第36話 写真とカチコミ?
「御園、先輩……」
「どうして泣いてるの……って、浮気のことに決まってるか」
「……っ」
「その様子じゃあ、まだ思い出さないんだね」
御園の言葉に、奈子は頷いた。それを見て御園は、静かに扉を閉める。
奈子は必死に目元を拭うが、涙腺が馬鹿になってしまったかのように涙が止まらない。引きつったように息をする奈子の背を、御園が軽く撫でてくる。
「落ち着いて。ゆっくりと息を吐いて」
御園の声に合わせて息を吐く。吐いたら、息を吸う。それを何度か繰り返すと、奈子の息も落ち着いてきた。
(……こんなことになったの、久しぶりだ)
「……先輩、すみません」
「うん。もう平気そう?」
コクリと頷くと、御園は奈子の隣に座ってこちらを覗き込んでくる。そして、御園の細長い指がそっと奈子の目元に触れた。
「で? にゃーちゃんはなんで泣いてたの?」
「なんでって……」
「浮気が自分のことを忘れたのが悲しかったから? それとも浮気が他の女の子を口説いているのに怒って泣いてるの?」
問われた奈子は、唇を噛みしめた。それを見た御園が「コラ、噛まない」と言ったので、そっと力を抜く。けれども何かを噛みしめたい衝動が収まらなくて、奈子は数回小さく歯を鳴らした。
「…………わかんない」
「ふーん? わかんないんだ。でも、にゃーちゃんが今考えてるのは浮気のことだよね」
「……ん」
「なのに、自分の気持ちがわからないんだ?」
再び頷いた奈子に、御園はどこか呆れたように息を漏らした。それを奈子が不思議そうに見ていると、彼は微笑した後に奈子の肩を押す。コロリとソファに転がった奈子を、御園は妖しい笑みを浮かべて見下ろしてからカメラを机に置いた。
「――じゃあ、やっぱり僕と浮気する? いや、浮気にはならないのかな」
「……え?」
至近距離で見つめてくる琥珀色の瞳、背中に感じる柔らかさ。そして伸し掛かって来る体重と、軋むソファの音。
――――奈子は、御園に押し倒されていた。
「御園先輩?」
「にゃーちゃんは、僕のこと嫌い?」
突然の問いに、奈子は首を振る。それを見て御園は、目を細めて笑みを深めた。御園の膝が、奈子の足を割って入って来る。
「じゃあ、好き?」
「…………うん」
始めは浮気くんのことを揶揄ってばかりの御園のことが、少し苦手だった。けれどもわからないことを聞けばちゃんと教えてくれるし、奈子の言動にだって呆れはしても蔑んだりはしてこない。
あじさい祭りの時は、彼を見るとモヤモヤもしたけれど。後輩には面倒見がいい彼のことを、奈子は好いていた。
「ふぅん。……なら、問題ないよね」
「なに、が――――」
――――迫って来る琥珀色の瞳に、奈子は目を閉じた。
*
「……ひょっと、そんらにおされると、いひゃいんらけど」
「あ、すみません」
自分の手のひらの中でそう言う御園に、奈子はパッと伸ばしていた腕を引いた。口元を撫でる御園に、奈子も自分の手のひらをワイシャツに擦り付けた。
「ちょっと、さすがにその反応は傷つくんだけど?」
「……すみません?」
「はあー僕のキス、結構貴重なんだよ? 僕のこと好きなら受け入れてくれてもいーのにさ」
ソファの上で肩を竦める御園を奈子は瞬きながら見上げる。
奈子は、御園からのキスを自分の手で拒絶した。
眉を下げてシクシクと目元を覆う彼の様子からは、本当に傷ついているようには見えない。けれども、弁明はしたほうが良いかと奈子は口を開いた。
「んと、先輩のことは嫌いじゃないけど……そういうのをするのは、違うかなって」
「ふうん? 浮気とはしてたのに?」
御園の言葉に、奈子は目を見開いて彼を見上げた。
「……なんで、知って」
「あ、やっぱりそうなんだ。でもあんだけお互いの首にキスマークや噛み跡があれば、やることはやってんだなって大抵の高校生なら察するでしょ。長田は気づいてないっぽいけど。先生も、しばらく微妙な顔してたし」
