第35話 この温もりは誰のもの?
「――――俺と、握手してくれないだろうか」
その言葉を聞いた奈子は、持っていた教科書や筆箱をギュッと抱きしめた。
「え゛、……いやあ、遠慮しておきます」
「む。そうか」
女子生徒の戸惑った声と、あっさりと引き下がった男の声にそっと息をつく。
――――そして自分に刺さる周囲からの視線から逃げるように、奈子は駆け出した。
「……どうして、逃げたんだろう」
女子トイレに駆け込んだ奈子は、鏡に映る自分を見る。そこに映る女は、顔色が悪くて唇も真っ青だ。今は7月で寒くはないはずなのに、なぜか手足が冷たい。
「…………」
スカートのポケットから、奈子は銀色の筒を取り出した。奈子の手のひらに収まるほどの大きさのそれは、美弥子から渡されたルージュだった。
奈子は、それを一度も使ったことはない。熊谷から冷蔵庫に入れるなと注意された後は、自分の部屋の机の引き出しに入れていたのだ。蓋を取ったことすらない。
冷たさを放つそれを両手で持って、奈子は左右に引っ張った。そして早苗がいつもしているように筒を捩じる。
――――奈子は、出てきた深紅を自分の唇に押し当てた。
「……気持ち悪い」
妙に生暖かく感じるのは自分の体が可笑しいのか。それともこの紅が元からそうなのか。奈子は脂っぽい感触に眉を顰める。
鏡の中の女の青白い顔に、真っ赤な唇だけが浮き出ているかのようだ。まるで口裂け女。いや、それにしては顔が幼過ぎて、恐怖よりも滑稽さが滲み出ている。
「やっぱり、似合わないなあ……」
擦ったせいで拳についた紅。口元から延びた赤は、まるで食べこぼしたケチャップソースのようだった。
――――奈子は、両手に溜めた水を自分の顔に叩きつけた。
*
「――――やっぱりあの男の首を落としてくる」
「……まあ、早苗がそう言うのも頷けるよ。私もまさかこんなことになるなんて、思ってなかったし」
「…………」
昼休み。早苗と藤堂と共に、奈子は昼食をとっていた。しかしいつもと違い、場所は教室や中庭ではなく新聞部の部室だ。
「――――浮気の記憶、いつになったら戻るのかな」
そう。今の浮気くんは、高校入学からの記憶を失っていた。
医者が言うには、頭部を殴られたことによって一時的に記憶を失っているらしい。らしい、というのはあの後駆け付けてくれた飯田と奈子を迎えに来てくれた熊谷から聞いたからだ。
正直、浮気くんのあの言葉以降の記憶が曖昧だった。それだけショックだったのだろうと熊谷は言ったが、奈子でこれなのだ。殴られた浮気くんの記憶が飛ぶのも頭では理解できる。
けれども、心は……気持ちはそう簡単に割り切れないのだと奈子は知った。
「……わからない。いつも通りの日常を送ってれば、ふとした瞬間に思い出すかもって。医者はすぐに思い出すだろうって」
「いつも通りって……今の浮気はいつも通りの日常なんて、送ってないよね」
藤堂の言葉に、コクリと奈子は頷いた。
彼女が言う通り、浮気くんは記憶を失う前とは違う日常を生きている。――――なぜなら奈子とはあれ以来、ほとんど話をしていないからだ。
『む。君は……同じクラスで、隣の席だったのか。あの時はすまなかった。今の俺は入学前までの記憶しかなくてな。――――改めて、よろしく頼む』
登校してきた浮気くんの差し出す手を、奈子は触れることなくその場から逃げ出した。反射的な行動だった。ただ、今の彼に触れるのが怖かった。
(もし、今の浮気くんに触れて……浮気くんが倒れたら? 他の女の子と一緒の……ううん。私じゃない他の誰かが彼の『運命』になる可能性だって、ある)
そう考えると、彼の隣で授業を受けることさえ奈子には苦しかった。病院まで来てくれた飯田と熊谷は顔色の悪い奈子を心配して学校を休んでいいと言ってくれたが、その提案には首を振った。1人でいると、余計に変なことを考えてしまうと思ったからだ。
けれども結局、最近の奈子は授業をサボりがちで浮気くんとは教室が違う授業くらいしか出席できていない。それについて、無理はするなと言ってくれる飯田やクラスメイト達には頭が上がらない。
奈子は自分のスマホのロック画面を見下ろした。
そこに映るのは浮気くんとのツーショット写真と、7月8日の文字。
『……奈子、そのカメラで撮るのもいいがな。今のスマホのカメラは凄いんだぞ』
『うん? そうだね?』
『……つまり、一緒に写真を撮らないか。そう言っている』
『ふふ……なら、最初からそう言えばいいのに』
