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幽祇の暁  作者: 露木雪丸
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第三話:漆日の庭

 その夜、ゼノスは神殿の屋根に立っていた。

 満天の星の下、薫風(くんぷう)が頬を撫でていく。

 彼は休まなければならない。

 漆日(しつじつ)が差し迫る夜だった。

 神は傷つかない。故に、休息など不要なはずだった。



「神は全能……」



 漆日は誰が、何のために定めたのか――ゼノスにも分からなかった。



「分からないことを考えても仕方がない」



 神は夜空の下で動かなかった。

 星々を繋ぐ筋を辿っては、別の星座へ思考を移した。


 そのとき、一筋の光が流星を描いた。


 ゼノスは星庭の天蓋を思い出した。

 空の存在しない、あの場所。

 少女と共に見た流星は今夜のものより鮮明だった。

 屋根から飛び降りた。神衣は彼と共になめらかに落ちた。

 ゼノスは月光に導かれるように、中庭へ通じる回廊を歩いていった。


 中庭は静謐(せいひつ)に包まれていた。

 花弁が月の光を反射し、水面は波打つこともなく、反転した宙を映していた。


 白い大理石に膝をつき、水面へ顔を寄せた。

 花野が見えた。その先には彫刻が並び、さらに奥には月白色(げっぱくしょく)の塔がある。


 窓辺に少女が座っている。

 淡く色づいた唇が何かを口吟んでいた。


 ――歌っているのだろうか。


 初めて出会ったときと、同じ歌だろうか。

 ゼノスは水面を覗き込んだまま、指先を浸した。

 視界がゆっくりと解けていく。




* * *




 目を開けると、ゼノスは花野に寝転んでいた。

 彼は緩やかに身を起こした。

 周囲に少女の姿はなかった。

 だが、歌声は静かに、確かに響いていた。

 耳を澄ませると、上方から声が降りてくる。イルは塔の中で歌っているのだろう。


 ゼノスは裾についた土を払い、歩き出した。

 子守唄のような歌が、歩みを進めるほど近づいてくる。

 風と共に運ばれる音に、彼の歩調がわずかに緩んだ。



「また、あの歌か……」



 唇をわずかに動かしたが、音にはならなかった。

 ゼノスは歩幅を広げ、そのまま塔へ向かった。

 扉を開け、階段を上る。

 歌声は月白色の壁へ反響し、塔の内側を満たしていた。



 Por ti rivo. Con te demure.



