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第41話 ルージュのサイン?

 奈子の言葉に、部屋の空気が止まった。静寂の後に口を開いた美弥子のリップ音が、やけに生々しく部屋に響く。


「……なんですって?」


「だから、私よりもお母さんの方が子どもだねって言ったの」


「っ、アンタ母親に向かってなんて口を利いてんのよ!? それに私のどこが子どもっぽいって言うの!?」


 立ち上がってそう叫ぶ美弥子に、奈子は婚姻届けを掲げて見せる。


 ――――そして、それを半分に破った。


「なっ!?」


「これにサインは出来ない。そもそも、私はまだ結婚出来る年齢に達してないし」


「……はあ? アンタの誕生日は今日でしょ。……7月9日だから、奈子。適当に付けた名前だけど、こうしてアンタの誕生日を覚えてられたのはそのおかげだからね」


 こちらを傷つけようとして振るわれる言葉を、奈子は表情を一切変えることなく受け止めた。


『――――奈子』


 優しい声で名前を呼ぶ浮気くんを思い出す。大事そうに、他の人に取られないように牽制するかのように、名前を呼ぶ彼。


 その声を思い出せば、美弥子が適当に付けたと言う自分の名前も悪くない。素直に、そう思えた。


「お母さん、知らないんだね。法律が改正されて、今は男女ともに18歳にならないと結婚出来ないんだよ」


「……は? え、嘘でしょ」


「嘘じゃない。浮気くんが嘆いてたから。あと2年以上待たなきゃだって」


 そのことを知った早苗たちがドン引きしていたのもよく覚えている。浮気くんも同い年なんだから、嘆いても意味ないのに。


 それもあって、奈子は法改正のことを調べたことがあるのだ。16歳になったばかりの奈子は、結婚することが出来ない。


 これは、高校生でも知っていること。


「なのにそんなことも知らないなんて、やっぱり貴方の方がお子様ね」


「っ、~~~~~!!」


「あ、姐さん、俺も知らなかったんで」


 顔を真っ赤にして目を吊り上げる美弥子を、赤髪が宥める。彼の言葉が本当なら、この2人は本気で今すぐ社長とやらと結婚させようとしていたらしい。


「――――お母さんは私に大人になるために、沢山の男の人に愛を乞いなさいって言ったけど」


 奈子は制服のスカートのポケットに手を入れる。そして、取り出したもの――美弥子に渡されたルージュの蓋を開けた。


 破いた婚姻届けに、ルージュの先を走らせる。宙で手のひらを机にして書いているし、そもそもこれは紙に字を書く道具ではない。ガタガタと歪な文字が、それを如実に表していた。


(でも、お母さんが言っていたことだってこれとおんなじ。知らないから……ううん。目を逸らしているから、どこか歪になる。おままごとで満足しているうちはいいけど、いつか現実が自分を圧し潰しにやって来る)


「お母さんはもっと現実を知った方がいいかもしれないね。このルージュ、なんかベタベタするしペンとしても役に立たないの。お母さんの名前も書いてみたのにこんなにグチャグチャ。――――でも、おままごとには丁度いいのかな?」


 奈子は婚姻届け――紙面いっぱいにひらがなで美弥子の名前を書いたそれを彼女に見せる。そしてルージュと婚姻届けをテーブルに投げた。


「――――子どもの落書きみたいで、お母さんのサインに使えるから」


「っ、黙って聞いてれば、調子に乗って! そんなことを言って! アンタなんかに、誰にも望まれずに、愛されずに生きてきたアンタなんかに、馬鹿にされる女じゃないのよ私は!!!!」


 美弥子が金髪を振り乱して腕を振り上げる。その姿は、先ほどまで優雅に腰かけていた女と同一人物とは思えない。


 恰好ばかりが浮いていた先ほどよりも、この少々黴臭い部屋には似合いの姿かもしれないが。


「――――姐さん、そこまでです」


「な!? なんでアンタが止めるのよ! 離しなさい!」


 奈子の顔を打とうとしたであろう美弥子の手を掴んだのは、音もなく2人の間に割って入った青髪の男だった。


「お嬢の言うとおり、こんなのはただのおままごとですよ。もう、やめましょう」


「そんなこと出来るわけないでしょ!? 16歳で結婚出来ないなら、婚約だけすればいいじゃない! それか18歳だと嘘をついてあの変態の元に送ればいいのよ!」


「それではウチの社長との約束も反故にすることになりますが」


「あんなのただの口約束じゃない! こっちのお願いに頷いたのは貴方たちでしょう!? なら、最後まで手伝いなさ――――」


 青髪に言い募る美弥子の声が途切れる。代わりに響くのは、テーブルが床に擦れる音と女の悲鳴。


 ――――男が美弥子をテーブルへ投げ飛ばしたのだ。


「きゃあっ!?」


「姐さん!? っ、お前なんで――」


「社長をコケにした人間の口を塞いだだけだ。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまでとはな。殴られないだけでも有難いと思え」


 そう言いながら青髪は、外したサングラスを放り捨てた。そして、胸ポケットから黒縁の眼鏡を取り出す。眼鏡のブリッジを中指で押し上げた男は、前髪を掻き上げながら目を細める。


「茶番が見てられなくて、度付きのサングラスを買ったんだが。こうしてクリアな視界で見ると余計に憐れな女だな」


「っ、貴方最初から」


「まあ、お前がウチの会社にしつこく出入りするから俺がこんなことをしなくちゃならなくなったんだ。確かに過去に幹部の愛人だったのは事実かもしれないが、それだけでウロチョロされるのも迷惑なんだよ。惚れられた男の管理も出来ねえし、最近では警察もお前のことを認識しているみたいでな。俺はお前がこれ以上会社の不利益になった場合にすぐ対処するための人員というわけで貸し出されてたに過ぎない」


 全く迷惑な話だ、と息をつく男を美弥子と赤髪が信じられないというように目を見開いて見つめる。


「この裏切り者がっ!!」


 赤髪は美弥子よりも先に状況を理解したのか青髪の男に向かって一歩を踏み出した。


 けれども、赤髪はそれ以上動くことが出来なかった。


「そうだ。それ以上喚くなよ。――――でないと体に風穴が開くぞ。それともこれも玩具だと思うか?」


 ――――男の手には、黒く光る拳銃が握られていた。

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