第29話 奈子の父親?
「アタシがそれを知っているとして、聞いてどうするつもり? 奈子に言うんですか? 父親のこと」
「そういう訳じゃねえけど……」
そう問いかけられて、飯田は答えに窮した。それは飯田自身も自分のこの感情を把握しきれていない証拠でもあった。
(……俺は、アイツの手を離したことを後悔しているんだろうか)
「――――自分の後悔をどうにかするためなのであれば、教えられません」
凛とした声に、飯田は俯いていた顔を上げて熊谷を見る。彼の瞳は、真っすぐに飯田を向いている。何か強い意志を持って貫いていることだけは、頭が働いていない飯田にもわかった。
「飯田先輩とあの男との間にどんなことがあったのかは知りません。ですが、今の奈子にとってあの男は姿も声も知らないただの他人です。そして、貴方も一担任でしかない」
「っ、それは」
「奈子は決して可哀そうな子なんかじゃない。けれど、世間一般から見た幸せの多くを経験していないのも事実。……高校に通い始めて凄く楽しそうな今、奈子に余計な負担も不安もかけないで欲しいの」
それは、飯田も同意する意見だった。特に初登校日に桜の木の下で眠っていた奈子の姿を知っている飯田は、友人や先輩、そして恋人に囲まれて笑う彼女を勝手に微笑ましく見守っていた。
(いや……アイツの娘かもしれないと薄々気づいていたから、他の生徒よりも注意深く見ていただけだ)
それでそのことを生徒である御園に指摘されているのだから、何が教師だ。
「……大木という苗字と、アイツに似た髪と顔を見てもしかしてと思った。それで熊谷の名を見た時から、心の中では確信してたんだろうな。アイツの娘だって。そう思ったら、そうとしか思えなくなった。…………勝手に保護者面してたんだよ、俺は」
新聞部に誘ったのも、浮気との交際を心配するのも。今日池まで汗だくになって駆け付けたのも。
「全部、自分の悔いを大木を見守ることで昇華しようとしてただけなんだな。……ほんと、教師としても大人としても失格だ」
再び下を向く飯田に、呆れたような声が降って来る。
「――――そんなオッサンの嘆きはどうでもいいんですけど」
「オ、オッサンって」
「高校生から見たら、アタシたちなんていい歳したオッサンですよ」
バッサリとそう言い捨てる熊谷に、飯田は眉を引くつかせた。まあ確かにあと数年で40にもなるという男だ。否定はできないし、する気もないのだが。
「……別に、大木に父親の話をする気はねえよ。少なくとも本人が知りたがらないなら。無理に突いて傷つけるつもりもねえ」
「なら、いいんですけど。あの男がどこで何をしてるかなんて、知りませんし」
「おい……じゃあ今までの問答はなんだったんだよ」
「ただの確認です。貴方が奈子をどう思っているのかの」
あらやだ枝毛がある! と言いながら髪をいじる熊谷に、飯田は項垂れた。大した情報もなく、昔の後輩に振り回されただけだったらしい。
(……なんか俺、今日は項垂れてばっかりじゃねえか?)
「…………なら、この話はこれで終いだな。あいつらもそろそろ上がってくるかもしれねえし」
これ以上情けない自分の姿を知りたくない飯田は、話を切り上げようとした。しかし、それも叶わぬ要望だったらしい。
「あの男の行方は知らない。けど、美弥子ちゃん――奈子の母親が怪しい行動をしているっていう情報が入って来てるの」
*
『…………怪しい? それは、どういう』
『宗一郎さんの葬式に彼女は来たんだけど……まあ、常識からは外れた行動をして勝手に帰って行ったの。その時に奈子にも何かを言ってたようだけど、奈子は何も話さないし気にしてなさそうだったからアタシも様子見をしてた』
――――浮気は、リビングに続くドアを開けようとした手を止めた。
(奈子の母親の話、か?)
