第56話 無の世界
音もなく、光もない。
彼女の心は、無だった。ただひたすら暗い空間が広がっている。
「驚いたな」
足元には何もない。影すらない。ただ、闇だけがあった。彼女の心には、誰もいなかった。何もなかった。
どれだけの時間を、ここで過ごしてきた?どれだけのものを諦めれば、こうなる?
「隠しているとは思っていたが、お前はこんな孤独を飼っていたのか」
返事はない。リヴェルは何もない空間をひたすら進む。暗い空間は、果てもなく広がっていた。
しんとして、空気はひんやりと冷えている。静寂が肌を刺すように痛い。それは普段の、光に包まれた女王の姿からは、想像もできない景色。全てを諦め、押し殺してしまったような。
「セフィリア、そこにいるのか」
リヴェルは広がる空虚に向かって呼びかける。
どちらに向かえばいいのかも、どこに呼びかければいいのかもわからない。ただひたすらに名前を呼び続ける。
なんの目印もない空間で、自分の存在すら見失いそうな不安を覚える。ただ一歩、また一歩と繰り返し足を前に出す。
「返事をしろ、……お前は俺を、ここに入れたんだろう」
微かに、人の気配がした。
「静かにしてくれ」
少し先の足元から、掠れた声が聞こえる。
「やっとひとりになれたんだ。もう戻るつもりはない」
ぼんやりと浮かび上がった人影は、両膝を抱え、小さくうずくまっていた。
「セフィリアか?」
リヴェルは人影にそっと近づく。
「ほかに誰がいる? 本当はこんな姿、誰にも見せるつもりはなかった。お前がこじ開けたりしなければ」
俯いてそうつぶやくセフィリアの髪は乱れ、傷だらけの体に引き裂かれた衣服を纏ったその姿は、現実の世界よりかなり小さく見えた。
「静かだな」
リヴェルは、無の中でただひとりうずくまる彼女をじっと見つめていた。
「ここが、お前に残された居場所か? お前が自分に残した場所か」
あまりにも静かなその空間に、何もかもが溶けて消えていくようだった。その暗く空っぽの静かな空間は、セフィリアにぴったりと寄り添っていた。
「全部、切り捨ててきたんだな。最後のひとつも、捨ててしまったのか」
彼女は沈黙を守ったままだった。何も言わず、ただそのまま、無の世界に沈み込んでいる。彼女の目には何も映っていない。ただ空っぽの瞳がそこにあった。
彼は少しだけ深いため息をついた。
「馬鹿だな、お前は。──誰よりも、大切にしていたくせに」
やがて、彼女が静かに顔を上げた。微かに微笑んでいるようにも見える。
その表情は、何とも言えないほどに切なく、冷たく、そしてどこか儚かった。
「そうだったかな」
その声はあまりにも穏やかで、心の底から何もかもを諦めているかのように響いた。リヴェルの胸に、何かが締め付けられるような感覚が走る。
「どうしてここまでして、他人のために生きる? そこまでする価値があるか?」
「仕方ないだろう、私は、強く生まれてしまったんだ。果たすべき役割がある。それを果たすだけの力があるんだ。……こんな姿、誰にも見せる必要はない」
伏せた目に長いまつ毛が光る。
セフィリアは言葉を続けるのを躊躇い、ゆっくりと三度、重い瞬きをする。こんなことを、言ってしまってもいいのか。
ふっと、あの地下牢で、自分の体内を巡った温かな感覚を思い出す。それはまるで、春の風のようだった。
彼女はなおも躊躇いながらも、絞り出すように言葉を出す。
「……でももう、疲れた。……疲れたよ」
リヴェルの耳に届くか、届かないかの微かな音。
いまにも泣き出しそうな声だった。肩を落としたセフィリアは、さらに小さく見えた。静寂が彼女に寄り添う。何もかもを塗りつぶすかのような暗闇が彼女を優しく包み込んでいた。
「どうして、俺に見せるんだ?」
リヴェルの声色は優しかった。それは問いというより、セフィリアへの呼びかけ。
セフィリアは、はっとリヴェルの方を見上げる。しかし一瞬目が合うと、逃げるようにまた俯いた。
一度口を開きかけ、迷うように閉じる。なおもしばらく頑なに唇を結んでいたが、やがてゆっくりと、言葉を吐き出す。
「お前は、強いから」
小さく、消え入るような声。しかし一度話し出すと、もう止まらなかった。
「お前といる時の私は、強くない。初めはそれが居心地が良かった。私が全力で力をぶつけても、お前は壊れない。私の力で壊してしまうことなどない」
リヴェルは何も言わずに少し離れて隣に腰を下ろす。セフィリアはそちらを一瞥することもなく続ける。
「分からないか? だって本当は、お前は私と同じだろう? 誰にも心を許すことができない、理不尽に強大な力を持ったもの同士。
お前の目は私と同じだと、思った。その目がこちらを見ていた。お前の前にいる私は、たぶん、ただ、私だった」
リヴェルは答えない。
「本当はこんなこと考えるべきではないのは分かっている。きっともう、戻った方がいいんだ。……だって私はまだ、戦える」
視線を落としたまま、地面に向かってつぶやくように言葉を吐き出した。
「でももう私は、決心を一度手放してしまった。命を捨てると決めた時に。ついお前に委ねてしまった」
ああ、こんなこと、誰にも話すつもりなどなかった。──でも本当は、誰かに見て欲しいと、ずっと望んでいた。私のこの、心の内を。
「もうこれ以上、何のためにも立てない。私が残してきたものなど何も見たくない」
セフィリアは自分に言い聞かせるように、そう続ける。さらに俯くと、自らを痛いほどに抱え縮こまる。
ふたりきりの世界で、静寂が耳を突き刺す。風も吹かず、光もない。