御園から貰ったカメラに奈子が夢中になっていた時に、一緒に撮った写真だ。浮気くんに懇願されて、お揃いでロック画面に設定した。
写真の中の浮気くんは、背の低い奈子に合わせて屈んでいる。そして奈子の肩を抱いてこちらを見る目には、奈子の焦がれる――今の彼にはない熱が宿っていた。
(浴衣姿でも一緒に写真を撮ろうって、言ってたのに……)
金曜日に倒れた浮気くんは、入院することはなかったが数日は安静にしてろと言われたらしい。それに彼を心配した家族が迎えに来たため、寮ではなく実家に帰って行った。当然奈子とは会うことはなく、七夕祭りにも行かなかった。
彼のスマホも、飯田が言うには壊れて使えない状態だったらしい。おそらく、男たちから逃げようとした時に踏みつけたのが原因だろう。踏みどころが悪かったらしい。
土日を挟んでついでに月曜日も休んだ浮気くんは、火曜日の昨日に元気な姿で登校した。包帯も取れていて、授業も問題なく受けられる様子だった。
けれども――――。
「他の女にまた握手を求めに行くだなんて、記憶がないって言っても私には許せないっ!」
「早苗ちゃん……でも、仕方ないよ。浮気くんは、なにも覚えてないんだから」
高校に入学してからの記憶がない浮気くんは、再び女子生徒へのアピールを始めた。浮気くんの体質や奈子のことを知っているクラスメイト達は断固として拒否をしたが、他の生徒たちはそうでない者もいる。
単純に浮気くんの体質を知らない場合もある。……そして、奈子と付き合っていたことを知っていて今度は自分が浮気くんの彼女になろうと思っている女子生徒も極小数だがいるのだ。
「てゆーか、奈子と付き合ってるのを知ってるのに浮気が記憶喪失だからってアピールしてくる女は何なの!? だったら、記憶がある時に正々堂々と伝えろよっ!」
「それは中々難しいんじゃない? 浮気自身がそういう感情を意識的か無意識か、悉く粉砕してたし」
「かあ~~~! こう、むしゃくしゃするんだよ! だって、アイツが好きなのは奈子ちゃんでしょう!? なのに……それなのに、っ!」
叫んだ声を段々と小さくした早苗は、椅子から立ち上がって奈子を抱きしめた。
「どうしてっ! 奈子ちゃんがこんなにも傷つかなくちゃいけないんだよおっ!!」
「っ、早苗ちゃん……」
抱きしめてくる早苗は、とうとう大声で泣き出した。奈子が慌てて彼女の背中を擦るが、泣き声が酷くなるだけだった。
「早苗……。奈子、私たちは何度も言うように奈子の味方だよ。だから、辛いなら辛いって言ってほしい」
「…………ありがとう。でも、色々とありすぎて自分の感情もよく、わからなくて」
2人には、男たちのことは詳しく説明していない。ただ不審者に襲われたとだけ言った。それは飯田にそう説明するように言われたからでもあるし、奈子が2人を危険に巻き込みたくないと思っているからだ。
(浮気くんだって、私と一緒にいたから……付き合っていたから巻き込まれたんだ)
奈子が告白を受けなければ、浮気くんが怪我をすることもなかったかもしれない。
「そっか。……午後の授業はどうする?」
「……ここにいる」
「わかった。じゃあ、私たちは教室に行くね。また放課後様子を見に来るから」
そう言って早苗を引きずっていく藤堂を、部室から見送った。
飯田の厚意に甘えて、奈子は授業中この部室で自習をしている。本来では褒められたものではないが、飯田は今回の件についても奈子の話を馬鹿にせずきちんと聞いてくれた。
飯田が病院に来た時には既に豹我はいなくなっていたため、奈子がとぎれとぎれに説明したのだ。美弥子の寄越した男たちが、婚約話を持ってきたという突拍子もない話を、飯田は笑わずに聞いてくれた。尚且つ自分にできることはやらせて欲しいとも。
豹我については彼自身から他の大人たちに自分の名前を出さないで欲しいと頼まれていたため、飯田や熊谷には通りがかった親切な男性が助けてくれたと話してある。お礼を言えなかったと言う飯田に申し訳ないとも思ったが、豹我は恩人なのだ。そんな彼の要求を飲まないわけにはいかなかった。
(豹我くんが来なかったら……それにあの銃が、本物だったら)
「…………ちょっとだけ、寝よう。自習はそれからやればいい、よね」
最悪な「もしも」の光景を、奈子は頭を振ってかき消す。
そして、チャイムが鳴るまで眠ろうと机に突っ伏して目を瞑った。
*
『君は、誰だ?』
『大人になれてないから、大事な彼を失うのよ。そうでしょ? 奈子』
『――――悪いが、君の気持には応えられない。俺には、運命の相手がいるんだ。それに、君と一緒にいると危険な目に遭う。近くにはいたくないな』
