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エピソード6:相容れない似た者同士④

 動物痕――その名の通り、人間ではなく、動物の『痕』、時に『遺痕』を指す言葉である。

 彼らも人間と同じように『関係縁』などが中途半端に残ってしまい、この世に留まり続けている。

 とはいえ、人間よりも弱いため、放っておけば消えることがほとんどだ。

 ただ、極稀に……霊的な力が強い動物痕の『関係縁』が、波長の合った人間の『因縁』に絡みつき、その人格に干渉する――いわゆる『とり憑かれた』という状態になってしまうことがある。


 取り憑かれた状態になった人間は、最初は動物に近い状態になる。

 犬のように吠えたり、猫のように爪をといだり……目に見えておかしな状態になるのと同時に、人間側もそんな異質分子を排除しようとするので、一時的な異変としてあまり大事にならないことが多いけれど。


 ただ――更にレアなケースとして、その『動物痕』の方が霊的に強い場合、とり憑かれた人間の『因縁』に侵食し、学習して……人間らしくなっていく。

 そして、いつの間にか『人間』と『動物』が入れ替わり、『人間』としてのモラルが消失したり、思いもよらない行動に出ることがあるらしい。これらの現象を『同化』と呼んでいるが、ほとんと使われることのない専門用語の1つだった。

 加えて、その侵食が『生命縁』にも及んだ場合は、動物の年齢が適応されることで体内の老化が早まったり、最悪、死に至る場合もあると言われている。


 『同化』さえしていなければ、人間の『因縁』に絡みついている動物の『関係縁』を切ればいいけれど。

 完全に『同化』した対象を『人間』に戻すための方法は――まだ、確立されていない。


 同時刻、里穂達5人は政宗たちが車を駐めたスーパーマーケットまで逃げると、店内にある飲食スペースの一角に陣取った。

 店内で買った弁当やカップ麺などを食べることが出来るこの場所は、日中であれば主婦などの、平日の夕方であれば学生のたまり場になっているのだが、土曜日の夜ということもあって彼ら以外に利用している人はいない。

 仁義が全員分の飲み物を調達している間、里穂は意識がうつろな勝利の隣に腰を下ろし、自身の膝の上で両手を握りしめていた。

 彼の『生命縁』に異常はない。ただ……『因縁』に1本、容認できない枝分かれを発見したので、今、里穂が両手で握って『縁』の修復を試みているのである。

 『因縁』は、個人の記憶や性格などを司る部分だ。ここが不安定になると自我が薄れ――最悪、崩壊してしまう可能性もある。それだけは絶対に避けなければならない。

 繋ぐんだ、何が何でも。そのために出来ることは全力でやってみせる。

 あの時――災害が発生して誰も助けてくれなかった時、どれだけ疲れていても笑顔で手を差し伸べてくれた政宗や統治のようにありたいと思う。誰かの悲しい顔は見たくない、見て見ぬふりなんか絶対にしたくない。

「名杙直系のど根性、見せてやるっす……!!」

 意識を集中させ、口元を引き締める里穂を、対面に座っている倫子が心配そうな眼差しで見つめていた。既に自宅へは連絡を済ませており、「今日の研修で一緒になった人たちと、交流会も兼ねて夕食を食べて帰る」と伝えてある。勝利の携帯電話へも彼の所在を尋ねる電話が入っていたため、先程倫子が電話に出て、同様の連絡を済ませたところだった。

