第九話:暮れゆく先に
年の瀬の神殿では、大勢の神官たちが一年の埃を払っていた。
ルカは大きなバケツへ両手を入れ、雑巾を絞っていた。
冷水に浸した手は悴んでいたが、ルカは祭具を磨き始めた。
「ルカくん、今日も手伝ってくれてありがとう」
「どういたしまして!」
「来てくれるのは嬉しいんだが、孤児院の方はいいのかい?忙しいだろうに」
「皆がいるし、俺はこっちを手伝いたいから来たんだ」
ルカは屈託なく笑い、神官もつられて笑みを零した。
祭具を磨き終えると、ルカはそれを脇へ置いた。
広間では香炉や燭台が次々と運び出され、普段は動かされない長椅子まで壁際へ寄せられていた。磨かれた床には朝の光が淡く伸び、あちこちで布を絞る音や短い掛け声が重なっていた。
その賑わいの向こうから、一定の足音が近づいてきた。
人々の間を縫うように、銀髪の人影が姿を現した。
その姿に気づいた神官が、恭しく頭を下げた。
「ゼノス様、おはようございます」
ルカはゼノスの元へ駆け寄った。
「ゼノス様、おはよう!」
「ああ、おはよう。今日も来ていたのか?」
「うん。ゼノス様の宿題の答え、見つけたいから」
「答えは見つかったか?」
ルカは首を振った。濡れた雑巾を握ったまま、視線を床へ落とした。
ゼノスは彼の栗毛を撫でると、膝を折った。
「『模範』という言葉の意味は分かったか?」
「うん……」
「なら、思い悩まなくていい。俺も掃除に参加するから、見ていれば何か分かるかもしれない」
「本当!?」
年配の神官がルカの名を呼んだ。ルカは短く返事をし、彼の元へ向かった。
ゼノスもその後に続いた。
「ルカ、来てくれたか。向こうの窓を頼めるか?」
「うん、いいよ。先生」
ルカは二つ返事で引き受け、窓辺を見た。高窓は朝の光を静かに反射していた。
「俺も手伝おう」
「ゼノス様、朝のご挨拶を申し上げます」
「ああ、ありがとう」
神官は頭を下げ、ルカへと視線を向けた。
「ルカ、窓枠から先に拭きなさい。硝子はその後だ」
「はーい!」
ゼノスは窓辺へ向かうルカを見送り、神官へ視線を戻した。
「俺は何をしたらいい」
「では、ルカと共に高窓の掃除をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「分かった。たしか、君は腰を悪くしたのだったな」
「お気遣いには及びません。高所は難しいですが、他の務めに支障はございません」
「そうか。なら、書庫の方を頼めるか」
「承知いたしました」
神官は深々と頭を下げると、数人を連れて書庫へ向かった。
ゼノスはルカの傍らに立つと、袖を捲った。
「ゼノス様、高いところお願いしてもいいか?」
「構わないよ」
ゼノスは脚立に登り、高窓の枠へ布を滑らせた。積もっていた薄い埃が拭われると、朝の光が硝子越しにいっそう明るく差し込んだ。
下ではルカが、時折その姿を見上げながら窓枠を磨いていた。
高窓の掃除を終えると、ゼノスは脚立から降りた。
ルカはふと祭壇の方を見た。祭壇の上部は埃が薄く積もっていた。
それに気づいたルカはゼノスの袖を摘んで、指をさした。
「ゼノス様、あそこの掃除やろう」
「君は先に行っててくれるか?俺は残りの長机や椅子を退かすよ」
「分かった」
ゼノスの元から離れようとしたそのとき、彼に声をかけられた。
「ルカ、滑りやすいから気をつけてくれ」
「うん、気をつけるよ」
ゼノスはそれだけを言い残し、両手で長机を持ち上げて壁際に寄せた。
ルカは祭壇から、その姿を目で追った。
ゼノスは重い長机や長椅子を一人で運び終えると、神官たちに声をかけた。手が空くたび、他にすることはないかと尋ねていた。
ルカはしばらくその背を見つめ、雑巾を握り直した。
祭壇に向き直り、雑巾でひと拭きすると、埃の下から木目が現れた。ルカは残った汚れも丁寧に拭き取り、祭壇に艶を戻していった。
ルカは雑巾を洗い、水を替えるため、バケツを持って外へ向かった。
太陽は寒空の真上に昇っていた。バケツの水を捨て、蛇口を捻ったそのとき、鐘が鳴った。
ルカは鐘の音に耳を澄ませた。
「もうお昼か……ゼノス様たちはどうするんだろう?」
ルカはバケツを持ち直し、祈りの広間へ向かった。
孤児院の子供たちがルカの傍らを駆け抜け、賑やかな笑い声が廊下の先へ遠ざかっていった。
広間へ近づくと、神官たちが長机や長椅子を元の場所へ運んでいた。仕事を終えた者たちは、連れ立って食堂へ向かっていた。
ルカは広間へ入り、ゼノスの姿を探した。
人影の減った広間で、彼はまだ一人、床を磨いていた。
「ゼノス様!」
「ルカ、どうしたんだ」
「もうお昼だ。一緒に行こう」
「ああ……」
ゼノスは立ち上がると、広間へと視線を巡らせた。
「行こうか。今日は君も食堂で食べよう」
「やった!どんなのがあるんだ?」
二人は祈りの広間を出て、食堂へ向かった。
廊下の先から焼けた小麦とチーズの匂いが漂い、食器が触れ合う音、神官たちの話し声が聞こえてきた。
中へ入ると、大皿に乗せられたパン、湯気が立ち上る貝と根菜の白い煮込み、彩り豊かな蕪と林檎のサラダが目に入った。
ルカは丸卓に近寄ると、ゼノスの方へ振り返った。
「ゼノス様、これ、美味しそうだな!」
