第58話 それでも王は立つ
それからしばらくして、セフィリアは目を開く。側に戻っていたライトは慌てて声をかける。
「セフィリア様!目を覚まされたのですか?」
セフィリアはゆっくり一つ瞬きをして、天井をぼんやり見つめながら微笑む。
「ああ、心配かけてすまなかった、もう大丈夫だ」
「本当に良かった!もうお戻りにならないかと心配しました」
感激のあまり目を潤ませ、抱き付かんばかりにセフィリアの手を取る。
「ありがとう。面倒かけたね。ずっとついていてくれただろう」
「いえ、そんな!とんでもございません!」
ライトは首を振る。
「早速悪いが、ゼドを呼んでくれるか?」
躊躇いがちに目を下ろしてライトの肩先を見ながら、そう頼む。
自分をまっすぐに見つめるライトの目を見ることはまだできなかった。
「承知いたしました。すぐに!」
慌しく駆け出したライトが部屋を出ると、セフィリアは優しく目を閉じ、ベッドに身体を深く沈める。
身体の力を抜いて、呼吸を繰り返す。両手のひらを開閉し、自分の体内に残る魔力を確認する。薬を飲む前と遜色ない魔力が自分の体内に存在することを確認すると、ため息のような息を漏らした。
私はまだ、私に戦えと言っているらしい。
「お待たせいたしました。セフィリア様、気がつかれて本当に良かった。お身体の方は?」
ゼドは部屋に入りそう声をかけると、セフィリアのそばに近づく。
「心配をかけて悪かった、もう大丈夫だ。ゼド、わたしが寝ている間は面倒をかけたな」
「いえ、今のところなんとか持ち堪えております」
ある程度想像はついていたことだが、いつも平静なゼドのこの表現は、かなりの苦境を意味していた。
「私は、どこに行けばいい?」
「お休みを、と言いたいところですが、やはりセレナスがかなり苦しい状態です」
「そうか、支度してすぐに向かおう」
ゼドは、言おうか言うまいかしばし逡巡し、迷いながら言葉を発する。
「……それと、セフィリア様がお休みの間のことですが、やつが来まして」
「ああ、リヴェルのことか。承知している」
「左様でございますか、ではよろしいのですが──」
少し驚いた表情で、ゼドには珍しく、弱々しく語尾が消える。彼の心中では、セフィリアとリヴェルの関係に対する複雑な思いが渦巻いていた。
「なんだ、らしくないな、言いたいことがあるなら言ってみろ」
セフィリアは促す。
「いえ、その……、おふたりはやけに親しいように見えたものですから」
その一言に、セフィリアはふっと目を細めた。
「だったらなんだ?」
「なんでもございません。ただ──セフィリア様を早速戦場へお連れしなければならない自分が、不甲斐ないのです」
「お前のせいではない、これは私の仕事だ。気にすることはないよ」
セフィリアはなんでもないように、鷹揚に微笑む。もう彼女の決意は揺らがなかった。
ゼドは悲しげに、自分よりも遥かに幼い少女に向かって微笑み返した。少女は、まだ、その体に全てを背負っていた。
「セフィリア様、私は、その──」
ゼドは言葉を探す。しかし、掛ける言葉が見つからなかった。これまで、掛ける言葉を探そうともしていなかったから。
セフィリアは黙り込んだゼドを訝しげに見る。
ふと、その戸惑うように自分を見下ろす顔に、幼い頃の記憶が重なる。
自分を見守り育ててくれたゼドの姿。まだ母が生きていた頃。そして母を失ってからの日々。エレニアを連れて現れた日の彼の、優しげな瞳。夏草の香り。
(──ああ、私は、忘れていた)
あの大切な日々も。守りたいと思ったものの正体も。
視界は火に焼かれ、叫びと嘆きに耳を塞がれて。いつも血の匂いを嗅いでいた。ただ逃げるように走り続けていた。
何もかも、仕舞い込んでいた。誰にも見られないように隠し続けて、自分にも見られなくなっていた。
「……ゼド」
セフィリアは思わず呼びかける。ゆっくりと、再びベッドにポスンと体を倒す。
ゼドは不思議そうにセフィリアを見る。セフィリアはしばらく黙って天井を眺めていた。