 青白い顔で唇を噛みしめる倫子へ、隣に座る心愛が声をかける。

「阿部会長、大丈夫ですか?」

「私は……大丈夫よ。それよりも島田君が……」

 未だに一言も発しない勝利を不安げに見つめる倫子へ、戻ってきた仁義がそっと、ペットボトルのお茶を差し出した。

 そして、心愛にもいちごみるくの紙パックを手渡した後、彼女の肩を叩いて里穂の隣を指差す。

「心愛さん、里穂の隣に座ってもらえませんか? 僕よりも心愛さんが近くに居たほうがいいと思うので」

「わ、分かった……!!」

 仁義の指示で心愛は里穂の隣に移動し、心愛がいた場所に仁義が腰を下ろす。

 心愛は里穂の手の上に彼女自身の手も重ねると、意識を集中させて目を開いた。

「島田先輩は少し……ううん、大分うるさいくらいじゃないとダメなんです。絶対に戻ってきてもらうんだから……!!」

「ココちゃん……」

 自分の隣に座っている心愛が、普段よりもずっと逞しく思えた次の瞬間――今まで動きのなかった勝利の口が微かに動き、空気を微細に震わせる。


「――にゃぁ……」


 彼の唇から漏れ聞こえたのは、猫のような鳴き声だった。全員が呆気に取られる中、里穂だけはすぐに気を取り直して、今回の原因を察する。

「島田君、『動物痕』にとり憑かれたっすね……もう外れてるみたいっすけど、影響が残ったままで『縁』が不安定になるくらい、霊的に強かったみたいっす……」

 里穂の言葉に、倫子がピクリと反応してあからさまに体を震わせた。仁義が彼女にどう声をかけようか迷っていた次の瞬間――少し離れた場所から、意外な声が降り注ぐ。


「――島田君……!?」


 その低い声に聞き覚えのあった心愛たちが慌てて顔をあげると、視線の先にいた桂樹が、いたたまれない表情で佇んでいた。


 彼の姿を確認した心愛は、一瞬、身をビクリとすくませたが――今は彼に怯えている暇はない。

 立ち上がって近付こうとした心愛を、仁義が目線で制した。今は勝利のことに集中して欲しいという彼の意思を汲み取り、心愛は再び自分の作業に集中する。

 対応を引き受けた仁義は彼の方へ近づくと、現状を把握出来ていない桂樹へ向けて、単刀直入に問いかけた。

「桂樹さん、ご無沙汰しております。買い物の途中かと思いますが、緊急事態です。ご協力いただけませんか?」

 いつもより語気の強い仁義から、事態が切迫していることが分かる。しかし、見ただけでは状況を把握することなど出来はしないため、桂樹は仁義に現状を問いかけた。

「協力……? 一体何があったんだ。島田君はどうした?」

「ご協力いただける場合のみお話します」

 その問いかけを仁義はバッサリと切り捨てた後、視線をチラリと後ろへ向ける。

「見ての通り緊急事態で、政宗さんや統治さん、山本さんは別件対応中のため頼ることが出来ません。名杙からの応援を呼んでいたのでは間に合わないかもしれない。桂樹さんが『縁故』能力を剥奪されたことは知っているんですけど……今は名杙直系の『因縁』が一人でも多く必要なんです」

 仁義の視線と言葉に、桂樹は改めて勝利を見やり……彼の顔色や表情からある程度のことを察した。

「島田君は……まさか、『動物痕』に憑かれたのか?」

「話が早くて助かります。既に『動物痕』は離れていますが、『因縁』に深く干渉されていて、今、里穂と心愛さんで修復を試みている最中です。桂樹さんも『縁』の強化方法はご存知ですよね」

「……ああ」

 『縁』の強化方法も、最も有効な意識の入れ方も、何もかも知っている。

 彼の返事を聞いた仁義は、努めて淡々と離しを進めた。

「今の桂樹さんでは『因縁』が見えないかと思いますので、里穂が握っている手の上からお手伝いいただけると助かるのですが」

「俺と関わると、君達も何かしらの処分を受けることになるぞ」

 次の瞬間、桂樹の言葉を仁義は鼻で笑い飛ばすと、彼を見据えてはっきりと言い返す。

「僕らの処分と彼の尊厳、優先すべきがどちらなのか……分からないほど落ちぶれたつもりはありません」

 以前よりもずっと強い意思で見据えられ、桂樹は思わず息をのんだ。

 そして……自分を見つめる里穂と心愛もまた、仁義と同じ覚悟であることに気付き、里穂の隣に座る勝利を見つめる。


 島田勝利、彼が担当して政宗に引き継いた、『中途覚醒』の少年。

 スクールカウンセラーとして巡回していた桂樹の元へやって来たのも、既に中途覚醒者として『縁』が見えるようになっており、自分の変化に戸惑っていたから。

 桂樹は彼と話をして、その対応を政宗へ一任した。勝利の能力は一時的なものだろうという桂樹の見立てと、政宗自身が実績を欲しかっていたこともある。そして何よりも、勝利自身が『縁』が見えることに対してどこか及び腰だったから。

 要するに――勝利には『縁故』としての未来はない、そう、判断したのだ。


 そんな彼が中学生になって、何の因果か再会したのは……実はこれで二度目だ。

 一度目の時は、彼は見違えるほど明るく、元気に成長していて……当時、名杙を追われたばかりだった桂樹に対して、こんなことを言ってくれた。


「『俺は自分の仕事をしただけだよ』って。そうやってカッコつけないところが本当に素敵だと思うんです!! それに、名杙先生がいなければ、僕は政宗さんと知り合うこともなかったわけですから……やっぱり、名杙先生にもお礼を言わないとダメですよね!!」


