自殺
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《創舎》ではずっと私は眠っていた。初めて起きた気がする。今は自分で動ける。
アマネと友達になれて、すこしだけ肉体と心が動けるようになって……。そうしてやっと、自分で自分を、動かせるようになった。
アマネは神として一人立ちした。私にとっては、それは別れだった。はっきり道が別れた。アマネは、この世界に元から居たように順応し、適性や、やりたいことを、次々見いだしている。
自分はいまだに愚鈍な芋虫のようだ。何も変われない。ここに来て以来、進歩は何もない。アマネの自立がきっかけで、自分がここに残っても成果は無い事を覚った。期限の一日前に覚ったとは失笑だけど、自分の事には諦めが悪いのが人間だ。恥ずかしいかぎりだ。
あの時、音楽に酔うアマネを残して、自分は立ち去った。
つまりそういうことだ。彼女は残り私は去る。
これ以上居ても望みがないのなら、この廃棄物を始末する。期限まで留まっていても、平坦な悲劇に覆われるだけ。
私は悲劇を壊す……。
神になれなかった奴が悲しんで《創舎》を去る。頻繁に量産される、ぬるい悲劇。私は、させない。半端者をくるむ、ぬるい悲劇に、一矢報いてやるぞ。
神しか居られない場所に、人間はいつまでも身を置けない。ゆえに期限だって切られている。言うまでもなく、ここを「去る」とは死ぬこと。
期限が明日なら、それより前に行く。
行くんだ。今すぐ、死にに。行けるか? 私に?
死ぬのは、大丈夫。今なら飛び込める……と思う。このまま、指をくわえて、平凡な悲劇が開演するのを、見ていられるか。ちょっとは、マシにしてやる。悲劇の奴に泡を食わせる。私は今すぐ死ぬんだ!
これは只の弾みに終わるのか? 必然という整った文脈となるのか? 自分の働き次第だ。悲劇のやつに、「私は月並では終わらなかった」と、そう言って死んでやる。「私は自由なんだ」。そう言って死んでやる。それも、月並か? いいえ、違うわね。
私は今、ここに来て初めて、自分の望みで動く。それが死とかいうゴミのようなカタチだけど。
神になれなくても、私は、凡庸な人間にだけはならない。自分がやれることを、やるんだ。
悲劇め……。私を吸い尽くそうとする闇め……。お前の軛から脱してやる。あとは死が待っているだけだが……知ったことか。あとは勢いだ。私は自殺するぜ! さよならだ!
向こうにいる友人のことがアタマをよぎった。
私には、ただ一人の友人が居た。他の人間は、友人には足りなかった。人間である事に留まり、神になろうとはしない、ただの人間だった。人間は、生物的・物理的存在にとどまり、半分無意識で群れて生き、個体レベルの幸福を追求する。私はそれを否定しない。ただ、人間と居ると疲弊するだけだ。
私は、人間の幸福では飽き足らなくなるのだ。人間は自分達のことを、せいぜい半端にしか知らない。だから、どういう状態が人間であるか、解らない。人間の範囲外である神の事を説明しても、理解不能になる。
「それが人間の行為に過ぎない」ことが理解できず、自分達の幸福が、最高の幸福だと盲信するし、ときには、強要もする。私は、人間が神に成り得ることを知っているから、人間達の人生は幸福ではなく重苦しい。児戯に等しい。
私は生まれた瞬間に、生まれたことを呪った。また、人間が生まれることは、生まれたことを呪うことだと、瞬時に判った。その程度の、宇宙的な知性からすれば、わりかし暗愚な程度の、明晰さは持っていた。
カラダとココロを持つことの重み。
人間には、カラダとココロの範囲内での、活動制限が掛かる。
生まれたことへの呪いも、活動制限が掛かって生きてゆく今後に対し、必然的に吐かれる感情である。
だが、人間は育つにつれて、カラダ・ココロ内の活動が当たり前のように思われ、やがては「カラダとココロこそ自分である」と、そう感じるに至る。ほとんどの人間がこの錯覚に嵌る。カラダとココロに嵌められているに過ぎない。
カラダもココロも、単なる物理的機能であって、肉体が死ねば消える。
そこには神へのルートは無い。
人間達は、ココロを神秘的に扱い、其処に神が宿るかのように宗教的に信じているけれども、それはココロによる罠だ。
単なる脳の物理的機構の表れがココロだ。脳は、それを見抜かれるのを怖れる。だから「ココロが神である」というウソの教義の下、ヒトを従える。
ヒトは時に肉体を神様扱いもする。
それも世迷い言。花畑が一面に乱れ咲いている。
神は、肉体の出生や消滅に左右されない。神が人間のカラダやココロを借りることはあっても、人間のカラダやココロが神の条件であることはない。神は、神に成った者にとっては勿論だし、神の予感が遭った瞬間にすらも判る、自明な存在であって、カラダやココロの制限は受けない。