「食べたいものが見つかったのか?」
ルカは大きく頷くと、蕪と林檎のサラダを指さした。
「これ。林檎なのに、なんで蕪と一緒なんだ?」
「どうしてだろうな。俺も考えたことがなかった」
「ゼノス様も知らないのか?」
「ああ。美味しいから疑問に思わなかった」
ルカはサラダが盛られた皿をじっと見つめた。ゼノスが手を差し出すと、ルカは迷わずその手を取った。
二人は配膳台の前に並んだ。ルカは蕪と林檎のサラダを皿に取って、近くの席へ運んだ。
ゼノスは二人分のパンを皿に取り、貝と根菜の白い煮込みを二つの椀によそった。
ゼノスが席に腰を下ろすと、ルカは手を合わせて待っていた。
「ゼノス様、お祈りやろうぜ」
「祈りか」
ゼノスは祈ったことがなかった。
何を口にすべきか思案していると、料理を手にした年配の神官が近くを通りかかった。
「あ、先生!一緒に食べようぜ」
「私もか?構わないが……ゼノス様。よろしいでしょうか?」
「ああ、席は空いているから座ってくれ」
年配の神官が椅子を引き、腰を下ろすと三人の間に短い沈黙が落ちた。
神官は一つ咳払いをし、祈りの言葉を口にした。
「今日の糧と、これをもたらしたすべての手に感謝を。受けたものを忘れず、我らもまた、誰かを支える者でありますように」
「……かっこいい祈りだな」
神官は祈りを終えると、静かに「いただきます」と口にした。
「先生、いただきますってどういう意味だ?」
「感謝を表す言葉だ。ありがたく頂戴する、という意味だ」
「へー……なんか渋いな。俺もいただきます!ゼノス様も言おう!」
「ああ、いただきます」
三人はそれぞれ料理に手を伸ばした。ルカが焼き目のついたパンを齧ると、軽い音がして頬が緩んだ。
ゼノスはフォークで蕪と林檎を一切れずつ取り、ゆっくりと口に運んだ。しばらく味わったあと、もう一度サラダへ目を落とした。
ルカはゼノスの口元をじっと見つめていた。ゼノスが飲み込むのを待って、早速サラダへ手を伸ばした。
「ゼノス様、このサラダドレッシングがないけどそのまま食べられるのか?」
「ああ、林檎の甘さに加えて蕪の素朴な甘みがあるから、君も好きになると思うよ」
「まずは食べてみなさい。口に合うかは、それから決めればいい」
「分かった」
ルカはフォークで林檎と蕪を刺すと、思い切って頬張った。何度か噛むうちに、ルカの目がわずかに見開かれた。
「……美味しいな、これ!」
「食後の甘味はないが、果物や蜂蜜は料理に取り入れている。これもその一つだ」
「君は物知りだな。俺も勉強になったよ、ありがとう」
「私の知ることなど僅かですが、お役に立てたのでしたら幸いです」
ゼノスはわずかに口元を緩めると、貝の煮込みへと手を伸ばした。
「なあ、先生」
「どうした」
「『模範』について考えてるんだけど、先生は分かるか?」
神官は一度食事の手を止めて、ルカへ向き合った。
「他人に求めることを、まず己が行える者だと私は思っている」
「じゃあ、ゼノス様は?」
「俺は誰も見ていなくても、己の行いを違えない者だと思う」
ルカはパンとサラダを頬張ると、腕を組んだ。
「お前はどう思う、ルカ。一度、言葉にしてみなさい。考えも纏まるだろう」
「うーん……誰かが困っていたら助けられる人、かな」
「君はそう考えたんだな」
「なら、その答えを大事にするといい」
ゼノスは柔らかく微笑み、神官は小さく頷いて食事へ戻った。
ルカは二人を見比べてから、残っていたパンを手に取った。
その表情は、先ほどより少し明るかった。
* * *
回廊から差し込む夕日は、ゼノスの銀髪を淡く染めた。ゼノスは星庭へ向かっていた。早足で歩くその姿を見る者は、誰もいなかった。
星庭へ入ると、薄く霞がかかっていた。
花野が静かに広がり、その先に水面が淡く光っていた。
少女は池のほとりで本を読んでいた。
「イル、こんばんは」
「こんばんは、ゼノス。今日は遅かったんだね」
ゼノスはイルの隣に腰を下ろし、彼女の手元を覗いた。
「紀行書を読んでいたのか」
「うん。面白いから」
「それは良かった」
ゼノスは微笑み、イルの頭を撫でた。イルは嬉しそうに目を細め、ゼノスを見つめ返した。
「君は今日、何してたの?」
「年の瀬だから掃除をしていたよ」
「年の瀬?」
イルは一度本を閉じると、首を傾げた。
「今年ももう終わる」
「今年……ってことは、次の年もあるの?」
「ああ。一年が終われば、また新しい一年が始まる。それを新年と呼んでいる」
「新年……」
イルは花野へ目を向けた。霞の向こうで、花々は変わらず咲いていた。
「新年ってものは、今とは変わっちゃうの?」
「いいや、何も変わらないよ。ただ、節目を迎えるんだ」
「節目?」
「過ぎた一年を振り返って、これからのことを考えるための区切りだ」
「これからのこと?」
「新しい一年に何を望むのか、何を成したいのか。誓いを立てる者もいる」
「ゼノスは何かあるの?」
ゼノスは風に揺らぐ水面を眺めた。
「あるよ。……来年もこうして君に会いに来てもいいか?」
「うん。私も君に会いたい」
霞はいつの間にか晴れていた。
風は止み、水面には星が瞬いていた。
「新年を迎えた時の挨拶ってあるの?」
「明けましておめでとう、と言うんだ」




