第一話:秘された名
語らぬことは欺くことではない。そう定めなければ、ゼノスは次の言葉を口にできなかった。
再び目を開いたとき、白い水瓶はなお広間の中央に置かれていた。
「お戻りになったのですね、ゼノス様」
傍らに控えていた神官の一人が、安堵を押し隠すように頭を垂れた。
夢は神にのみ許された現世の外側である。そこに何があったかを問うことはたとえ職務のためであっても、神の領域へ踏み込むに等しい。
神官は一度口を閉ざした。だが、やがて意を決したように続ける。
「恐れながら……星庭でご覧になったものを、お聞かせ願えますか」
ゼノスは答えなかった。差し出された白い手と、藤色の瞳が脳裏に浮かぶ。
「現世との接続を確認した」
「他にご覧になったものはございませんでしたか」
問い終えるより早く、神官は目を伏せた。
ゼノスは水瓶へ意識を戻した。
「人の姿をした残響があった。それだけだ」
白い手と藤色の瞳が、言葉の外に残った。
正体の定まらぬ存在を明かせば、神官たちは再調査を求めるだろう。異変の原因として、現世へ引き出そうとする者も現れるかもしれない。
今、それを許す理由はなかった。故にイルの存在を伏せた。
それでも、彼女の名まで伏せる必要はなかった。
ゼノスはその齟齬に気づきながら、言葉を改めなかった。
「女と胎内の命への処置は、引き続き禁ずる」
「御意」
神官が頭を垂れる。その向こうで、白い水瓶の水面がわずかに揺れた。
ゼノスは揺れた水面を確かめた。睫毛が目元に淡い影を引く。そのまま、しばらく動かなかった。
逆さの天蓋は映っていなかった。星明かりに満ちた花野の中で、イルが水瓶を覗き込んでいた。
神官たちは誰一人、顔を上げない。彼らには揺れる水しか見えていないのだろう。
イルは彼に気づくと小さく首を傾げ、何かを口にした。だが、声は届かない。唇の動きに合わせて、水面へ細い波紋が広がるだけだった。
「霊媒師を内廷の小謁見室へ通せ。人払いも」
「承知いたしました」
神官たちが動き始める。その気配にもイルは水面の向こうから彼を見つめ続けていた。
* * *
内廷の小謁見室には、大広間のような威容はなかった。低い天井に装飾のない白い石壁。中央には小さな御座が据えられ、その向かいに客人用の椅子が一脚置かれているだけだった。
厚い扉はすでに閉ざされ、室内には霊媒師の浅い呼吸だけが残っていた。
女は椅子の縁へ腰掛け、両手で腹を覆っていた。
「ゼノス様……」
呼びかける声は小さかった。けれど、一音ごとに確かめるような重さがあった。
「我が子は今も私の子なのでしょうか」
「今はまだお前の内にいる」
ゼノスは水瓶の満ちた縁を確かめた。
「だが、水はそう認識していないらしい。名は与えていないのか」
「名を、ですか……恐れながら我が一族では、生まれる前の命に名を与えることを禁じられております」
「星を得る前に定めを縛ることになるからか」
「はい」
名を与えれば現世へ結び止めることはできる。だが、それはまだ存在しない運命を先に選び取ることでもあった。
「では、普段は何と呼んでいる」
「我が子、と呼んでおります」
「それでいい……だが、水はその命をお前に連なるものとして映していない」
「では、名を与えよと仰るのですか」
「真名ではない」
霊媒師が顔を上げる。
「星を得るまでその命を指し示す仮名だ」
「その仮の名を……ゼノス様より賜ることは叶いませんでしょうか」
女は腹を覆ったまま、慎重に言葉を継いだ。
「ゼノス様より賜った名によって、この子が現世へ結ばれるのなら――」
「それを約することはできない」
女が顔を上げるより先にゼノスは告げた。
「その名が示すのは今ある居場所だけだ。生まれる未来を約するものではない」
「それでも……どうか、その名をお授けください」
ゼノスは、願いを退ける気配のない女を前に黙した。
その顔に安堵はなかった。
それでも、願いを取り下げる気配もなかった。
やがて、ゼノスは一つの名を告げた。
「ゼニア」
「ゼニア……」
女は腹を覆う手に、そっと力を込めた。まだ何者をも指さなかった音を我が子へ結びつけるように、もう一度だけ胸の内で繰り返す。
「恐れながら、その名にはどのような意味がございますか」
「星を得るまで神の記憶に預けられた命をそう呼ぶ」
女がもう一度、腹へ向けてその名を呼んだ。白い水瓶の水面に細い波紋が走り、縁まで満ちていた水がほんのわずかに沈む。
水はわずかに減った。それでも、星庭へ続く流れは残っていた。
その後も裁定は続いた。旱魃、疫病、国境の争い。ゼノスはいつもと変わらず祈りを聞き、いずれにも偏らぬ答えを返した。声と声の狭間には、藤色の瞳が残り続けた。
* * *
