込むと、二人の肩がかすかに触れた。
「それ、何を作ったの?」
「髪飾りだよ」
「これで髪を留めるの?」
「ああ、試してみるか?」
「うん!君にやって欲しいな」
「なら、後ろに向いてくれ」
少女はゼノスに背を向けた。ゼノスは淡い栗色の髪を後頭部でひと束取り、三つに分けて編み込んだ。
編み髪を根元へ巻き、小さな花のように整えた。
淡い水色の髪紐をその根元へ回し、形を崩さぬよう結び留めた。
「終わったよ」
「本当?どうなってるかな?」
少女はそっと結われた髪に触れて、小さな三面鏡を作り出した。
両手で鏡を持つと、中央に顔が、左右の鏡には横顔と後ろ髪が映った。
首を左右に向けて後ろ髪を確認すると、唇に小さな弧が浮かんだ。
鏡を消すと作りかけの護符へ向き直った。
イルは房を指先で持ち上げ、首を傾げた。
「うーん……あともう一つ、足したいな」
イルは雫型の小さな欠片を掌に乗せると、ゆっくりと光沢を確かめた。
つるりと硬い表面には、露を閉じ込めたような透明さがあった。
「これにしようかな」
イルは飾りを摘むと、房に添うよう細い紐の先へ結び留めた。雫は房とともに小さく揺れた。
完成した護符を掌の中に置くと、彼女はそっと両手で包み込んだ。
すると、淡い月光が掌の隙間から溢れた。
イルは目を閉じ、ゼノスの無事を静かに願った。
月光は紐を伝い、雫の奥へ溶けていった。
「はい、完成したよ」
少女はゼノスに月白の護符を差し出し、はにかんだ。
ゼノスは護符を受け取り、しばらく見つめた。
「それから髪の毛も結ってくれてありがとう。この飾りも大事にするね」
「ああ、こちらこそありがとう。大切にするよ」
ゼノスは月白の護符を、銀飾りの施された黒い腰帯の後ろへ結び留めた。細い房と透明な雫が、白い長衣に沿ってかすかに揺れた。
「似合ってる」
「そうか。なら、このまま身につけていよう」
腰元で揺れる護符を確かめると、イルの頬がゆるんだ。
やがて星庭を満たす光が薄れ、少女の輪郭が白く霞み始めた。
「また来てくれる?」
「ああ。次もここへ来るよ」
目を開くと、窓の外では雪が降っていた。
ゼノスが腰へ手を触れると、月白の房が指先をかすめた。
指先に触れた月白の房を、ゼノスはしばらく離さなかった。
透明な雫の奥には、星庭の月光がなお淡く残っていた。