神に成るのは誰か? 自分のいちばん奥底の者であって、カラダやココロではない。いわば、神は初めから神なのである。これは私には自明の事だ。だからこそ、出生して、カラダとココロに嵌められたことを、窮屈だと感じもするのだ。もっとも、私よりも神の才に飛んで生まれた者は、カラダとココロの軛を一瞬で千切って、この《創舎》にて安らいだりできてしまう。
神という、自明の事を、人間は理解しない。理解できない。理解したくない。
神の方向へは目もくれず、カラダとココロの涵養に一心になっている。生まれた途端に、肉がもたらす錯覚に嵌り、ずっと、そのままなんだ。
人間達の人生を一言でいうと「カラダとココロで生きるべきだ」に集束する。人間と付き合うと、この流儀を陰に陽に強要する。それは、多かれ少なかれ強要するよう、カラダとココロは造られているからだ。脳は方向性を持つ。或る方向へパワーを及ぼしたいという本能をもつ。「べき」や「正義」をもつのだ。悪夢にすぎない。カラダとココロは自分の本体ではなく、制限にすぎない。カラダもココロも取り去っても残っている者の処にしか、神は現れない。
私はそうした事を判るけれど、人間は判らない。
人間は徹頭徹尾人間の内部で生きる。
勿体無いと思ったこともある。人間が動物を観察できるように人間についても観察できることが、人間の特殊性なのに、人間達はそれを部分的にしか使おうとしない。その理由も解る。この特殊性も、カラダとココロにジャミングされてしまうからだ。人間達からすすると、動物にするように人間を観察できる事は、信じ難い事なのだ。だから、神のことを私が語っても、世迷い言扱いしかされない。友人以外には、語ったこともない。私や、友人は、ヒトの中の少数派といえた。神に通じていた。
友人と会うと、私はいつも安堵を覚えた。自分と同じ人間が、もう一人居るおかげで、自分が本来の状態に戻る感覚があった。
友人は私のような観察派ではなく、生まれつき本来の自分を保つことができる、感覚派であった。何となく、自然に、適当に、自分を保つことができた。
性格も異なっていた。私は他人とあまり会話するほうではないが、友人は明朗で活発だった。
私は図書館の常連で、しばしば本を読むが、友人は一冊も本は読まなかった。代わりに、授業が終わると、いつも体を動かしていた。
私が本を読むのは、暇潰しではなかった。
観察の深度を維持するためだ。図書の大半は、時代に埋もれる紙屑にすぎないが、本来の知性を持った人々が書いた著作には、私の観察と同じ事が必ず記されてある。人間の正体と幻想について記してある。
カラダとココロの力は強いので、常に観察を幻惑し、霧で隠そうとしてくる。違う時代に居た、共通の観察をした人の言葉に触れて、私は観察を維持していた。
本来の自分を持った人間が二人居ると、他人との間では不協和音にしかならないところで、共鳴現象が起きる。友人と居ると、私は、カラダとココロのジャミングが解けて、開放的な気持ちになり、本来の自分で居られた。
振り返れば、友人は、私に神への通路を開いてくれた。私が《創舎》に来れて、神未達にまで達したのは、友人のおかげだろう。一人なら、時間が掛かったか、来られなかっただろう。
一方、《創舎》に来られたおかげで、解ってしまった事もある。
それは自分のカラダとココロの個性。誰よりもとは言わないが、『魔王』を付けられるレベルの重量であること。闇であること。闇は私を《創舎》に招待したが、また私を《創舎》から追い遣る物でもある。
友人の事を考える。友人も《創舎》に来たことがあるのだろうか? あの友人のことだから、ずっと以前に来て、本人も知らないまま、過程を完璧に了えているのかもしれない。《創舎》には、課程を終えてもとどまる神もいれば、一瞬で通過して現世へ戻って行く神も居る。
私は、能力の定着には至らず、此処を去る運命にある。結局、闇に潰されてしまうわけだ。闇のとてつもなさを、私は扱いかねた。どう対処すれば、定着できたのか、最後まで気付かなかった。まことに残念だ。友人と並べなかったことは。
友人と居る時間は、無条件で肯定できる時間だった。またあの軽い空気の中で、二人して過ごしたかったが、私が元の世界に戻ることはなくなった。
神への過程には二択は無い。神にはただ成るしかない。なぜなら、いちど神を観て、人間に引き返すことはあり得ないからだ。軽い空気を知ったら、それまでのカラダとココロの重さを初めて知る。蛹になれば羽化するか死ぬかだ。重さの中で再び生きる仕組みは無い。
友人とは約束をしていた。それは、また会おう、と。
すまないな。私は闘った。けど、胸は張れない。ぶざまだった。引き込もりになってしまったし、ずっと寝ていたよ。鬱にくるまって、使用済みの足拭きマットのようにくた~っと、部屋に転がっていた。
それでもな……。私は私の器で、できることはやったよ。そして敗けた。お前に顔向けはできないが、納得はしている。
私は、最後まで、できることはするよ。
闇の言うことなんか、聞かない。
私が言う事を聞いてやってもいいのは……。お前だけだ。お前なら、唯一、私の悩みも喜びも、そのまま理解できそうな気がするからだ。




