序章:沈黙の前奏曲
神は万物を等しく愛す。
一を選ぶことなし。
一を選び、これを慈しむ者は神に非ず。
神は万物の為に在る。
故に、その心は万に在り、一に在らず。
故に、神は何者にも寄らず。これを天命と云う。
神は独り在る。これを万象の理と云う。
――聖詩篇集『天謌星郷』第一巻・第一歌「無私」
* * *
全能の神ゼノスの膝元にはいつも祈りが満ちていた。
生まれた命が一つ願い、死にゆく命が一つ願った。世界が一日を終えるころには、朝に聞いた声の上へ、幾千もの声が積もっている。
「母の病をお治しください」
「神よ、豊穣を」
「我が国に勝利を」
声は重なりながら、互いの願いを押し潰していく。
ゼノスは座したまま、わずかに脚を組み直した。すると祈りは、風の止んだ葦原のように静まった。
「……続きを」
ゼノスは無数の声の中から、一つを拾い上げる。
「母の病をお治しください……」
病床に伏す女。その傍らで祈る娘。
幾つもの未来が、星のように彼の眼前へ瞬いた。
いずれも起こり得る運命である。ゼノスには、そのうち一つを選び取ることができた。
だからこそ、彼は選ばなかった。
「その命は、天命に委ねる」
娘の嗚咽が、静まり返った広間に落ちた。
ゼノスは次の声へ意識を移す。
「我が国に勝利を!さすれば、この苦難も終わる……!」
神は沈黙を選んだ。否定も、肯定もない。ただ男の言葉だけが、広間に残された。
「飢えを凌ぐのですら苦しいのですぞ!ああ、神の慈悲はここにはないのか!」
枯れ枝のような手が御前に伸ばされる。
「我が子は床に伏せている。乳の一口さえ与えられぬ。このままでは死んでしまうというのに――それでも、聞き届けてはくださらぬのか!」
叫びはやがて言葉の形を失った。男は臣下たちに引かれ、慟哭だけが広間の外へ遠ざかっていく。
ゼノスは、次の祈りへ目を向けた。口を開いたのは、列の末に立つ小柄な者だった。
「……どうか、一つだけ、お尋ねしたいのです」
先ほどの叫びよりも、はるかに小さな声だった。
薄青の祭衣がその女の位を語っていた。その衣からは陽の差さない土の香りが漂った。生者と死者の境に立つ者――霊媒師だろう。
彼女の未来へ意識を伸ばした瞬間、ゼノスの片眉がわずかに動いた。
子を生かす道。
子を失う道。
定めに従う道。
そこから逃れる道。
どの道もやがて一つに重なった。未来は選択の数だけ分かれていく。だが、女の姿だけがなかった。
ゼノスは胎内の命へ意識を移した。
未生の命にはまだ星が灯っていない。運命は名も形も持たず、ゼノスの目にも辿るべき光はなかった。
「申してみろ」
霊媒師は浅く息を吸った。
「……この子を、運命から外してください」
広間にかすかなざわめきが走った。
それが許されぬ願いであることを霊媒師も知らぬはずがない。それでも腹を覆う手は離れなかった。
「その訳は?」
ゼノスが問うと、霊媒師は背後へ目を向けた。
従者が一人、白い水瓶を抱えて進み出る。両腕でようやく支えられるほどの大きさで、縁まで満ちた水面には、広間の天蓋が逆さに映っていた。
「私どもの一族は、生まれる前の命を瓶に映します」
霊媒師は水瓶を見つめたまま続ける。
「水は胎内に宿る命そのもの。この瓶は……私の胎を映したものです」
ゼノスが指を動かすと、傍らに控えていた神官が水瓶を受け取った。
瓶を傾け、中身を床の水路へ注ぐ。澄んだ水が音を立てて流れ落ちた。
だが、神官が水瓶を起こしたとき、水面は先ほどと同じ高さにあった。
神官の手が止まる。
もう一度、注いだ。
水は確かに外へ流れている。だが、瓶の水面は揺れるばかりで、少しも下がらなかった。
「いつからだ」
「三日前からです。何度汲み出しても、満ちたままなのです」
「水が増えているのではないのか」
「いいえ。汲み出した水は残ります。ですが、瓶の中の水も失われません」
「何を封じた?」
「何も」
霊媒師の指先が、腹の上で震えた。
「この子を宿すまで、瓶に異変はありませんでした」
