441号室 11
私は最後に部屋に立ち寄った。忘れ物も手続きもどうでもいいが、これから私は消えるのだから、部屋にも何も無いようにして行くつもりだ。最期の時期に世話になった部屋の景色。私が見る最後の日常的な風景になる。
片付けに苦労はない。戸棚を開けて、《汎用機械》から「ダストシュート」というコマンドを実行した。要らない物がみるみる戸棚に飲み込まれた。
詳しくは知らないが、[歪曲位相]とかいう空間にストックされるらしい。ストックしておいて、新しい神が来た時、必要とすれば分配するとか。
部屋は、あっというまに、まっさらな白い部屋に「復元」された。部屋に私が引き込もっていた痕跡もない。
最後に私は、《汎用機械》を穴に放り込んだ。手順はこれでいいはずだ。
鍵の役目をする《汎用機械》も手放した。私と《創舎》との繋がりは一個もなくなった。
カーテンは下りている。せめてもの自己主張というわけではないが、上げないで行こうと思った。この部屋には前に引き込もりが居た――。次に来る神は知る由もない。
部屋を見渡し、ドアを閉めようとした時、窓際に置かれた物に気付いた。
カーテンの前に、小さなマグカップが、そっと置かれている。
私は胃から胸に感情が湧き上がるのを覚えた。眼球が潤みそうになる。しかし、ゆっくり瞼を閉じて、こらえた。……はぁ。まいった。ダメだ。あのマグカップ。なんで湯気が出ているの? 飲めとでも言ってるの? いや、わかるよ、この世界のマグカップだし、保温ぐらいはさぁ。
でも、部屋の奥からここまでたなびいてくる香り。
なんなの、この芳香。
こちらの世界で唯一、石とガラスのにおい以外で、私の鼻に届くことができた香り。
この香りが入ると、私の内部は石化が解けて、石の色をした世界には亀裂が入り、色が溢れてくるようだった。
このお茶の香りは、一緒にお茶を飲んだ景色を、私に召び起こす。
《創舎》での一つだけの、思い出。そう言ってもいいもの。
飲みたくなる。
だめだ。私は入り口で立ったまま、躊躇する。いつアマネが? 私は鍵を開けていたのか? いや、どうでもいい。
絶対に言えることがある。アマネが私のためにお茶を淹れてくれていたということ。妄想? アマネが自分で飲んだカップを忘れただけ? いや、ちがう。あれは私のお茶だ。そういう気がしてしまう。
でもいけない。私は今、確信がある。ここで部屋に入り、飲んだら、脱けられなくなってしまう。死の決意が弛緩する。
「どうした……飲まんのか?」
うしろから声がした。抑圧のきいた言い回し。
ルートヴィヒが立っていた。気配を悟らせない近付き方。壁に背をもたせ、片足をまっすぐに、片足を軽く曲げ、腕組みして立つ姿。自称「厨二の全奥義を使用可能の地獄の侯爵」。看板は偽りではない。じっさい背後を取られていては、何を言っても引き立て役か。
「その茶……『双丘』が置いていったモノではないのか。好意を無にするのか? もっとも、あいつには好意以外存在しない。ククク。面白い奴よ」
「闇のルートヴィヒ」――私の知る中でも屈指の実力を隠した神。正確には、それも違う。この男は私の前では、実力を出せないのだ。私が壊れてしまうと知っているからだ。こいつが実力の一端をほどいただけで、私は精神崩壊する。
ヤミルト。こいつは当然、私が何て答えるかを知っている。無意味な会話をすること、演技そのものの醍醐味を、心から愉しんでいる。こういう奴らばかりだ。だが私は、ヤミルトの想定に寸分違わず答える。今の感情を言わずには、私は居られないからだ。
「アマネのお茶は、私をリラックスさせる。飲んだら、居付いてしまいそうだからね」
「貴様だけではないさ……。『蒼穹』の茶は、神々のおれたちをも緩める。胸の裡に涼やかな空気をそよがす。それが『蒼穹』の力だ」