 真っ直ぐに自分を見つめて、笑顔でお礼を言ってくれた彼は――今はもう、見る影もない。

 そして桂樹は、机を挟んで勝利の前に座っている少女とも面識があった。

 倫子もまた、桂樹を見つめてその名を呟く。

「最上先生……ですよね。島田君がお世話になったスクールカウンセラーの」

 最上、という名前に聞き覚えがなかった3人が桂樹をみると、彼は一度頷いた後、仁義の横を通り過ぎて、予備の椅子を持ってきた。そしてそこに腰を下ろすと、勝利を真ん中にして里穂の反対側に腰を下ろし……里穂と心愛に改めて問いかける。

「俺はもう、名杙との『縁』は切れているから、名杙直系としての能力は以前よりずっと薄れていると思う。それでも構わないか?」

 刹那、2人がそれぞれに声を上げた。

「いないよりマシっす!!」

「こっちは猫の手も借りたいくらいなんです!!」

 こう言って桂樹を見つめる瞳は、彼が4月に見た時よりも、ずっと強くなっていて。

 この数ヶ月で『縁故』として成長した――その一端を垣間見たような気がした。

「……分かった」

 2人の言葉に桂樹は呼吸を整えると、心愛の手の上に自身の両手を重ねて――目を閉じる。


 次の瞬間、勝利が激しくその場で咳き込んだ後、痙攣しながらテーブルに突っ伏した。


 驚きで反射的に手を離そうとした里穂と心愛の手を、桂樹の大きな手が少しきつめに押さえつける。

「まだだ。拒絶反応が治まるまで決して離すな」

「わ、分かったっす……!!」

 彼の指示に素直に従った2人は、そのまましばらく勝利の『因縁』を握り続けて……痙攣していた体の震えがおさまったことを確認した桂樹が、そっと、自身の手を離す。

 そして。勝利の脈拍や呼吸音を確認した後、里穂に向けて指示を出した。

「島田君の『因縁』は、どうなっている?」

「へっ!? あ、えぇっと……戻ってる、ちゃんと戻ってるっすよ!!」

 里穂の明るい声に、心愛が安堵したような表情で息を吐いた。目に涙を浮かべた倫子に仁義がポケットティッシュを差し出して……改めて、桂樹を見つめる。

「桂樹さん、ありがとうございました」

 仁義自身、桂樹にはあまり良い印象がない。名杙に居た頃の彼は、仁義や里穂などの分家筋を格下に見ており、中途覚醒で見た目も特殊な仁義は、何度となく嫌味を言われてきたのだから。

 だからこそ……彼が名杙を追われたと知った時、少し安心してしまった自分もいた。

 もうコレ以上、桂樹の視線に怯えて本家を歩かずに済むのか、と。

 だから先程、桂樹を見かけた時は……当時のことを思い出して、自分を鼓舞するために語気や口調が強くなってしまったけれど。

 桂樹にあの頃ほどの冷たさや毒気が感じられなかったため、拍子抜けしてしまったことも事実。

 最上――そう名乗るようになってから、色々と変化があったのだろう。どうして倫子とも顔見知り7日尋ねたいところだが、勝利の無事を確認した桂樹は立ち上がり、椅子を元の位置に戻した。

 そして……彼らに背中を向ける。

「知っている生徒と偶然居合わせて、具合が悪かった彼を介抱した。それだけだ」

 それだけを言い残し、彼は静かに店から出ていった。


 時刻は少し戻り、肇の室内で彼と対峙しているユカは……現状を打開する策を必死に考えていた。

 ユカ自身、『動物痕』の対応はやったことがないわけではないが、あくまでも初期消火のみ。ここまで『同化』したケースそのものがレアであることを考えると、恐らく政宗と統治も自分と同じ経験値だろう。

 ユカは静かに政宗の隣に立つと、彼を見上げて声を掛ける。この場合、視線が下るユカが交渉役を引き受けると、彼が自然と背中を丸くするため……頭上から伸びる『因縁』が見やすくなるためである。