ゼノスは再び、女の未来を辿った。
子を取り除く道。
女が死ぬ。
子を産ませる道。
女が死ぬ。
出産を遠ざける道。
なお、未来は同じ一点で閉ざされた。
どの道を選んでも、女の命だけが失われる。その先に残るはずの命は、星も未来も持たぬまま、なお彼の目を拒んでいた。
ゼノスは裁定を下さなかった。
「ほかに異変は?」
霊媒師は答えない。
伏せられていた顔が、恐る恐る上がった。
「……夢を見ました」
広間から、すべての音が消えた。
人は夢を見ない。
眠りのうちに現世の理を離れることを許されるのは、神のみ。それは聖詩篇にも記された、覆ることのない万象の理だった。
「言葉を選べ」
ゼノスの声音は変わらない。
霊媒師は青ざめながらも言葉を退けなかった。
「夢でした。眠っている間に見たのです」
「何を見た」
「庭を」
女は目を閉じた。失われかけた光景を瞼の裏から拾い集めるように。
「空はありませんでした。けれど、辺りは星明かりに満ちていました。地には白い花が咲き、その一つひとつが、呼吸するたびに光っていました」
「それだけか」
「声がしました」
「何と言った?」
霊媒師は首を横に振った。
「分かりません。ただ、泣いていたのだと思います」
「声の主を見たのか」
「いいえ。けれど――」
女の手が、再び腹を覆った。
「この子も、同じ声を聞いていました」
ゼノスは答えなかった。
人が夢を見た。星を持たぬ命がその夢を共有した。
器から水は失われず、女の未来はすべて同じ終わりへ閉ざされている。
一つならば、奇跡と呼べる。
二つならば、誤認を疑う余地もある。
だが、異なる理の綻びが一人の女のもとへ集まり、互いの存在を証明していた。
現世の理では説明できない。ならば、原因もまた現世の内にはない。
「その者を隔離しろ」
神官たちが顔を上げた。
「女と水瓶の双方を、許可なく動かすな。胎内の命にも手を加えるな」
「御意」
霊媒師が連れ出されたあとも、ゼノスの意識は水瓶から離れなかった。
水面に逆さに映っていた天蓋は、いつの間にか消えている。
代わりにその奥では、見覚えのない白い花が星明かりの下で揺れていた。
「星庭を開く」
神官たちの間に動揺が走った。
星庭。
神々の夢と、世界に生まれる以前の理が眠る場所。
ゼノス自身、そこへ赴く理由を持ったことはない。
今、この時までは。
* * *
Chilu li xiu, luse mia, posa.
歌が聞こえた。
ゼノスは、空のない庭に立っていた。
淡い花の香りが、薄絹のように辺りへ滲んでいる。すぐにも消えそうでありながら、どこか懐かしく、物寂しい。
遠い昔に知っていた場所を、思い出しかけるような香りだった。
白い花々の影は、示し合わせたように同じ方角へ伸びている。不自然なまでに整然とした光景を、ゼノスは美しいと認めた。
現世の理から外れた美しさだった。
「秘境、か」
現世のどこにも属さず、現実より物語に近い場所を人はそう呼ぶ。
祈りや詩の中では幾度も聞いた。だが、自ら目にするのは初めてだった。
Luse a la fenestra. Ruen li suenos.
再び歌が聞こえた。
幼い声でありながら一音の迷いもない。数えきれぬ歳月を、同じ旋律と共に過ごしてきた者の静けさがあった。
ゼノスは歌声を辿り、花野へ一歩を踏み出した。
その先に一つの塔が見える。
O filiu d’astr. Lassa me, ra.
「ラ」の音に、ゼノスの足が止まった。
神にのみ捧げられる、古い装飾語。
星庭に神を知る者はいない。
ならば、この歌は誰に捧げられている。
「……いや」
結論を急ぐ必要はない。
歌の主に会えば分かることだ。
花野を抜け、月白色の煉瓦で築かれた塔へ近づく。木製の扉を開くと歌声が塔壁に反響した。
引き延ばされた語尾が誰かを引き留める声のように残る。
ゼノスは奥へ続く階段を見上げた。一段上るごとに歌は鮮明になった。
L’astr sogna adun.