「…………」
「僕と浮気、どっちも好きなのにそこは違うんだ。それは、なんでだろうねえ」
周囲の人間に浮気くんとのことが知られていたことを知って、奈子の顔は熱くなった。
(なんか、すごく恥ずかしいような気がする……)
頬に当てると冷たかったはずの手がぬるくなってくる。きっと、今の奈子の顔は真っ赤になっていることだろう。両手で顔を覆い隠したい衝動を抑えて、奈子は御園に言われたことを考えてみる。
(浮気くんとはキス出来て、先輩とは出来ない理由? だって――――)
「――――御園先輩、私のこと好きじゃないでしょう?」
「……いや、にゃーちゃんのことは好きだけど?」
にっこりと笑って言う御園に、奈子は首を振った。
「そうじゃなくて。……先輩の熱は私じゃない人に向いてるから」
奈子の言葉に、御園の目が見開かれる。それを見て、奈子はやはり間違っていなかったのだと頷いた。
「後輩として可愛がってもらってますけど、それは多分早苗ちゃんたちが私のことを好きだって言ってくれるのと近い『好き』だから。御園先輩の目が熱を向けるのはいつも――――んぐ」
奈子は口を手で抑えてくる御園に対して目を細めた。
「ひゃなひへ」
「…………うーん。今言おうとしたことを口にしないって約束してくれるならいいよ」
首を捻る奈子に、御園はため息を吐く。
「なんで自分の気持ちはわからないのに、他人の気持ちを察するのは上手なのかな。……まあ、言語化するのはどっちにしろ苦手みたいだけど」
(つまり、ええと? 先輩が好きなのは――――)
「フ、ゴゴゴ」
「こらこら。言わないって約束しないと離してあげないからね」
声音は優しいが、御園の目は笑ってない。奈子はゆっくりと頷いて見せた。
「ぷはっ……先輩、なんで言っちゃダメなの?」
「それも聞かれたくはないんだけど。…………僕とは年齢も立場も、全く違うからだよ。相手だって僕がそういう感情を向けているとは思いもしてない。勝機は薄い」
奈子から体を離してソファに座り直した御園は、前髪を掻き上げながら気だるげにそう言った。
「――――でも、諦めるつもりもない」
その瞳はどこか遠くを見ているようで。でも、琥珀は決意や強い意志を宿してキラキラと光っているようにも見えた。
「……なら、ただの後輩を押し倒している場合ではないのでは」
「ま、そうなんだけどね。余りにもにゃーちゃんがお子様だからさ」
いや、子猫様かな? と首を傾げる御園に、奈子はムッと口を尖らせた。
「……お子様でも、子猫様でもない」
「ええ? だって僕にはただの後輩を押し倒すな、好きじゃない私にはキスするなって言うのに。自分は浮気とそういうことをしてたんでしょう? 浮気には浮気してほしいって言って、僕のことも好きだって言ってくれたのに。――――矛盾してない?」
「…………」
口を開こうとするが、奈子は御園の言葉に返すことが出来なかった。
「答えられない? じゃあさ、僕や君の話で出てくる友人たちへ向ける『好き』と、浮気へ向ける『好き』はどう違う?」
「それは……ええと」
(早苗ちゃんやヒカルちゃんを好きだと思う気持ちと、浮気くんを好きだと思う気持ちの違い……)
「……ポカポカするのと、ギラギラ、ドキドキする? でも、浮気くんといても安心する」
「う~ん。これでもダメか……。あ、じゃあこれ見てよ」
再び呆れたように奈子を見る御園は、手を打ってからスマホを取り出した。
「……これ、私が撮った写真?」
「そ。あじさい祭りの写真を纏めるのにデータ送ってもらったでしょ。でもにゃーちゃん、関係ない写真まで送って来てるし。まあ、結構いい写真もあったから現像してあげようかと思って」
そう言いながら御園は綺麗な指で画面を操作していく。次々と変わる写真を、奈子はジッと見つめた。