「小野寺さん……足元に猫がいますね。それ、今日のお話で仰っていた猫ですか?」

 ユカの言葉に彼はピクリと反応すると、更に嬉しそうに口元を緩めた。

「貴女も見える人ですか。そうです、この子は――弟が可愛がっていた猫です。名前をチャイといいましてね、毛が茶色だからチャイだと……そんなことを言っていました」

「そうですか……それで、小野寺さん自身にも猫が取り憑いていることには、気付いていますか?」

 この問いかけに、彼は――ゆっくりと首肯する。

「はい。僕は体内に猫を飼っています。これは、僕が望んだことです」

「小野寺さんが望んだこと……?」

「その通りです。僕はこの猫を飼っているおかげで、弟を見つけることが出来た。そして――彼と会話することも出来るようになったんです」

「会話を……?」

 そう言われたユカは改めて彼の弟をみるが、特に言葉を発する様子はない。

 しかし、肇は終始楽しそうに語っている。ユカは顔をしかめ……ふと、とある可能性に思い至った。


 『動物痕』は、波長のあった人間の『因縁』に絡みつき、『同化』して――学習していく。

 それは人語であったり、人間の所作だったり……動物にない情報を汲み取り、彼らのルールと混ぜ合わせて上書きしていくのだ。

 例えば、『動物痕』が共喰いのような形で彼の弟の『痕』を侵食し、意識を乗っ取るような形であれば、同じく『動物痕』が体内にいる肇と、話をすることが出来るのかもしれない。

 しかし、猫は本来、自分で人間の言葉を覚えることが出来ない。肇に取り憑いた『動物痕』は肇から人語を学ぶことで、この世界に溶け込んでいるのだから。


 ――じゃあ、同じようにすればいいだけのこと。


 もしも――眼の前の猫が、人間の情報を断片的に学習しているのだとすれば。

 その対象に、彼の弟と同じ年代の子どもが選ばれたとしても……何もおかしくない。

「学習、させているんですか……? 中学生を使って、その足元の猫に……!?」

「っ!?」

 ユカの呟きで察した政宗が、肇と足元の猫を交互に見やり……両手を強く握りしめた。

 肇は恐らく、何も知らない中学生に『動物痕』となったチャイを無理やり入り込ませ、自分の部屋に連れてきていた。チャイは肇の後をついてくるので、世間的には対象者が自主的に彼へついていくように見えるため、通報されることはない。

 そして、この部屋である程度、チャイに人間の情報を学習させてから……人間側が限界になったところでチャイに出てくるよう指示を出し、利用した子どもを解放していたのだろう。だから、彼らに記憶は残らない。むしろ、情報を吸い取られているようなものだ。

 先程部屋にいた勝利の顔を思い出し、政宗は奥歯を噛み締める。

「無関係な子どもだけじゃなくて、死んでも死にきれない人にまで……なんてことを……!!」

 そんな彼を肇は侮蔑するような眼差しで睨み、苦々しく吐き捨てる。

「君は大切な人を亡くしたことがないだろう? だからそんな綺麗事が言えるんだ」

「――っ!!」

 激高しそうになった政宗の服を、ユカが強制的に引っ張ってその場に押し止める。

 今の相手には何を言っても無駄だ。逆に興奮させて逃げられたりするほうが厄介なのだから。

 ユカは統治と目配せをした後、彼が静かに上着のポケットからペーパーナイフを取り出したことを確認した。そして政宗の服をもう一度引っ張ると、悔しそうに自分を見下ろす彼に小声で活を入れる。

「政宗が辛いことを訴えたところで、あの猫には通じんよ。今は少しでも彼と『動物痕』を引き離すことを考えんと」

「……悪い。そうだな。しかしどうすれば……」

「今の所、『生命縁』までは侵食されとらんみたいやし、一か八か、小野寺さんの『因縁』と体内の猫の『関係縁』を切れるといいっちゃけどねぇ……」

 ユカは改めて肇の頭上にある『因縁』を見やり……苦々しく息を吐いた。

 『同化』している状態の『縁』を引き離すことは出来ないが、まだもしも、完全に『同化』しきっていない場合は……相手が理性をなくすまで激高させるか、不意をついて油断させることが出来れば、肇の『因縁』に絡んでいる猫の『関係縁』が緩む、かもしれない。

 とはいえ前者はどうしてもリスクが高く、暴れている相手の『縁』を正確に切ることは難しい。かと言って、これだけどっしり構えている相手の不意をつくことも至難の業だ。

「なんかこう、隙を作る方法はないっちゃか……」

 ユカが何度目か分からないため息をついた、次の瞬間――2人の横を、蓮がすり抜けていく。

「名波君……!?」

 ユカの呼びかけにも応じず、蓮は静かにテーブルの前に立つと、彼が食べかけで放置していたクッキーの袋を手にとった。そして彼の前に移動して、肇を見つめる。

「小野寺先生……僕は、先生の気持ちがよく分かります」

「名波君……!!」

 理解者を見つけた肇の声に、わかりやすく喜びが混ざった。ユカは彼の同行を見守りつつ、自身もポケットに手を入れて、いつでもハサミを取り出せるように構えておく。

「政宗、出入り口をお願い。何かあったら頼むけんね」

「分かった」

 こう言って政宗は後ろに下がり、蓮が立っていた位置につけて出入り口を塞いだ。統治もまた、蓮の様子を注視しながら、少しだけ2人に近づく。

 蓮は肇を見つめたまま……自分を求めて受け入れようとしてくれる彼に、心のどこかで安堵していた。


 ――そう、この気持ちを、蓮は良く覚えている(・・・・・)

