第二話:花へ帰す水
星庭は今日も開かれていた。イルは振り返るより先に、「おかえり」と言った。歩み寄ってきたゼノスは、「ただいま」と返した。
「今日も花に水をやるの?」
「ああ。必要なことだからやらなければならない」
「そう言うと思って用意してたんだ」
イルは柄杓を差し出した。ゼノスの大きな掌に収まったそれは、銀の枝で作られていた。長い柄を傾けるたび、淡い光が揺れた。
「君が作ったのか?」
「うん。想像したものをこうやって……」
掌に小さな桃色の花を咲かせる。花はすぐに音もなく、ほろりと崩れた。
それでも、ゼノスの手にある柄杓は消えなかった。
イルの背後では、柄杓と同じ光を枝先へ滑らせる銀樹が立っていた。
一本の枝には白く新しい切り口が残っている。
「あの枝は君が切ったのか?」
「うん、そうだよ。これくらいなら作れるけど、大きなものはまだ無理なの」
イルは掌へ水色の花を咲かせた。
指先で撫でると、それはいつの間にか黄色へ変わっていた。
色が消えるまで、ゼノスは何も言わなかった。
「ゼノス」
名を呼び、彼の手へ指先を伸ばす。そっと触れて大きな掌を握り、花野へ導いた。
ゼノスはわずかに首を傾げた。淡い銀髪がそよ風とともに揺らぐ。イルは不思議そうに目を瞬かせた。
「……嫌だった?」
「いいや。何故、手を取ったのか気になったんだ」
イルは心の内に眠るものを探るように俯いた。
「どうしてだろう?でも、一緒に歩きたいなって思ったんだ」
「呼べば行く」
「じゃあ、次は呼ぶね」
イルは浅く頷いたが、握った掌を離さなかった。ゼノスの掌から伝わる温度は柔らかい。
混ざり合う温度のまま、イルは花野を先へ進んだ。
花野の先には露に濡れた白い花があった。
彼女は柄杓を水瓶に浸し、水を掬いあげると、花の根元に柄杓の口を寄せて水を返した。
花は柔く輝いた。
ゼノスは水瓶へと目を向けた。
「あれは君が動かしたのか?」
「うん。重かったけど、下りるだけだったから」
「……」
ゼノスは逡巡の後、彼女を見た。
「危険だと思わなかったのか」
「どうして?」
「足を滑らせれば、水瓶ごと階段から落ちていた」
「あっ……ごめんね、そこまでは考えなかった」
少女は顔を上げた。
イルの唇がかすかに開き、また閉じた。
何度手を伸ばしても、霧の向こうの言葉には届かなかった。
「もう二度とこんなことはするな」
「それは、どうして?」
「大事な水瓶だ。壊したら君の指先にも血が滲む」
イルは彼の言葉を反芻した。血が滲む。これがどれ程の痛みか分からなかった。
萌黄色の瞳の奥にある憂を感じ取ると、彼女は「ごめんね」と小さく呟き、握っていた手を解いた。
「こういうのは心配、って言うんだっけ?……初めてされたかも」
「君は……いや、何でもない。花の水やりに戻ろう」
イルはそのまま柄杓を水へ沈め、ゼノスも黙って隣の花へ水を返した。
水瓶の水が空になるまで続いた。
水を与えた花々は白光を放ち、花弁には雫が滴る。
イルは星明かりの先へ顔を上げた。
一筋の流星が星明かりを横切り、イルは微笑んだ。
一拍遅れて、ゼノスも空を仰いだ。
また一つ星屑が花々の間へ落ちる。
「ゼノス、今日の分は終わったよ」
「ああ。俺はそろそろ――」
「うん。また、来てくれる?水やりも一緒にやろうね」
ゼノスは自分の掌を軽く握り直した。
イルは彼の言葉を待った。
「分かった」
「ふふ、ありがとう」
それはゼノスが初めて見る柔らかな月光のようなイルの笑みだった。
その瞬間、星庭は彼の前から遠ざかった。
* * *
ゼノスは目を開けた。
柄杓を握っていたはずの掌には、何も残っていなかった。
窓辺に近寄り、幕を引き上げた。
陽光が差し込み、銀髪が柔らかく光を返した。
寝台から降りると、彼は鈴を一度だけ鳴らした。
室外に控えていた神官が姿を現した。