「にゃーちゃんさ、カメラを渡した時に僕が言ったこと覚えてる?」
「……心が動いたら、シャッターを押す」
「そ。だからさ、にゃーちゃんが撮った写真はどれもにゃーちゃんの心が動いた瞬間を物理的に切り取ったものだってわけ。それだけその対象ににゃーちゃんがドキドキ、ワクワク……あるいはズキズキ、ソワソワ? してるんだってよくわかるよ」
見てるこっちが恥ずかしくなるくらいだよ、と言って差し出されたスマホを奈子は受け取った。
奈子は画面をゆっくりとなぞっていく。
(これは最初の頃……凄いブレブレだ。浮気くんの赤い頬しか映ってないのもある。……こっちは、朝家まで迎えに来た浮気くんが眩しくて撮ったんだっけ。……あ、これは早苗ちゃんに殴られて床に倒れてる浮気くん。こっちは篠原君と笑いながら喋ってる浮気くん……。というか)
「……浮気くんばっかり」
早苗や藤堂、篠原も映っているが、浮気くんの写真が圧倒的に多い。おそらく部活内で撮った写真以外が纏められているのだろう。指を動かすたびに出てくる浮気くんの顔とその目がこちらに向ける熱。それらを見て奈子の心臓がキュウと締め付けられた。
「……あ、これ」
「その写真、浮気と瑠璃ちゃんでしょ。…………僕、その写真を見てちょっと泣いたよ」
画面に映るのは、浮気くんと瑠璃。あの日切り取った、奈子にとっての光の写真。
写真の中の浮気くんは、瑠璃のことを優しい顔で見つめている。瑠璃もそんな彼のことを赤い目で見上げていた。
(この日は、色々あって……この時はなんだか胸が痛くて、でも2人がすごく眩しくて。震える手をなんとか抑えて撮ったんだっけ)
数週間前の出来事なのに、はっきりと思い出せる記憶だ。
「この日は僕にも嫉妬してたくせに、僕の写真はないんだから。意外と僕のこと警戒してるよね、にゃーちゃんは」
「……嫉妬」
確かにあの日の御園の写真は1枚もない。でも、あの時浮気くんと御園がご婦人方に囲まれた姿は思い出せる。思い出せるが……。
「……なんか、ムカムカしてきた」
「それが嫉妬だよ、子猫ちゃん。安心してよ。僕、浮気には微塵も恋愛感情ないから」
(嫉妬……)
「今もさ、にゃーちゃんが泣いてるのは嫉妬心も少なからずあるんじゃないの? あんだけ自分のことを好きだって言ってた男が他の女にちょっかい掛けてるんだから。怒りもあるけど、浮気が記憶を失ってるんだから怒りづらいしね。というか、情緒赤ちゃんのにゃーちゃんがこれだけ派手に感情を爆発させて泣いてるんだから、泣かせた浮気はにゃーちゃんにとっての特別なんでしょ。……あー言っててなんか面倒になってきたな」
そう言ってソファに背をつける御園。
「…………なる、ほど。つまり、私にとって浮気くんに向ける『好き』は特別?」
「お! そう、そうだよ、にゃーちゃん!」
「御園先輩のことを浮気くんから離してどこかに隔離したいと思った気持ちは嫉妬心……?」
「え、そんなこと思ってたの、にゃーちゃん……」
「でも、大人にならないと……愛とか恋とかわからないって。私は愛されたことのない子どもだからって……」
項垂れていた御園が奈子の言葉に顔を上げる。その表情は今日よく見る呆れたもので。でも、どこか困ったような……仕方がないなあと言っているようにも見えた。
「――――本当に愛されたことはないって思ってるの?」
「え……」
「君の友人や僕を含めた部活の先輩。……それから先生たち。そして浮気。僕から見たら、君のことが好きな人間は沢山いるように思えるんだけど」
「で、も……私は愛を知らない子どもだから、沢山の人に愛を乞いなさいって……そうじゃなきゃ、大人になれないって」
「うん? だから、にゃーちゃんは沢山の人にもう愛されてるでしょ」
不思議そうに首を傾げる御園に、合わせて奈子も首を傾けた。
「愛、されてる? 私が?」