夜の神殿は祈りの絶えたあとの静けさに沈んでいた。白い水瓶だけが灯りの落ちた室内で微かな星明かりを湛えている。
ゼノスは眠りを待たず、その水面へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、波紋の奥で白い花野が開く。
道が彼を招いたのではない。今度は、ゼノス自身がその先を望んだ。
足を下ろすと白い花野は前と同じ星明かりの中にあった。
歌だけがなかった。
塔へ続く道の半ばに、イルが立っていた。
「また来たんだね」
そう言うと少女は少し首を傾けた。
「ああ。水の流れを戻す方法を探しに来た」
「方法……」
イルは目を伏せた。栗色の髪が頬へ落ち、星明かりがその隙間を淡く滑った。
水の帰り道、と彼女は小さく繰り返した。やがて何かに呼ばれたように踵を返し、花野の端に置かれた水瓶へ歩いていった。
「水を返す時間だった。ゼノスもやる?」
彼は答えず、イルの隣に立った。
少女が水を汲み、白い花の根元へ注ぐ。
水音だけが二人の間に落ちた。
「いつもしているのか?」
「うん。水は減らないけど、返さなきゃいけないの」
「心当たりは?」
「分からない。そうしないといけない気がするから」
塔の窓辺に、もう一つの水瓶があった。
減らぬ水は、そこにもあった。
ゼノスはすぐに塔へ向かった。
「どうして急ぐの?」
答えず、窓辺の水瓶を抱えて戻った。満ちた水を白い花の根へ注ぐ。
水は音もなく土へ消えた。水瓶の縁にわずかな空きが生まれた。
「減ったね」
「ああ。水に還る場所ができたらしい」
「それなら、君の困り事もなくなる?」
「まだ分からない。同じことを現世でも試す」
ゼノスは水瓶の縁に生じたわずかな空きを、指先でなぞった。
閉ざされていた流れに初めて道ができた。
この道を絶やさず、現世までつなぐ必要がある。
「明日も水を返してくれ」
「ゼノスも来る?」
白い花の先で、水滴が一つ落ちた。
「必要なら来るよ」
「うん。じゃあ、待ってる」
イルはまた柄杓を水へ沈めた。その音を最後に、花野は遠ざかった。
* * *
現世では柄杓の落ちる音だけが残っていた。星明かりが消え、代わりに暗い天蓋が水面へ戻ってくる。
星庭の水瓶は向こう側にある。それでも、二つの器を流れる水は同じだった。
捨てても減らぬ水は何かへ返せば減る。花である必要はない。だが、イルを思うと、花が良いように思われた。
ゼニアという名で命の居場所を示し、現世でも水に帰る先を与える。試すべきことは定まった。
ゼノスは控えていた神官へ告げた。
「霊媒師を起こせ」
神官は仰せのままに、と低く応じた。衣擦れの音だけを残し、夜の廊下へ消えていった。
ゼノスも水瓶を運ばせ、内廷の小謁見室へ向かった。白い大理石が月明かりを返し、回廊は昼間よりも細長く見えた。
ほどなく、眠りを断たれた霊媒師が連れてこられた。女はまだ眠りの名残を瞼に残しながら、それでも腹を庇う手だけは離さなかった。
「ゼノス様……何か、お分かりになったのでしょうか」
ゼノスはまず霊媒師を長椅子へ座らせた。
「結論から言う。水瓶の水を花に分け与えろ」
「……なぜ、花に?」
「星庭にも同じ水瓶があった。捨てても減らなかった水が花へ返した時だけ減った」
霊媒師は答えず、水瓶を見た。縁まで満ちた水は月明かりを映したまま少しも揺れなかった。
「それで、この子は助かるのでしょうか」
「まだ分からない。今夜は一度だけ試す」
ゼノスが命じると、神官は小さな鉢植えと柄杓を運び入れた。女は柄杓を受け取り、鉢植えの土へ水を注いだ。水が染み込むにつれ、水瓶の縁にわずかな空きが生まれた。
見守っていた神官がゼノスの前に一歩出る。
「ゼノス様、不躾ながらお尋ねします」
「構わない」
「この処置は今夜限りでよろしいのでしょうか」
神官は返答を待つように姿勢を正し、女の指は柄杓の柄から離れなかった。
誰も次の言葉を急がず、やがてゼノスが沈黙を解いた。
「否、続ける必要がある。俺も星庭の水を花へ返さなければならない」
「かしこまりました。では、星庭へ赴かれている間の御務めは……」
「日々の奏上はお前が取りまとめろ。裁定を要するものは、俺が戻るまで動かすな」
神官が拝命すると、ゼノスは霊媒師へ向き直った。
「明朝も水を満たし、同じように花へ分け与えろ」
「今、私の未来は貴方様の目には、どのように映っているのでしょうか……」
ゼノスは目を伏せた。死へ閉じていた未来に細い枝が一本だけ伸びていた。
「水瓶の水を忘れずに花へ返せ。これを毎日続けて変化を見よ」
「そうすればゼニアは……無事に産まれてくると」
ゼノスは静寂を選んだ。まだ、その問いに与えられる言葉はなかった。