聞き耳は良くないと思いつつ、浮気は首元にかけたタオルで髪を拭きながら耳をそばだてた。
『でも、最近宗一郎さんの昔馴染み……警察のお偉いさんなんだけどね。その人から聞いたのよ。大木の娘が裏社会の連中とも繋がりのある会社に出入りしてるらしい。それも自分の娘を婚約させようと動いているって、ね』
『は? おい、そりゃ一体――――』
「――――どういうことか、俺にも説明してほしいですね」
「な、浮気!? お前いつからそこに」
「ついさっきです。それよりも話の続きを聞かせてください。熊谷さん」
扉を勢いよく開け放って現れた浮気に、飯田が体を跳ねさせながら振り返る。それとは反対に、熊谷は気が付いていたとでも言うようにため息を吐いた後に手招いた。
「早かったわね。もう少しゆっくりしてても良かったのに」
「奈子の髪を乾かしてやりたかったので。なので奈子が来る前に早く話してください」
「……コイツ、ぶれねえな」
「ふふ。いいんじゃない? こういう子の方が奈子のことを幸せにしてくれるわよ。きっと」
お茶は? と聞いてくる熊谷に、要りませんと返しながら飯田を押しのけてソファに座った。おい! と文句を言う飯田のことなど構っていられない。
「まあ、アタシも奈子に聞かせるつもりはないから手短に話すけど。前提として、奈子の母親である美弥子ちゃんとアタシは幼馴染で同級生。そして奈子の父親と飯田先輩は同級生。アタシたちはみんな見吉高校に通う生徒だった」
「奈子の父親と飯田先生が……?」
「親友、と言ったほうが良かったかしら?」
「………………」
思いもよらなかった関係に、浮気は飯田を見遣る。しかし、飯田は親友と言う言葉に眉間の皴を深くして答えない。
「ま、アタシと美弥子ちゃんも特別仲が良かったわけじゃないんだけど。アタシは小学生の頃から奈子のお爺さんがやっていた道場に通ってたから、他の男子よりも話したことがあるって程度。美弥子ちゃんは自分の父親のことを嫌ってたしね。それに先輩たちとも美弥子ちゃんを通して何回か話したことがあるだけで、顔見知り程度の認識だった。……3人は学校でも目立ってたから、彼女があの男にしつこく付きまとっているのは知り合う前から知ってたけど」
「……このことを奈子は」
「知らないわ。アタシとは年の離れた兄妹弟子でね。奈子が小さい頃から道場で顔を合わせてて、宗一郎さんに孫の面倒を何度か頼まれたことがあったの」
「その、宗一郎さんは……」
「高校の入学式の日に亡くなったわ。元々癌で入院してたの。だから、ここ数年はこの家に奈子は1人で住んでいる」
(だから、2週間遅れで登校したのか……)
薄々気づきながらも、奈子を傷つけるのが……いや、傷をつけて嫌われるのが怖くて踏み込めなかったことだ。
もっと早くに知っていたら奈子のためにもっと何か出来たんじゃないかと、浮気は思う。
(――――いや、もう過去は変えられん。ならば今考えるべきは、これからどうするかだ)
頭を振って「もしも」を消し去った浮気は、奈子のために何が出来るかを考えるために続きを促した。
「奈子は生まれてからずっとこの家で?」
「いいえ。確か彼女が10歳くらいの頃だったかしら。宗一郎さんが奈子を引き取ったの。彼女が母親にネグレクトされてたのが発覚してね」
「っ、もしかして父親も」
「父親が誰か、美弥子ちゃんは宗一郎さんには言わなかった。だから、奈子は父親の名前も姿も知らないわ。未婚の母ってやつ。でも、アタシたちはきっとあの男が相手なんだって思ってた。美弥子ちゃんは彼に執着してたし、彼も彼で当時荒れてたしね。美弥子ちゃんが先輩を縛りつけたくて子供を……って可能性は高いわよ」
熊谷の推測に、浮気は振り返って飯田を見た。
「…………あり得ねえ話じゃねえな。アイツも実家のことで当時は荒れててな。もしかしたら子供がいることすら知らないかもしれねえ。多分、そうと知ってたら俺もその時点で気づいただろうし。アイツも全部投げ出して高校を辞めることはなかったんじゃねえかな」
「……そうですか。それで、奈子の母親が婚約させようとしてるってのは――――」
「――――婚約?」
浮気の言葉へ被せるようにして発せられた声に、3人の意識がドアの方へ向く。
「誰か婚約するの?」
――――顔を赤くして髪が濡れたままの奈子が、そこには立っていた。