一節が幾重にも重なり、寄せては返す波のような奥行きを生む。やがて、歌は途切れた。
静寂の中をなお登り、踊り場へ足を掛けたとき、最初の旋律が再び降りてくる。終止の後に同じ歌が寸分違わず戻ってきた。
慰みに口ずさんだものではない。
ゼノスはその反復の意味を確かめるように階段を上った。
最後の一段を越えた先に、扉はなかった。
月白色の煉瓦に縁取られた入口の奥には、簡素な寝台と机、一脚の椅子が置かれている。机上には数冊のノートが重ねられていた。
人が暮らすためのものだけが、過不足なく収められた部屋だった。
その最奥、窓辺に少女がいた。
最後の音が唇から零れ、静けさが戻る。
少女はそこで初めてゼノスへ顔を向けた。
「……こんにちは。あなたは誰?」
「イェ=ノ・ル・アキニ・ゼノスだ。ゼノスと呼んでくれ」
「……そう。私はイル。多分、そんな名前だったはずだよ」
少女は窓辺を離れ、ゼノスのもとへ歩み寄った。淡い栗毛が揺れるたび、花に似た甘い香りが鼻先を掠める。
白い手が差し出された。その意味が分からず、ゼノスは手と少女の顔を見比べた。
藤色の瞳が、静かに彼を見返している。
「握手だよ。初めて会った人とは、そうするものだったはず。……でも、どうしてだったかな」
「俺に聞かないでくれ」
小さく息をつき、ゼノスは骨張った手を重ねた。細い指を傷めぬよう、力を加減して握り返す。
「ゼノスはどうしてここに来たの?」
「君はどう思う?」
「質問に質問……」
イルは黙り込み、藤色の瞳を窓の外へ向けた。
白い花々が風に揺れている。
やがて、小さく首を振った。
「……分からない」
イルは机上のノートへ手を伸ばした。
ゼノスも傍らへ歩み寄り、開かれた頁を覗く。
どの言語にも属さない言葉が丸く幼い筆跡で並んでいた。
「これは君が書いたのか?」
「うん。でも、この次の頁には何も残せないんだ。何を書いても朝になると消えちゃうの」
部屋の隅には、水瓶が置かれていた。
霊媒の一族に伝わる古い戒めが脳裏を過る。
――水瓶が満たされる前に、水を減らしなさい。
注いでも減った結果が残らない水。
書いても記した結果が残らない頁。
「イル。その白紙を一枚、切り離せるか」
「破ってもいいの?」
「構わない」
「でも、破ったら戻せないよ」
「だから試す」
イルは白紙を見つめたのち、綴じ目から慎重に破り取った。
「水へ触れさせてくれ」
水瓶の前へしゃがみ込み、紙の端を水面へ重ねる。
水がゆっくりと紙を這い上がった。
その跡に、一つ、また一つと文字が浮かぶ。
イルの筆跡だった。
同時に、水面がはっきりと沈んだ。
「減った」
イルが水瓶を覗き込む。
ゼノスは濡れた頁へ目を落とした。
星に帰りたい。
でも、ここは私の星じゃない。
水なら、どこへでも流れていく。
器から溢れた水は、ここではない場所へ流れる。
だから、水瓶をいっぱいにした。
「星に還るとはどういう意味だ?」
「難しいよ」
「ここが星だろう」
「ううん。違う。私の星は、ここじゃない」
イルは水瓶の方へ顔を巡らせた。
「水瓶をいっぱいにした。そう書いてあるからたぶん私がしたんだと思う」
「どこへ流すつもりだった?」
「分からない」
水面へ顔を寄せ、小さく首を傾げる。
「でも今は知らない誰かの声がする」
「一人か?」
「分からない。声は一つだけど、その奥にもう一つある」
「何と言っている?」
「一つは帰りたいって。もう一つはまだ言葉を知らないみたい」
霊媒師の声が脳裏に蘇った。
――この子を、運命から外してください。
ゼノスは水瓶の傍らへ膝をつき、水面を覗いた。
星々の間を白い花が漂っている。
その奥で、人影が揺れていた。
腹を抱いた女。
広間へ持ち込まれた器と星庭の水瓶。二つの水面が遠く隔たった場所をつないでいる。
「君が満たした水は、星へ流れてはいない」
「そうなの?」
「少なくとも、今は別の場所につながっている」
イルの指先が水瓶の縁をなぞった。水面の奥では、女の姿が揺れていた。
「じゃあ、この人は迷子?」
「女ではない」
女の腹に、淡い光が灯る。
「その内にいる者だ」
「小さい声の方?」
「ああ」
イルが水瓶の縁へ手を置いた。
細かな波紋が広がり、星々の像がほどける。代わりに、広間の白い天蓋が逆さに浮かび上がった。
「この子、星を持っていないね」
「まだ生まれていない」
「そう」
イルはしばらく水面を見つめていた。
「でも、どうしてここにいるんだろう」
その言葉と同時に、水瓶が大きく震えた。
水面に亀裂のような波が走り、白い花々が光の底へ沈んでいく。
「イル」
ゼノスが名を呼ぶ。
少女は顔を上げた。
「また来てくれる?」
答えるより先に、塔も、花野も、少女の姿も遠ざかっていった。
次に目を開けたとき、ゼノスは再び広間の座にいた。
白い水瓶はなお目の前で静かに満ちている。
その水面に天蓋は映っていなかった。
星明かりに満ちた花野の中から、藤色の瞳をした少女が彼を見つめていた。
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