 

 彼と話をしていると、つい、余計なことまで喋りたくなるほど気を許してしまう。

 初対面の肇にそう思ってしまうことが不思議だったけれど……今、その理由がはっきり分かった。

 当たり前だ。

 だって、彼に取り憑いている『動物痕』は――


「僕も……目の前に姉さんがいたら、どんな手段を使っても話をしたいと思います。その手段を知っていたら、尚更です。大切な……家族ですからね」

「ありがとう名波君。君は僕のことを理解してくれると思っていたよ」

 肇はそう言いながら、ユカと統治が自分を包囲していることにも気付いていた。だからこそ2人も現状を見守るだけで……蓮がどんな手段で彼の気をそらそうとしているのか、その瞬間を確実に活かせるよう、気を張っている。

 蓮は手元のクッキーを袋から1つ取り出すと、肇の眼前に翳した。

 彼の目が、自分の大好物を捉える。

「これ、さっき僕ももらったものですよね。折角なので、1つ頂いてみてもいいですか?」

「勿論だよ。卵の甘さとバターの風味が調和していて、とても美味しいんだ。名波君にも気に入ってもらえるといいけど」

「ありがとうございます。じゃあ――」


 そう言って、蓮がクッキーを右手で口へ運ぼうとした瞬間――彼はわざと(・・・)、それを下に取り落とした。

 肇の目がその動きを追い、慌てて反射的に体を屈める。


 次の瞬間、蓮は持っていたクッキーの袋をひっくり返して、床の上に全てぶちまけた。

 突然の音とクッキーが落ちる音に、彼がビクリと萎縮したのが分かる。

 蓮は空いた手で自分の目の前にある肇の『因縁』を掴み、それを――駆け寄ってきたユカへと託した。


 肇の視線が、注意が、全てそちらへ向いている間に、ユカは蓮から受け取った『因縁』を見据え、緩みの生まれた『関係縁』に迷いなくハサミを入れた。

「っ――!?」

 刹那、その『関係縁』から軽い電流のような反動を感じて、咄嗟に手の動きをとめる。

 これを切ってはいけない、『縁故』としての本能が警鐘を鳴らす。

「これって――!!」

「山本、ハサミを抜いてくれ」

 統治の声にユカは慌ててハサミごと手を引っ込めると、統治にその場を託して肇から距離を取った。

 そして――


「――気付いとるよ」


 一言呟いた後、空間に漂う対象の『関係縁』を掴み、躊躇いなくハサミを入れる。

 肇の異変に気付いて飛びかかってきたチャイの『関係縁』を、ユカはその場で冷静に処理した。


 体内に居た『動物痕』との『縁』が切れたことで、肇の体が為す術なく床の上に放り出される。

 そして――部屋の中に、静寂が戻ってきた。

「小野寺先生……」

 蓮はその場に散らばったクッキーと、その上に倒れ込んだ彼を見つめ……再び違和感を感じていた。

 クッキーを受け取ったときにも思っていたのだが、先程の彼の言動に、何か大きな矛盾があるような気がしてならない。

 そして、思い出した。今日の午後、彼が語っていたことだ。

「小野寺先生……そういえば、卵アレルギーなんじゃ……」

 避難時は重度の卵アレルギーのせいで苦労した、そんなことを言っていた人物が、卵の味が特徴の1つであるクッキーを食べて……大丈夫なのだろうか。

 一抹の不安と疑問は残るものの、とりあえず終わった――その場にいた全員がそう思って倒れる彼を見た瞬間、全員が驚愕で目を見開いた。



 肇の『生命縁』が、途中でプツリと切れていたのだから。

桂樹と勝利の再会に関しては今年の桂樹誕生日に外伝で書きましたので、気になる方はそちらもぜひどうぞ!!(https://ncode.syosetu.com/n9925dq/67/)


猫の名前は、タピオカミルクティーが流行っているとニュースでやっていたのでチャイにしました。(どういうことなの)

動物痕の恐ろしさを感じていただければと思います。あと、食べ物を粗末に扱ってはいけません!!

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