「うん。にゃーちゃんは確かに猫みたいで自分の感情もよくわかっていない子どもっぽい女子高生だけど。素直だし、可愛いし。それに好意を受け取ったらそれを大事にして、自分なりに返してくれるでしょ。それを無意識にか、本能なのか。ちゃんとやってるから、皆もっと君を構いたくなるんだよ」
その筆頭は浮気だけどね、と奈子の頭を撫でながら言う御園。彼の言葉を奈子は頭の中で反芻しながら、ポツリと言った。
「……私、子どもだけど愛されてた? なら、浮気する必要もないし、浮気くんに浮気してもらう必要なかった?」
「うん。なんでそんな思考回路になったのかは皆目見当もつかないけど。……にゃーちゃんが浮気のことを特別好きだと思ってて、浮気はにゃーちゃんを一生離さないって言ってるんだから。浮気する必要なんて、ないでしょ」
そんなことを考えてたの? と頭を揺らしてくる御園は、奈子を見て肩を竦めた。
「そもそも、大人ってなろうと思ってなれるもんでもないでしょ。成人したらまあ、大人だって言われたり、見た目が大人っぽいとかは言われることあるけどさ。その境目って何って感じだし。大人に見えても、必死にその姿を取り繕っているだけかもしれない。大人と子どもの境目は人それぞれだし、簡単に推し量れるものでもないでしょ。子猫なのに、難しいこと考えすぎ」
「いたっ」
額を指で弾いた御園は、その指を奈子の胸元まで下ろした。
「大事なのは自分が何をしたいか、でしょ。大人とか子どもとかは関係ない。それに縛られる必要もない。ていうか年齢差なんて、糞喰らえだ。そうでしょ?」
(最後のは、ちょっと違うような……)
そう思いながらも、奈子は頷いた。それに満足げに笑った御園は、今度は奈子の顔を指さした。
「――――じゃあ、今にゃーちゃんは何がしたいの?」
「私は…………」
(お母さんが言っていた言葉は、お母さんの考えで……。でも、先輩が言うように大人と子どもの境界線ってよくわからない。先輩も大人っぽくて色っぽいけど、浮気くんや私を揶揄う姿は子どもっぽくもあるし。それに、先輩は年齢が離れてても諦めないって……。それが先輩のしたいこと、譲れないことなんだろうか。なら――――)
「――――私、浮気くんとちゃんと話がしたい」
「ん。出来るよ、にゃーちゃんなら」
優しい声音でそう言ってくれた御園に、奈子も頷く。彼にスマホを返してから、奈子はソファから立ち上がって御園を見下ろした。
「……でも、その前にやらなくちゃいけないことがある」
「やらなくちゃいけないこと?」
髪を耳に掛けながら問う御園に、奈子は頷いてからこう言った。
「――――カチコミ、する」
「へえ、カチコミねえ。…………えっ、カチコミ? カチコミって言った!?」
「うん。先輩、ありがとうございました。お礼は後でしっかりします。私、今日はもう帰りますね」
「え、ちょっとまっ――――」
御園の慌てたような声が扉の音でかき消された。けれど、奈子にはそれを気にしている余裕はなかった。
今はそう、久しぶりに試合へ臨むときのあの感覚。幼いころに感じていた高揚感に似た感覚だ。
「……そっか。私、浮気くんのこと好き、なのか」
自分から出した言葉に、ムズムズとする口元を抑える。チラリと廊下を見渡したが、誰もいない。授業をサボっている悪い子は、奈子と御園だけかもしれない。
でも、もうそんなことどうでも良かった。今は自分が浮気くんのことを特別に好きだと理解した高揚感と、やらなくてはいけないという使命感が奈子の頭を占めている。
(待っててね、浮気くん。――――今度は私が君に告白しに行くよ)
しかし、そのためにやるべきことがある。
腫れているであろう目元や唇の痛みよりも、決めた意志へと触れるかのように自分の胸元を触った。相も変わらず貧しいけれど、そこには今までにないほどの熱が宿っている。
――――奈子は、その熱に動かされたかのように駆け出した。