続きを口に出して良いものか、逡巡する。だが今までのままではいけない、とも分かっていた。周りの手を払いのけて、手を差し伸べた人々を傷つけながら歩くようでは。
彼女は天井をぼんやりと見据えたまま続ける。
「私は今まだ臥せっていて、だからこれはただのうわ言だけれど」
「……はい」
シーツを掴む指先に、縋るように微かに力が入る。
「夢を、見たんだ」
セフィリアは戸惑いがちに、言葉をその場に並べるように語る。
「今までにも何度も見た夢だ。
私は、ひとりで戦場に立っている。私の周りを多くの人間が取り囲んでいるが、私の声は誰にも届かない。
ただ、私が救えなかった民と、私が国を守るために殺したリュグルスの兵士たちが、かわるがわる私を責めるんだ。でも私には、どうすることもできない」
息を吐く。
「いつもどれだけ必死に手を伸ばしても、私の指の間から、命が溢れていく。もう数えることもできない。液体のように溢れて止められない」
セフィリアはゆっくりと続ける。もう布団の中に潜ってしまいたかった。鼻の奥がツンとする。震えそうになる声を抑えるように、言葉をゆっくりと選ぶ。
「こうするしか、なかった。迷ったことはないし、自分のしてきたことに後悔もない。私には、このようにしか生きられない。
……でも、だからといって、許されることではない」
「セフィリア様……」
「何度もこのまま狂ってしまいたいと思った。でも、どんな時でも、私の意識は正気を手放してくれないし、私の魔力は枯れてくれないんだ」
セフィリアは言葉を区切る。窓からぬるい風が吹き込む。
「……どうすればいい? 私はどうすればよかった?」
呟くような声。まるで独り言かのように。
セフィリアの瞳はぼんやりと、薄暗い天井を映している。その瞳はそのまま、動かない。
「ゼド、お前にもっと頼ればよかったね。私は結局誰のことも、信じていなかったのかもしれない。エリのことだって」
「……いえ、それは違います。我々がセフィリア様に負担をかけすぎたのです。本来自分たちが負うべき傷を、全てセフィリア様に負わせてしまった。
あまりに強く気高いあなたに、甘えてしまったのです。……私も」
「ありがとう、ゼドは優しい。いつだって私を支えてくれる」
セフィリアは微笑む。ゼドは反対に、泣き出しそうな顔をしていた。
「もうそんな顔、しないでください。
幼いあなたを、私は守るべきだったのに。あなたに何もかもを守らせた。それが国のためと、自分に言い聞かせてきました。
自分はレティシア様が残された国を、なんとしてでも守らなければならないと。それが自分の使命だと。
だからってあなたにこんなものを背負わせて、これではレティシア様に顔向けできません」
ゼドは声を絞り出す。セフィリアの前に座り目を合わせる。
「あなたが戻ってきてくれてよかった。もう遅いかもしれない、でも私にやり直させてください。あなたが拒もうとも、私があなたを、必ず守ります」
セフィリアは声が出なかった。どんな言葉を返せば良いのか、わからない。
守られることなど、ずっと拒んできた。拒んできたのは自分自身だった。そうやって拒み続けて、多くの者を傷つけた。
そのことに気づいていても、それでも拒む以外の生き方が、ずっとわからなかった。今だって、本当は分かってなどいないのだ。でも、ただ一つ分かっていることがある。
私は、進まねばならない。
「……ありがとう」
なんとかその言葉だけを喉から捻り出した。
セフィリアは一度目を閉じ、ゆっくりと開く。その目にはいつもの光が少しだけ戻っていた。ゼドの方へ顔を向ける。
「立て。行こうか、セレナスへ」
セフィリアはベッドから身を起こし、ゆっくりと足を床につけた。その動作ひとつにも重みがある。
ゼドは黙ってそばに立ち、彼女が完全に立ち上がるまで見守っていた。
「……着替えを頼めるか」
そう言ったセフィリアの声音には、いつかの気迫が戻っていた。
ゼドは無言で一礼し、部屋を出ると、侍女たちに支度を整えさせるよう命じた。