『ほうら、やっぱり。貴方は可哀そうな子ども。自分が愛されているだなんて勘違いしちゃって、恥ずかしい子ね。ほら、早くこっちに来なさいよ。若頭は美男で優しいわよ。たあ~っぷり、可愛がってくれるわ。貴方みたいな子どものことが、大好きな人だから』
『もう俺に、近づかないでくれ。――――彼女以外の女と、浮気するつもりはないし、彼女を傷つけるつもりもない』
「っ、待って浮気く――――」
跳ねた体のせいで、椅子と机が音を立てる。
その音によって、奈子は自分が今まで眠っていたことに気がついた。
壁に掛けられた時計を見ると、もう既に最後の授業が始まっている。少しだけ寝るつもりだったのに、これでは立派なサボりだ。
「いや、今更かな……」
飯田のおかげで今はお咎めがないが、今後はそうもいかないだろう。自嘲するようにそう呟いた奈子は、ふと自分の肩へ掛けられたものに気が付く。
「……ブレザー?」
肩に掛けられていたのは、この学校の制服であるブレザーだった。しかし、7月にも入って未だにブレザーを身に着けている生徒はいない。奈子もワイシャツを着ているだけだ。
そこまで考えて、奈子はある記憶を思い出した。
『奈子、暑くないのか』
『うん。むしろ今日は肌寒いくらいかも。なんか、日によって肌感覚が可笑しくなる時がたまにあるんだよね』
『なるほど? だが、大体奈子はワイシャツ一枚だよな』
『うーん。家出る時に忘れるというか。毎日そうってわけじゃないし。普通に暑い時の方が多いから』
『――――なら、奈子が肌寒いと感じた時は俺が暖めてやろう。抱きしめて、あっためてやる。あとは……そうだな、奈子は部室で眠ることも多いだろう。後でブランケットか何かを用意するが、今はこれで対処しよう』
『浮気くんの、ブレザー?』
『ああ。俺はどちらかと言えば暑がりだし。部室に置いておいても問題はない。好きに使ってくれ』
『ありがとう。……浮気くんの匂いがして、落ち着くね』
『ン゛ン゛ン゛! そ、それは良かった』
確かあれは、あじさい祭りに行く前のことだった。それから何かとバタバタしていて忘れられていたが、浮気くんのブレザーは部室のロッカーに仕舞われたままだったのだろう。
「でも、どうして?」
一体誰が奈子にブレザーを掛けたのか。その理由は何なのか。これは本当に浮気くんのものなのか。
一度立ち上がってソファに移動してから、奈子は自分の腕にブレザーの袖を通した。羽織ったそれは、自分のブレザーよりも2回り以上大きい。
「おっきい……」
この大きさを、奈子は知っていた。抱きしめられると、すっぽり奈子の体を覆ってしまう彼の大きさだ。
鼻を袖に近づけてスンと息を吸う。薄く香るのは、緑茶の匂い。これが香水の匂いだということも、奈子は知っていた。
『祖父が香水好きでな。小さい頃に気に入った香水を俺が祖父にねだったらしい。それを今でも使い続けているんだ。そこまで派手じゃないし、日本人の鼻にも合うだろう?』
奈子は、この香りが――――浮気くんの匂いが好きだった。
「っ、浮気くん……」
彼が、ブレザーを掛けてくれたのだろうか。眠っている奈子に気を遣って? しかし、記憶を失っているはずの浮気くんが、そんなことをするだろうか。それに、ロッカーにブレザーを置いたことだって忘れているはずなのに。
絶対に、違うはずなのに――――。
「浮気くんの、ばかあ……。私のことを忘れちゃうなら、こんな……こんなこと、しないでよ……」
奈子の直感は、このブレザーを掛けたのが浮気くんだと言っている。確証はない。自信もない。しかし、違う人間が掛けたとはどうしても思えなかった。
目が熱くなって、息が苦しくなる。けれども、指先と心臓は凍えるように冷たくて。彼の温もりの残滓に縋るかのように、ブレザーを着た自分の体を抱きしめた。
でも、そんなことをしたって温もりは帰ってこない。奈子が失ったものは、戻って来てはくれないのだ。
(っ、どうして、浮気してなんて……言えたんだろう。そんなことを言わなければ、こんなことにならなかったんじゃないの? それとも私が子どもだから? 浮気をしなかったから?)
感情がとめどなく溢れて、涙と嗚咽に変わる。
赤子の様に、子猫の様に、ソファに丸まって泣く自分は、やはり大人になれないのだろうか。
奈子の泣き声が静かに響く部室だったが、それを断ち切るかのように扉が開かれる。
「――――にゃーちゃん?」
――――扉の前で目を見開いていたのは、カメラを首に掛けた御園だった。