「そうかもね」
でも私にはそうじゃない。それだけじゃない。
アマネは、《創舎》での唯一の友達だった。特別な相手だった。私は特別に楽しかったんだ。楽しかった思い出が去来して、帰れなくなってしまう。消えようと決意をしたのに、心残りができたら、平静なココロが破かれてしまう。
「自信がないのか?」
闇ルトは片目を眇め、嘲弄するように尋ねる。
知ったようなコト言いやがって。いや本当に知っているのか? 私が消える決意をしたことを、見透かしたような目。真意を悟らせない。実際に知らなくても知っているとしか見えない、隠しの技巧。その技巧がこの男では芸として成立している。とんでもない奴だ。
「もう飲む意味がない。アマネはここに残る。私は残らない。だからここには何も残さない」
「それはどういうことだ?」
「帰省するわ」
「ふむ、帰省……」
ルートヴィヒは片腕をほどき、鼻っ面を掻いてみせ、気のないように虚空を見上げてみせる。4階まとめ役をしているこの男は、仕事柄、私の情報を調べるのは簡単。調べすらせず、私の空気から全部の事情を把握することも、できてしまうだろうが。
「戻らんのか。此処には」
「解っているんでしょ?」
「フ、違いない」
ヤミルトは、このタイミングとばかり、肩をすくめてみせた。美しいすくめだ! 不覚にもそう感じた。
ヤミルトは、上着をたくし上げるように、ズボンのポケットに手を入れ、いっけんタバコに見える灰色の葉巻を出し、吸い始めた。《アウラ草》とかいう、奴の厨二ネーミングの産物。吸うだけで、食事と睡眠一日分と体細胞のメンテナンスを兼ねる嗜好品らしい。グルメ趣味でない神や、研究に没頭しがちな神々が、しばしば使うという。
ルートヴィヒは、私に向けて、盛大に煙を吐いた。吹き付ける濃密な煙。咽せるとか煙たいとか以前に、脳髄がキンとして、意識がふらついてくる。神の嗜好品は、未達の私にとっては、濃密すぎるんだ。これはヤミルトなりの餞別。慰めという偽りを投げないところは、さすがは研究者。評価してやらなくもない。口にはしないけど。
私はヤミルトの葉巻を奪い、靴で踏んで消した。嫌がらせに見えて、葉巻を吸われてはまともに話ができないからだ。向こうも判っているだろう。取り上げられた手を上げたまま、黙って片眉を顰める。
「むかし、ここに初めて来た頃……。『目をつけた幼女は全員抱いてきた』って、あんたの噂を聞いたけど、本当なの?」
「……さあ、なんのことかな? 『蒼穹』の時空間に行ったら誤解を招きそうな物言いだな」
フ、と笑い、ヤミルトは煙に捲く。だが、否定はしなかった。つまり、そういう答えだ。こいつの研究テーマは確か、幼女の研究。研究者は貪欲でなければ勤まらない。こいつは好きになった幼女は全員物にしてきた。そう考えるのは不自然ではなかった。
私はヤミルトに正対し、ジッと目を見詰めて言った。
「だとしたら、私はただ一人、あんたの毒牙にかからなかったことを、とても誇りに思う」
言ってから、自分の台詞が厨二がかっていると気付く。ヤミルト病が伝染したか。こいつだって神だ。気分は悪くはなかった。高揚感もある。
「今は、そう思っているかもしれん。だが、どうかな。おれさまが眼を付けた奴は、自分から頼み込んでくるんでな。『家来にしてくだしゃい』と」
「それはもう、ないわよ」
私は失笑を向けた。別れの儀式は終わった。「じゃあね」なんて言うのは無粋だ。代わりに、こう言った。
「せっかくだから、アマネのお茶は、あんたが飲んでおいて」
私は扉に触れた。血を溶いたゼラチンのような色の扉。中に居るのが神未達だと示す、差別の色。明日も居ると思えば呪わしいが、去る今に限っては、懐かしい気持ちもなくはない。
扉を閉めた。ガシャンと音がした――。フロアを、あとにした。