 踊り場の中ほどまで来ると、イルの声はいっそう美しく届いた。

 だが、彼女の姿はまだ見えない。


 ゼノスは階段の先へ歩みを進めた。


 歌は次の旋律へ移る。

 彼は壁に手をつき、一段ずつ上っていった。

 やがて歌は余韻を残して途切れた。


 何かあったのではないか。

 ゼノスは階段を駆け上がった。


 次の瞬間――白絹(しらぎぬ)のワンピースが翻り、その裾の向こうにイルが立っていた。

 裸足のつま先から栗色の髪まで、月光が淡く縁取っている。


 歌の主はイルだった。



「どうしたの?」



 イルは目を瞬かせ、ゼノスを見下ろした。

 ゼノスは咳払いを一つした。

 何事もなかったような穏やかな低い声で、「こんばんは」と告げた。



「うん、こんばんは。君は今日、ここには来ないと思ってた」

「ああ。そのつもりだった」

「でも、会えて嬉しいよ。……何かあったの?」

「……いや」



 ゼノスは少女を前に、唇を動かそうとした。

 言葉を見つけるのは、星々に名を与えるより難しかった。


 彼は残りの階段を上り、イルの目の前まで来ると手を差し出した。

 少女は小さな掌を重ね、微笑む。

 ゼノスはその温もりを確かめるように、指をわずかに閉じた。



「今日はね、もう水は返しちゃったんだ。君に頼まれてたことは終わったよ」

「ありがとう」

「うん。こちらこそ、ありがとう」



 イルは微笑んだまま、ゼノスをしっかりと見つめて同じ言葉を囁いた。

 聞き慣れたはずの言葉なのに、彼女の声は涼やかな風のようだった。

 胸の奥が一段、軽くなった気がした。



「今日はどうして私の家に来たの?」

「……分からない」

「そっか。でも、君が来ると庭が明るくなるんだ。君は知らなかったかもしれないけれど」



 ゼノスはイルの手を離した。

 それでも、視線は逸らさなかった。



「今日はもう、やることがなくなっちゃったね」

「それでいい。今日は漆日だ」

「漆日?」



 ゼノスは階段を下り始めた。

 イルもそのあとに続く。



「漆日は、神も休息を取る日だ」

「神も休むの?」



 二人はゆっくりと階段を下った。

 ゼノスが先を歩き、イルは少し後ろからその背を眺めていた。

 話を聞きながら、イルの指先はふらりと彼の背へ伸びた。

 だが、触れることはなく、そのまま手を下ろした。



「そう定められている」

「誰が?いつ?」

「俺にも分からない」



 イルは歩調を速め、ゼノスの隣へ並んだ。

 そのまま彼の手を握った。

 ゼノスは栗色の旋毛(つむじ)へ目を落とした。

 二人は共に階段を下り続けた。



「じゃあ、休まなかったらどうなるの?」

「試したことがない」

「でも、休まないと君は疲れると思う」

「疲れたことはないよ」



 その言葉は嘘ではなかった。

 イルはゼノスの手を握り直した。

 その掌は少し冷えていた。


 やがて階段を下りきった。

 木製の扉を開くと、わずかな軋みが響いた。

 外の風が塔の奥へと上っていった。

 一面に広がる花野は(あお)かった。



「……初めて見る色だ」

「初めて?」

「うん。時々赤くなることはあるんだけど……蒼は初めてだよ」



 イルはゼノスの手を引き、花野へ駆け出した。

 ゼノスは目を見開いた。それでも、彼女の手を握り直した。

 少女は花野へ座り込むと、花を一輪摘んだ。

 花弁は蒼く透き通り、水を一滴閉じ込めたような艶を宿していた。

 ゼノスは隣に膝をつき、その手元を覗き込んだ。



「綺麗だな」

「ふふ。そうだね」

「これで何かを作るのか?」

「作れるの?」



 ゼノスは花を根元から摘んだ。壊れ物を扱うような手つきだった。

 一本、また一本と重ねては、細い茎を交互に編み込んでいく。

 イルは瞬きも忘れ、その指先を見つめていた。

 円環(えんかん)の縁を、蒼い花が一輪ずつ埋めていく。

 やがて花々は、一つの輪を形作った。



「出来たよ」

「これ、なんて言うの?」

「花冠。子供が遊びで作るものだ」

「私もやってみていい?」



 ゼノスは完成した花冠をイルへ渡した。



「花はまだたくさんある」

「うん。やってみるね」



 イルは花を摘み、茎同士を合わせた。

 隙間を縫うように花を差し込み、見よう見まねで編んでいく。

 だが、編むたびに形は崩れた。

 イルは首を傾げる。



「あれ?」

「難しいか?」

「うん……」



 ゼノスは隣に座るイルの片手へ、大きな掌を添えた。

 茎を掴む指先へ自らの指を重ね、わずかに力を加える。

 乱れかけていた輪は、次第に形を整えていった。

 イルはその感触を確かめるように、もう一度花を編み始めた。



「出来た。ゼノス、どうかな?」

「初めてにしては悪くない」



 花の向きは揃わず、茎もところどころ顔を覗かせていた。

 それでもイルは、花冠を大事そうに掲げた。

 ゼノスはそれを受け取ると、少女の頭へ静かに載せた。



「これで完成だ」



 栗色の髪に、蒼い花が咲き乱れた。

 イルは瞬きを一つすると、小さく微笑んだ。

 やがてゼノスの作った花冠へ目を落とし、そっと手に取る。



「今度はゼノス」



 そう言うと、銀髪の上へ静かに花冠を載せた。

 ゼノスは花冠の重みを確かめるように、僅かに顎を引いた。



「ねえ、ゼノス」

「なんだ?」

「君は今日、楽しかった?」



 ゼノスは答えられなかった。



「私は楽しかったよ」

「俺は……」



 微風(びふう)が花弁を撫でた。



「またここに来てくれる?」

「分かった」



 風が止んだ。蒼い花々が静かに揺らぎ、世界は水へ溶けるように霞んでいく。イルは何も言わず微笑んでいた。次の瞬間、ゼノスは神殿の中庭に立っていた。

 彼は回廊の柱に背を預け、夜空を見上げた。


 漆日は誰が、何のために定めたのか。

 その答えはまだ分からない。


 けれど、胸の奥は不思議なほど静かだった。

 ゼノスはゆっくりと瞼を閉じた。



「――おやすみ」

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

次話もお楽しみいただけましたら幸いです。

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