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晴霞の王  作者: 瀬戸榛名
第3章|王は、ここに在る

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第51話 空白の玉座

***


 ウェルリス王城、城門前に、ひとりの少女が立っていた。地味な外套に身を包み、顔は見えない。

 少女は手にした小さな花束を、そっと門の足元に置く。誰の目もない。ただ、夜の空気だけが彼女を包んでいる。


 その場に言葉はない。月明かりの中に立つ城は、かつての主を失い、どこかよそよそしく見えた。

 気高く美しい王はもはやここにはいない。けれど、かつてセフィリアに命を救われた少女――アルナは、そのことを決して忘れはしなかった。


 花びらが、風に揺れた。静かに、しかし確かに。


***


 静けさの満ちた王城で、エレニアは、自室の机に溜まった書類を眺める。これまでと同じように山積みになった書類。しかしそこには、見慣れた筆跡はもうなかった。


「エレニア様、今日のご報告、よろしいでしょうか?」


 レオンが部屋を訪ねてくる。彼女は頷くと、そっと着席を促す。


 彼は一礼して席に着くと、テキパキと定期報告を始める。


「まず国の経済に関してですが、農村部の復興がまだ遅れており、物価の上昇が止まりません。

国民の生活のためにも、経済政策は急務かと、方針ご指示いただければ、我々で検討します」


「そうね、国民の生活が最優先よ。そちらに予算を回して構わない。私も、復興地域に顔を出すわ。今度同行させて」


 レオンは、わかりました、と頷く。彼は各地方の報告を続ける。それぞれについて、エレニアは熟慮し、答える。何が国民のためになるか。この国は、どうあるべきなのか。


「やはりエレニア様は優秀で、お優しい方です。エレニア様のような方がこの国を導いてくださるのであれば、安心できます」

 レオンはエレニアを見つめる。


「ありがとう」

 エレニアは微笑んだ。


「でも、エレニア様、最近働きすぎですよ。たまにはお休みになってください。僕が、お支えしますから。

たまには以前のように、また一緒に息抜きに出かけましょう」


「そうね、少し落ち着いたら、きっと」


「そうやってまた、先延ばしに。僕は心配しているんですよ!」


 彼は不服そうな顔をする。


「分かってるわ。ありがとう。今だけだから、大丈夫よ」

 エレニアは笑った。

「ところで、この間訪ねたヤハル地方の様子はどうかしら?」


 レオンはやれやれ、といった顔で応える。


「ヤハル地方ですが、やはりまだ情勢は不安定のようです。

リュグルスの軍は、相変わらず動いていないようで、住人は変わらず不安げでした」


「そう……何かいい手があると良いんだけど……また私も様子を見に行くわ」


 セフィリアがウェルリスを去ったのち、約束通りリュグルスの侵攻は止んだ。しかし、戦いは終わりではなかった。

 彼らは軍事力を盾に、ウェルリスの領土を仕切りに要求してくる。退け続けるにも限界があった。

 どの街にも、そこに住む住人がいる。彼らを売り渡すことなどできなかった。


 リュグルスによって包囲された街もあった。攻められることはないが、その街の住人は負担を感じ、不満が募る。

 彼らが攻めてくることは確かにない。しかし、ウェルリスにはまた違った閉塞感が蔓延していた。


「はい、エレニア様がお訪ねになると、住人もみな喜びます」


 全ての報告を終えると、レオンは部屋を出る。一人残されたエレニアは、何かを探すように、また静かに机の上の書類の山を眺めていた。

 

 彼女は黙って部屋を出ると、王座の間へと向かう。

 そこには、今日も誰もいない。重い扉が静かに閉じられる音が、広い空間に響いた。

 その重い音は、ここが現実であることをエレニアに告げる。


 玉座に座るのは、セフィリアではない。

 彼女の姿がなくなってから、もう一月が過ぎていた。その席を奪ったのは、他でもない、自分自身。

 あの夜、彼女はセフィリアを裏切った。セフィリアの背中を支える代わりに、背中を押すことを選んだ。そうすることで、何かが守れると、そう思ったのだ。


『あなたさえ、いなければ……』


 そう言ったのは、自分自身だった。


 王都の貴族たちは、口々に言った。

「セフィリア様より、あなたの方が理性的だ」

「暴力より、対話の道を選べるあなたを」

「あなたこそが、王の器だ」


 そのたびにエレニアは微笑む。

 しかし、心の奥ではただひとつの事実が、ずっと重くのしかかっていた。


(──私は、セフィの代わりにはなれない)


 執務室に戻れば、山積みの書類。報告。陳情。戦後処理の議論。

 何もかもが、セフィリアがいない国の現実だった。


 決断することはできる。道筋を整えることも、声を抑えることも。しかし、本当に、これで正しいのだろうか。自分は、正しい決断ができているのだろうか。

 セフィリアのようになれるなどと、思ってはいなかった。でも──


 それでも、いまこの国を繋いでいるのは、自分だ。この手で決め、裁き、支える。その重さに、足がすくむ。両手が震える。


 しかしその震えを、誰にも、見せられなかった。自分にまっすぐ向けられた期待の瞳を前に、どうしても、震えを抑えて立つことしかできなかった。大丈夫、大丈夫と、繰り返すことしかできなかった。


(セフィ、あなたはこれを、ずっとたった一人でやってきたの?)


 隣に立って、彼女を見て、何もかも分かった気持ちになっていた。でも、何も本当には、分かってなどいなかった。


(私は、あなたを支えていると思っていた。でも全然、足りなかったわね。その上、こんなあなたのことを、臆病だなんて)


 ウェルリスを去った後のセフィリアの消息は分からなかった。


 王城のバルコニーから、街を見下ろす。遠くの空が霞んでいた。


「セフィ。……あなたには、見えている?」


 誰に届くでもない声。それを掻き消すように、風が吹き抜けていった。


「エレニア様!」

 伝令役が慌てた様子で部屋に入ってくる。


「何? またなにかあった?」


「はい、ダレンの街で暴動が……」


「暴動?」


「リュグルスの兵と住人が衝突したとか」


「……分かったわ。向かいましょうか」


 エレニアの顔には疲労の色が浮かんでいた。


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