「ゼノス様、ご要件をお聞かせください」
「霊媒師を水瓶とともに小謁見室へ通せ」
「御意」
霊媒師は既に小謁見室の長椅子に浅く腰掛けていた。
ゼノスが部屋に入ると、女は立ち上がって恭しく頭を下げた。
「おはようございます。ゼノス様。……昨晩の件、御礼を申し上げます」
「礼は不要だ。昨夜、星庭で新たな変化を確認した」
そのとき、神官が扉を三回叩いた。「失礼します」と簡素に告げて、水瓶を室内へ運んだ。
神官の後ろに控えていた給仕が朝食をゼノスの目前に配置した。
「ゼノス様のお食事でございます」
「霊媒師の分は」
神官は即座に深く頭を下げた。霊媒師は狼狽えた。
「そのようなお気遣いは……」
「食べろ。これは神命だ。神前にて遠慮は無用だ」
神官は御言葉を聞くと速やかに退室した。
給仕は湯気が立ち上る玉蜀黍のスープ、ライ麦のパンを女の前に配した。
残されたゼノスと霊媒師は食事に向き合った。
焼きたてのパン、香草を添えた白身魚のソテー、蜂蜜を一匙垂らした無花果、一杯の花蜜茶。穏やかな香りが食卓を満たしていた。
ゼノスはパンを一欠片ちぎって食べた。
それに倣い、女もライ麦のパンを小さく手で切り分けた。
「……昨夜、星庭の水瓶も空になった」
「それは……この子にも、何か変化があったということでしょうか」
「断定はしない。だが、まずは食事を摂れ」
「ですが……!」
女は食事の手を止めた。
女の頬は窶れ、眼窩には隈が沈んでいた。
「星庭では流星も現れた」
「それは、我が子の運命ということでしょうか?」
ゼノスは静かに首を横に振った。女は腹に手を添えて俯いたが、神の言葉に耳を傾けた。
「食事が終わり次第、お前とゼニアの未来をもう一度辿る」
「ありがとうございます、ゼノス様」
会話は生じなかった。パンをちぎる音、スプーンがスープを掬う音、食器が触れ合う音だけが室内に響いていた。
食器が静かに下げられる。
ゼノスは水瓶へ目を向けた。
水瓶はなお縁まで満ちていた。
ゼノスは水瓶を中庭へ運ぶように命じた。
中庭には円を描くように回廊が続いていた。
回廊の内側は一面の水に満たされ、朝露が滴るたび細かな波紋が広がる。
水面は鏡のように蒼と雲を逆さに映し、その中央には大小様々な花々が植え込まれていた。
神官は水に触れるのを畏れるように回廊の端を歩き、神前を訪れた人々は自然と足を止めた。
静謐な水鏡は、誰もがしばし見入らずにはいられなかった。
水瓶は縁まで満ちていた。
「花へ返せ」
霊媒師は頷き、柄杓を水へ沈めた。
「……何故、この場所なのでしょう」
「ここは神へ返すための場所だ」
水面が静かに揺れた。花は陽光を浴び、きらめく水を花弁に乗せた。
「運命が見えた時、この行為は我が子への祝福へと成り得るのでしょうか……」
「今はまだ不明だ。だが――」
水面に、昨夜の流星がよぎった。
――運命は還り始めている。
そう告げるには、もう一度未来を見定める必要があった。
女は丁寧に一輪、一輪に水を返した。
神は黙して女の横顔を回廊の影から見守った。
ゼノスの萌黄色の瞳が静かに細まった。
風が止み、揺れていた銀の前髪も静かに落ち着いた。
ゼノスは回廊を満たす水面へ目を落とした。
朝空を映していた水鏡がゆるやかに揺らぐ。
神の意識は、その奥へ静かに沈んでいった。
女の未来は――星々が細い光の筋で結ばれ始めている。
しかし、流れを失った星は再び星雲へ還っていく。
「……やはり、一日では足りないか」
ゼノスは低く呟くと、陽光の下で水を返し続ける霊媒師のもとへ歩いた。
「流れは戻り始めている。だが、止めれば再び閉ざされる」
女は初めて肩を震わせ、涙を見せた。その場に跪くと手を組んで祈った。
「ゼノス様の恩寵に感謝を」
ゼノスは答えなかった。神はただ蒼穹を眺めた。花は今日もそよ風に揺られていた。二筋の流星がゼノスの脳裏を過った。




